
特集 宿場町


中仙道馬籠付近(岐阜県中津川市)
富嶽百景「江尻」葛飾北斎

日本平から旧江尻宿(静岡市清水区)と富士山
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中仙道奈良井宿(長野県)塩尻市
宿場町は、「江戸時代に江戸を中心とした国土を形成する為、日本橋を起点に各都市へ整 備された五街道沿いの集落に制定された町」であり、「公文書や旅人 を宿場町から宿場町へ運ぶ人馬の提供を幕府に課せられ」たが、一方では「土地にかかる課税 が免除され」、大名や旗本、幕府の役人などが泊まる本陣・脇本陣や、一般人が宿泊する旅籠が建ち並んでいた。「江戸時代に制定された宿場町は、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五 街道だけでも 197 箇所」あり、当然のことながら「五街道以外にも街道は存在しており、宿場としての機能 を持った」多くの町が形成された。
宿場町の典型的な当時の様子を知る手掛かりになるのは、島崎藤村の「夜明け前」だ。この小説の舞台となった、中仙道「馬籠宿」(現在の岐阜県中津川市)の幕末から明治初期の様子を随所に詳しく描いている。当時の馬籠宿は、「宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える」というから、かなり大きな集落とわかる。
本陣のなかでも、大名や公家などが泊まる部屋は「上段の間という部屋が一段高く造り つけてあって、本格な床の間、障子から、白地に黒く雲形を織り出したような高麗縁の畳」が敷かれていたという。これは、五街道以外のでも同様のようで、米沢街道小松宿(現在の山形県川西町)「金子重左衛門家」本陣について、明治初期に東北、北海道を旅した英国人女性イザベラバードの「日本奥地紀行」のなかで大名の間は、「黒檀の柱と天井には金箔が施され、畳は極上のものであり、磨きたてられた床の間には象嵌を施した文机と刀掛けが飾ってあった」とも記録している。
当時の宿場や宿は、五街道はもちろん、それ以外の街道であっても、参勤交代の大名の行列に備え、整備はされていたとは言われるが、庶民にとっては、必ずしも十全な整備がされていなかったのかもしれない。吉川英治は1926年から新聞連載した「鳴門秘帖」のなかで、木曽代官所や関所があり、中仙道の木曽路の中心的な宿場町だった木曽福島の様子(1927年に木曽福島は大火に遭い、現在は江戸時代の面影を残しているところは少ない)を「関所の高地から目の下の宿を見おろすと、屋根へ石をのせた 家ばかりが櫛比していて、ちょうど豆板という菓子でも干してあるような奇観」だと描いている。確かに繁華ではあるものの、かなり貧相な家並みだったと思われる。
前述のイザベラバードは「日本奥地紀行」で、東北や北海道での旅行中に泊まった、宿場町や宿について数多く記述しているが、そのなかで、当時の宿場や宿は、西洋人、ましてや女性から見て、耐えられないほどのひどい状況だったことが、縷々書き綴られている。彼女が江戸を出て、一泊目は日光街道の粕壁宿(現在の埼玉県春日部市)だった。宿の劣悪な状況について、ショックを受け、これからの旅への不安を募らせている様があからさまに「日本奥地紀行」では書かれている。「夕方、粕壁に着いた。かなり大きな町ではあるが、みすぼらしい感じのする町だった」と、最初から厳しい評価であった。
そして、その粕壁宿では、最上級の本陣に泊まったのだが、「私たちはここの大きな<宿屋>[高砂屋]で一夜を過ごした。一階にも二階にも部屋があり、客がいっぱいで、実にさまざまないやな臭いがたちこめていた」とし、部屋は襖と障子だけ仕切られているだけで、「その仕切りに貼られた紙はくすんだ不透明の紙」であり、背面の障子は「おびただしい穴が開いたり破れたりしていた」と、描写している。畳については、弾力性があり、「上質なものは極めて美しい」と称賛しているものの、無数の蚤のすみかになっているとも指摘している。彼女はこの旅の間中、蚤と蚊に悩まされることになるのだ。イザベラバードにとって最大の悩みは日本人の好奇心だった。襖や障子が開けられ、「私の部屋の両側にはいくつもの目がずっと張りついた」ままだったという。ただ、この恐怖心は、その後の旅の中で、「女性として危険にも無礼な目にも合わず安全にできる国」だということを信じるのに至り、和らいだとも述べている。
いずれにせよ、日光街道の重要な宿場町の本陣ですら、庶民が泊まる部屋は、このような状況ではあったようだ。また、さらに庶民の安宿、木賃宿となると、最重要ルートである東海道でさえ、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の描写を借りれば、「囲炉裏のそばに、着たきりのごろ寝をする。かような木賃宿の味気なさも話の種とはいいながら、風の音を凌ぐもは莚屏風に破壁」そして「二階に登ってみれば、天井は竹編みの簀の子を張ってあり、その上に莚をのべてある」という建て付けだというのだ。もっとも、「北八」、「弥次」の二人は、なんだかんだと工面算段をしながら、もう少しましな宿から宿と渡り歩いていたようだ。その算段が「東海道中膝栗毛」の面白さでもあろう。
イザベラバードの各地での宿場、宿の評価は最悪に近いが、それでも例外的に、その設備やホスピタリティなどを高く評価した宿場や宿もあるにはあった。例えば、新潟(新潟市)、久保田(秋田市)の宿場、それに日光の金谷家(現在の金谷ホテル)や山形の温泉宿(「かみのやま温泉」の「会津屋」、その後「よねや旅館」となったが、現在は閉館)などがそれにあたる。新潟も久保田も北前船で栄えた港が控えていることが興味深い。日光は早くから外国人が訪れていたことにもよるだろうし、「かみのやま温泉」は開湯560年余りの歴史があり、古くは上山城の城下町として、また羽州街道の宿場町として栄えていたという背景もあるかもしれない。ただ、イザベラバードは、選択できる限りは、最上級の宿に泊まっており、庶民の旅は、これ以上に厳しいものがあったのに違いない。
江戸時代に形成された宿場は、基本的には公務の旅を前提にしていたものの、移動、移住の制限など、いろいろな制約、苦難があった故に、それを乗り越えてでも別の世界を夢見た庶民が、お蔭参り等信仰、薬売り・遊芸人等の商売、あるいは湯治のため等と、いろいろな理由付けては、旅に出た。その折々に、この宿場を利用し、宿場町の発展に寄与し、文化風俗をも作り上げて来た。そのため、庶民のための宿の形態も意外にも多様であったらしい。
柳田国男によると、「旅をする者の夜寝る所は、以前は野宿辻堂を除いても、少なくとも なお三通りはあった」という。ひとつは「御仮屋式、もしくは本陣風とも名づくべきもの」で、これが今の旅館形式のはじまりであろう。二つ目は「問屋式 もしくは定宿風とも名 づくべきもの」で商売のための定宿、あるいはビジネスホテルの原初的な形態ではあるが、旅人と宿主は、いわゆる馴染みで家族的な濃密関係にあったという。もうひとつは、「善根宿 式 または摂待風とも名づけ」られるもので、「村では利益の腋ために、客商売をすることは不可能だから、だれでも一夜の宿を乞う」という者に対し、格式がある家あるいは信心深い篤志家が保護者的な立場から設けていたようだ。明治以降、一つ目以外は、交通網や移動手段の近代化によって、次第に衰えていったと、柳田国男は論じている。「東海道中膝栗毛」に出てくる木賃宿は、この衰えていった、二つ目、あるいは三つ目にあたるのかもしれない。
こうして形作られてきた宿場は、明治以降の近代化の中、交通網あるいは交通手段の発達や社会の経済構造の変化に伴い、急激に衰え、第2次世界大戦後は、宿場としての街並みも崩れ、姿を消しつつある。もちろん、これは宿場町に限ったことだだけではなく、日本の古い町並み、あるいは伝統的な建物が消えつつあったことから、社会的な危機感が醸成され、1975年に国の政策として「重要伝統的建造物群保存地区」が制定された。
この制度は、その後、宿場町を含め、日本の景観、伝統を守っていくのに重要な役割を果たすことになった。現在では、選定され、一定の補助の維持保存さている街並みや建築物群は全国で118地区に及ぶ。そのなかに宿場町は8地区あり、宿坊群、温泉町等を含むと10を超える地区が選定されている。確かに全国を回ってみると、この「重要伝統的建造物群保存地区」は、それぞれの地域における建築様式、生活様式、文化伝統を保存し、それを観光に結び付け、地域振興、活性化に役立っているとところが多い。これは極めて高く評価してよいことなのだが、しかし、いくつかを見て回っているうちに、なにか、違和感を持ってしまう地区もある。
筆者自身、当初、その違和感が何かを理解できなかったのだが、決定的に分かったのは福島県の大内宿を見た時だった。保存維持、地域活性化に成功した事例であることは間違いないのだが、これは京都太秦の映画村やテーマパークの江戸村とどこが違うか、ということなのだ。大内宿は街道沿って、両側にそれぞれ一列ずつ家並が続くので、書き割り的に見えてしまうのが、その印象をさらに強めるのかもしれない。さらに、もうひとつの疑問は、本物の家屋を修復したという点でいえば、「明治村」や「房総のむら」等の博物館的な維持保全とどこが違うか、ということになる。
「重要伝統的建造物群保存地区」の重要なポイントは、もともとあった場所で、特定の時代のものを、育まれた風土、環境を極力いかして保存維持することにあるのだろう。いわば鉄道遺産の保存でいわれる動態保存の意義に近いのだろう。しかし、違和感が出てくるのは、ある時代の街並み景観は、その当時の生活様式、生産様式、物流、人流形態に規定されて生まれてきたものであるが、そこに現代のあらゆる様式が流れ込んできており、とくに生産手段、経済構造の変化は、そこに住む人間とその街並みとの間にギャップを生むことになっている。
とくに地方において、「重要伝統的建造物群保存地区」を地域活性化の梃子として観光産業を主軸とした場合、例えば、大内宿のように、大半の家が食堂か、お土産屋さんになり、かつての色調とは異なり、原色が溢れ、満艦飾のような街並みとなってしまっている。それでも、継続的に観光客が訪れ、地域が潤って、その地域が維持発展していけば、それはそれで重要な役割機能を果たしていると言えよう。大内宿の場合、毎年観光客が80万人ほど訪れ、地域経済に貢献している。しかし、現状では、訪問客数の伸びは停滞気味で、また、新たなコンテンツはなく、発展性は感じられない。事業としてのテーマパークであれば、一定のサイクルで新規投資をして、新しいアトラクションやイベントを創出し、新たな価値を見出しいくが、「重要伝統的建造物群保存地区」では、ある時代の景観を守ることが主であるから、当然のことながら、このような投資行動にはつながらない。
地域社会、経済への貢献としては、確かに、大内宿のある下郷町の人口は1982年と2017年の間で、町全体としては39.6%も減少しているものの、大内宿のある大内地区は、28.7%の減少に留まっている。その要因は、大内宿の観光地化による、観光関連収入が集落の維持に繋がっているおり、行政も含め地域としての取り組みは成功事例といってもよい。とはいえ、大内地区も大幅な人口減少には違ないなく、根本的な解決までには至っていない。さらに下郷町の就労構造も、大幅に第1次、第2次産業の就労人口が激減し、第3次産業がなんとか就労人口が横ばいの状況で、第3次産業への町全体の依存度も相対的に極めて高くなっている。大内宿の本来の姿は、半農半宿の産業構造、生活様式から生まれたものであるが、時代の推移とともに、こうした生活様式からは建築物群が分離され、その産業構造が崩れさると、単なる、見世物小屋と変わらなくなってしまう可能性がある。生活の場としての集落が時代に沿って、変化をすることは一向にかまわないのだが、一方では、その地域の特有の産物や生活に根付いた文化が、常に供給され続けなければ、今ある観光資源を食い潰していく、すなわち見世物小屋として消費し続けることになってしまうのではないだろうか。現状のままの観光資源では、資源自体には再生産機能はないのだ。そうした点から、下郷町の経済を支える重要な柱となり、依存度が高まる観光産業自体の持続性、再生産性が課題になってくる。
「重要伝統的建造物群保存地区」は、ある時代を切り取って固定化したものであるから、経済構造、社会構造の異なる現代社会においては、真の意味での動態的な本物をとして、観光客に見せることはできない。また、学者でもない観光客側もそこまでは求めておらず、日本人ではノスタルジー、外国人ではエキゾチズムに浸れ、知的好奇心が満足できることが、重要なのだ。その意味では何らかの本物としての演出や演ずる必要性があるが、表層的な演出、演技では、すぐに見抜かれてしまうので、本物と感じさせるリアリティを可能とするバックボーンづくりが重要となっている。多くの民俗学者や社会学者が指摘しているように、日常の生活文化と「観光文化」にはおのずと違いあるものの、「観光文化」には「地域の日常生活に根ざしているこというあり方を確保することが、地元の人々の主体性を保持していく道筋」だということだろう。
そのためには、観光資源を梃子に地域に特性を生かした第1次産業から第2次産業を巻き込んだ「生業」としてのすそ野をどう広げるか、にかかっている。「6次産業化」が叫ばれている本質はそこにあるのだろう。
民俗学者の宮本常一は、「観光文化」化には批判の目を持っていたものの、一方では、観光を梃子に地域の生業のすそ野を広げ、それをストーリーで今有する観光資源とつなげていくことの重要性を語っている。例えば、その地域に合った植生であれば、その植物を集落で協力して植え付けることで「風景づくり」を行うべきであり、魅力ある観光資源とすることもできるはずだとし、さらに、農産物に限らず、地域に適合した素材、生産物を開発し、特産品として、あるいはブランド品として消費者目線で作り出すべきだという主張している。
もちろん、こうした努力はすでに各地で行なれているが、成功事例は多くない。しかし、地域住民と行政がいま、観光の追い風のなかで、この生業のすそ野の広がりを構築しない限り、せっかくの「重要伝統的建造物群保存地区」が観光資源として消費しつくされ、逆に地域住民にとって重荷にしかならない事態になるだろう。そんな心配をしながらも、「重要伝統的建造物群保存地区」が根ざしている「地域文化」をファインダー越しに見つけ出そうと努めたい。
「旧街道宿場町の現状と街なか再生事例について」平成25年3月公益社団法人 全国市街地再開発協会市街地再開発研究所
「夜明け前」島崎藤村 『島崎藤村全集』Kindle 版 底本:岩波文庫、岩波書店
「新訳日本奥地紀行」イザベラバード・金坂清則訳 東洋文庫 平凡社
「鳴門秘帖」吉川英治. 吉川英治全集 Kindle版
「現代語訳 東海道中膝栗毛」十返舎一九 訳者・伊馬春部 岩波現代文庫
「明治大正史世相篇(上)」柳田国男.(響林社文庫) Kindle 版
「日本の民俗3 物流と人の交流 Ⅱ 旅と観光」川森博司 吉川弘文館
「宮本常一講演選集5 旅と観光 移動する民衆」 宮本常一 農文協

日光街道旧粕壁宿(埼玉県春日部市)









中仙道福島宿(長野県木曽福島町)
大内宿(福島県下郷町)
大内宿(福島県下郷町)
大内宿(福島県下郷町)
中仙道海野宿(長野県東御市)
中仙道海野宿(長野県東御市)
大平宿(長野県飯田市)
中仙道妻籠宿(長野県南木曽町)
中仙道奈良井宿(長野県)塩尻市


中仙道妻籠宿(長野県南木曽町)
筑波山神社参詣道神郡(茨城県つくばし)
