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​特集 3月号​ 神仏分離の爪跡(Ⅹ)
〇秩父の山岳信仰と神仏分離②

  三峰神社は宝登山神社よりさらに荒川を上流へと遡ったところにある。現在は、荒川に沿って国道140号線が延び、荒川の源流地帯を深く分け入り、上り詰めて雁坂トンネルを抜けると、山梨県となる。古くからこの道筋は雁坂道と称され、雁坂峠越をして、甲州に通じる要路だったとされる。
 三峰神社は、秩父の中心街にある西武秩父駅から国道140号線で約18km入った山間の大輪集落に一の鳥居があり、かつてはここから表参道を標高1100mほどの三峰神社がある頂きに向かって登り詰めることになっていた。現在は国道140号線をさらに8㎞ほどの二瀬ダムサイトまで走ったところで荒川を渡って三峰観光道路に入り、約10㎞の屈曲が多い道を登り神社境内の直下にある駐車場にたどり着くことができる。この道筋で西武秩父駅から秩父鉄道三峰口駅を経て駐車場まで路線バスも走っている。
  なお、三峰山の山名は、この神社がある頂きを指すが、さらに奥山が続いており、三峰神社の奥宮のある妙法ヶ岳(標高1332m)とその先の白岩山(同1921m)、雲取山(同2017m)の三山の総称とすることもある。
 ともかくも、三峰神社は山深いところに鎮座していることは間違いなく、三峰観光道路に入っただけで、車の中らもまさに山岳信仰の霊域であることを感じさせる。幸田露伴も「知々夫紀行」のなかで、「路はすべて杉の立樹の蔭につき、繞めぐりて上りはすれど、下りということ更になし。三十九町目あたりに到れば、山急にわかに開けて眼の下に今朝より歩み来しあたりを望む。日も暮るるに近き頃、辛くして頂に至りしが、雲霧大いに起りて海の如くになり、鳥居にかかれる大なる額の三峰山という文字も朧気ならでは見えわかず、袖も袂も打湿りて絞るばかりになりたり」と、その山深さを記している。
 少し開けた山腹にある駐車場は広く、路線バスもここまでは登ってくる。ここから一段上がると、社殿のある境内に向かう参道となり、信者の休憩所や食事処、お土産屋が数軒並ぶ。この参道から分かれ右手にたどると、奥宮のある妙法ヶ岳や雲取山に向かう登山道になっている。参道を進み右手にある大鳥居をくぐれば鬱蒼とした森が広がり、神域の雰囲気がより一層増す。石灯籠や参拝記念の石碑が立ち並ぶ参道をさらに登っていくと、左手の森の中にポツンと時代がかった白いポリスボックスのような守衛室が建っている。この右手にある石段を上ると、奥宮の遥拝殿となっており、奥宮のある妙法ヶ岳が望むことができ、眼下には荒川の川筋に沿った秩父盆地を遠望する。
 参道を左手の一段下がった場所に朱塗りの随神門が森の緑の中に際立っている。この門は、江戸期までは仁王門としていたもので、まさに神仏習合の霊域の象徴的な門であったという。確かに神の門というよりは、仁王像が良く似合いそうな門の造りになっている。「新編武蔵国風土記稿」には、もちろん「仁王門」として紹介されており、「東向三間ニ五間一尺上ニ三峰山ノ三字ヲ扁額ス 左右ニ仁王ヲ置キ共ニ一丈」としていることから、こうした造りであることが納得できる。なお、この仁王像は、現在は鴻巣市の勝願寺に寄贈され安置されている。
 随神門を過ぎ、さらに進むと左手に青銅の鳥居があり、石段を上ると、右手に手水舎、左手に凝った繊細な造りの八棟灯籠が立つ。その先のさらに一段高いところに朱塗りにきらびやかな透かし彫りが目立つ拝殿、本殿がある。左手の少し平坦な境内に祖霊社、国常立神社や摂社・末社などの社祠が並ぶ。右手には社務所、レストラン、宿泊施設で温泉施設もある興雲閣などの神社施設が建ち並ぶ。
 現在、興雲閣などの神社施設のある場所は、江戸時代までは三峰山すなわち三峰大権現の別当寺であった観音院があった場所である。現在はその面影はわずかに興雲閣の裏手にある鐘楼だけあるが、それを神社境内に残し、今も朝夕時を知らせるために打ち鳴らしているというのも珍しい事例だろう。
 「新編武蔵国風土記稿」や「秩父志」などの江戸末期の境内図と現在の社殿の配置を見てみると、かなり原型をとどめていると言ってもよい。境内の敷地の石垣や平坦部の形状、配置は江戸期も現在もほぼ同じであった推測できる。拝殿本殿の位置も同じとみられるが、「秩父志」では左手に本地堂があったとされ、「新編武蔵国風土記稿」では護摩堂とも称されたとしている。さらに大日堂、鐘楼の記載もある。   

  「秩父志」では左手に行者堂が描かれている。現在は拝殿本殿の左手はすぐに社務所となっており、明治40年の「武州秩父三峰山案内」では、「右方には神饌所を隔て国常立社あり」とし、この国常立社は「以前は護摩堂または本地堂と称し」としているので移築したとみられる。また、その並びにある日本武(やまとたける)社は行者堂を利用し、手水舎は江戸時末期のものをそのまま使用している。
  一方、大きく建物が変わったのは前述した観音院のあった場所で、現在は神社の付属した施設に建て替わっているが、これも信者、参拝客用の施設だと考えれば、江戸期と役割は大きく変わっていないともいえるだろう。
 興味深いのは「秩父志」の境内図では、観音院を中心に描かれているところだろう。おそらく江戸期には「三峰大権現」の講や霞((村々の信仰に関する支配組織)の運営の中心施設であったからなのだろう。

 これらをみるとこれまで見てきた徹底した破壊があった神社とは少し趣きがことなる。その背景にあったものを、この神社の由緒と神仏分離期の状況から推測してみたい。
 三峰山(信仰)の創始については「三峰山大縁起」によると「日本武尊酒折の宮よりきためぐり給へるの土地、鴈(雁)坂の山を越して直に當山に登給ひて、遥かに国中の地理を望、又郡中の要害を見給ふに谷深ふして苔滑らか也。山高して流早し、此地の軍究て容易かるまじきをしろしめし、 倩(つらつら・熟考し)神代の事を按し給ひて、古昔伊弉諾尊伊弉册尊天の浮橋の上に立せ給ひ、天の逆矛を以豊芦原の国を平げ得給ひし神威の徳功を仰ひて擁護之力を希ひ奉らんと、 今年景行天皇即位四十一年(辛亥)歳(西暦111年?)四月七日始て當山に假(仮)宮を造営して、伊弉諾伊弉册之二尊を勧請し給ふ。」としている。

 要するに日本武尊が東征の際、甲斐の国から雁坂越えで同地に入ったところ、この地が戦略的にも優れた場所なので、神威の徳功を得て国家平定を行いたいので、ここに仮宮を置き、伊弉諾伊弉册之二尊を勧請したと伝えている。さらに「大縁起」では修験者の創始といわれる役行者が「諸山に飛行するの砌、當山に往詣することしばしば」であり、「空海沙門東に下るの時、当山に登て大明神を拝し奉」るなど山岳信仰のオールスターが絡んでいることになっている。
 このことは、当然ながら、後代の権威付けと古代の山岳信仰から仏教の影響を受け、神仏が習合されていく過程を示しているといえよう。こうしたなかで中世以降、この山が霊域として意識され、修験者たちの修験場となり権威付けられたいったのであろう。しかし、その実態については具体的な史料は遺されていない。ただ、1502(文亀2)年に行者の「道満」によって「宮樓の衰微敗を見、堂舎の破壊を嘆て郡中を勧て再神佛の威光」を改めて見直されたとされ、「新編武蔵国風土記稿」によれば、1533(天文2)年に至り、修験の総本山である聖護院へ衰微を訴え、「大権現」の称号を得たとされる。
 また、鐘楼にあったとされる「三峰宮棟札」には郡主藤田右金吾業繁が施主として「天文二年」に造営したと記される銘文を記載している。これから推測すれば、すでに境内が整備され堂宇社殿が建ち並んでいたと思われる。なお、この「道満」は、「大縁起」では「中興」としている一方、「秩父志」ではもともとは地元の山樵出身であり、奥深い山中に入ったところ、石の上に「則本地佛體(十一面観音)一區安然在立」していたので、それを持ち帰り「妙法嵩之神」と合祀したとされ、そのため「道満」を「開祖」としている。これからみると、三峰山における信仰活動が具体的に行われていたのは、おそらく中世後期以降とみてよいだろう。
 その後、山岳信仰と密接に関係があった天台宗の衰退に伴い、江戸時代に入ると再び無住となったという。江戸後期に記されたとみられる「三峯山観音院記録下書」では、その経緯を住職の「覺雄」が1710(宝永7)年に遷化し、「以来十余年之間、無住ニ付、当山宝物幷諸道具等過半分(紛)失、堂社ニ破壊ニ及シ所、日光法印住職ナリテ、諸修復造営シ、紛失之品改悉取集之、依而再中興トス」としており、室町期の「道満」の中興に対し、「日光」を再中興と記している。
 この「日光」は秩父出身の名僧と知られ、三峰権現を鎮守としていた大滝村などの氏子が観音院の霞の範囲について同じ聖護院下の越生の山本坊などとたびたび争論となっている状況のなかで、三峰山の信仰や経済の基盤の立て直しが必要であったことから、招聘されたと考えられている。
こうした基盤の立て直し策のひとつが、オオカミ(眷属=神の使い)信仰を導入し、神札(眷属拝借札)の配布だったとされる。古くから甲州、信州など山間地におけるニホンオオカミに対する山岳信仰で、シカやイノシシから農作物を守り、山火事を知られてくれる益獣として山で暮らす人々から崇められていたという。「観音院記録下書」ではその由来について修験者が「此山に来ル處に、深山霊地最勝也とて、此所に足を止め、秩父の総社として山神宮二社建立いたし勧請し給ふ由、是より狼二疋宛雲採(取)山に住し、其眷属八万余(9万千)疋有之由、人々不思議のおもひを成し、日光法印の代に至て甲州辺にて、悉信仰あって拝借之札、当代より始ル」としている。
 三木一彦によると、「日光」は「国境を越えて信濃や甲斐にまで御眷属拝借を広めた。三峰山の御眷属拝借は、狼を描いた札を1年ごとに三峰山に取り替えに来るという方式であ り,この方式にのっとって定期的な三峰山参詣がなされるようになった」としている。こうして地元の霞をはじめ、信者組織が確立され、資金、労務提供などの経済基盤がされた結果、社殿の整備がこの時期から盛んになったという。
 江戸後期には三峰山の講組織は山間部だけでなく、関東、江戸まで広がった。三木一彦によると、講の地域的な拡大にともない、より現世利益の効用範囲が拡大し「三峰山について も、火防・盗賊除け・猪鹿除け・虫除けなどなど多種多様な利益が喧伝」されるようになったとしている。また、江戸などで三峰信仰が広まったのは、火事の多い冬場に季節風が秩父方面から吹くことや材木など秩父からの商品流通が盛んになったためだとも指摘されている。そして江戸中期以降、庶民の遊山参詣が盛んになり、江戸から比較的距離の近い、筑波山、御嶽、妙義山、赤城山、大山などの山々と同様に、その対象として持て囃されたといえよう。
 幸田露伴の「知々夫紀行」では、明治期後半の三峰山の当時の様子を「むかし観音院といいし頃より参詣のものを宿らしめんため建てたると覚しく、あたかも廻廊というものを二階建にしたる如く、折りまがりたる一トつづきのいと大なる建物にて、室の数はおおよそ四十もあるべし。一つの堂を中にし、庭を隔てて対むかいの楼上の燈を見るに、折から霧濃く立迷いたれば、海に泊まれる船の燈を陸より遥に望むが如し」としており、寺院として廃されていた観音院の宿坊だった宿舎に泊まっている。さらに「この山是かくの如く栄ゆるは、ここの御神の御使いの御狗というを四方の人々の参り来て乞い求むるによれり。御神は伊奘諾伊奘冊二柱の神にましませば申すもかしこし、御狗とは狼をさしていう。もとより御狗を乞い求むるとて符牘のたぐいを受くるには止まれど、それに此山ここの御神の御使の奇しき力籠れりとして人々は恐れ尊むめり。狼の和訓といえるは大神の義にて、恐れ尊めるよりの称えなれば、おもうに我邦のむかし山里の民どもの甚いたく狼を怖れ尊める習慣の、漸くその故を失ないながら山深きここらにのみ今に存のこれるにはあらずや」ともしており、明治期後半に至っても、神仏分離の嵐を乗り越え、三峰神社を支えているのは、オオカミ信仰だったことがわかる。
 次回はこの三峰神社にとって神仏分離をどのように対処していったかについてみてみたい。

参考文献・引用文献
幸田露伴「知々夫紀行 山の旅 明治・大正篇」岩波文庫(青空文庫から引用)
「新編武蔵国風土記稿」巻之二百六十五 秩父郡巻十六之巻二十 国立公文書館(52/64)
「秩父志」埼玉叢書 第一1929年 国立国会図書館デジタルコレクション123/286 https://dl.ndl.go.jp/pid/1877328/1/123
「三峰山大縁起」埼玉叢書 第3 新訂増補1970年 国立国会図書館デジタルコレクション 50/296 https://dl.ndl.go.jp/pid/9640837/1/50
「武州秩父三峰山案内」明治40年17/29 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/764407/1/17
「三峯山観音院記録下書」三峯神社史料集 第1巻 三峰神社社務所 1984年 国立国会図書館デジタルコレクション25/197 https://dl.ndl.go.jp/pid/12264591/1/25
三木一彦「秩父地域における三峰信仰の展開-木材生産との関連を中心に」地理学評論69A-12 921-941 1996年 https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj1984a/69/12/69_12_921/_pdf/-char/ja
三木一彦「江戸における三峰信仰の展開とその社会的背景」人文地理第53巻第1号2001年 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/53/1/53_1_1/_pdf/-char/ja

 

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