
今回は武蔵国分寺跡よりさらに都市化のなかに飲み込まれている下総国分寺跡を訪ねてみたい。
下総国分寺跡は、江戸川が東京湾に注ぐか河口から10㎞ほど北の東岸、国府台地上にある。最寄り駅は京成本線の国府台駅となる。駅から北へ500mほどのところにある緑の多い切通しのような小道を上ると、明治大正の政治家木内重四郎氏の和洋折衷の旧邸が右手の林の中にみえてくる。それを左手に道なりに行くと、左側は千葉商科大学の広いキャンパスになり、右手は法華経道場と知られる古寺、弘法寺の境内が広がる。この仁王門に立つと、現在は眺望が南に向かって眺望が開け、石段の参道が現在は崖下の住宅地まで続き、その住宅地の先には、工場、倉庫街が延々と広がり、海岸線は見えない。江戸後期の「江戸名所図会」を見ると、弘法寺の参道下は水田が開け、湿地の先が広がっている。その湿地には江戸川の河水を引き込んだ真間の入江(浦)が迫っている。弘法寺がある国府台はその名の通り、古代、下総国の国府があったところから、山部赤人や高橋虫麻呂など、当時の官僚が万葉集にもこの地の歌を遺している。
国府跡は、この弘法寺の北側にあったとみられ、現在は千葉商科大学の北側、国府台公園辺りに中心施設があったとみられ、公園内の野球場と陸上競技場の間に石碑が建つのみでとくになにも遺っていない。
国分寺と国分寺尼寺は、この国府から台地に切り込まれた細い谷筋の東側の台地上にあったとされる。国府跡からは、いったん坂を下り住宅街のなかをまた坂を上ってすぐのところに国分寺尼寺跡がある。現在は史跡公園となっているものの、周囲は完全に住宅地が迫り、案内施設もなく、説明板とわずかに金堂の基壇や礎石の位置を示す石組があるだけで、講堂跡は残念ながら公道が横切っている。住宅地内の公園としても、十分に機能しているとは思えず、残念な状況である。
国分寺尼寺跡から国分寺跡へは同じ台地の中の住宅街の路地を東南に向かいと、まず、庚申塔の石碑や祠が見え、その後ろにテニスコート2面ほどの休耕の畑地のような広場が現れる。これが下総国分寺のかつての寺域の北西端部にあたる場所で1967(昭和42)年に発掘調査されたところである。公園整備もなされず作為がなくて良いとも言えるが、発掘調査後埋め戻され、単に空地で発掘調査の結果を簡単に記載した立て看板が立っているのみである。ここでは8世紀後半から10世紀ころまでの掘立柱建物が数棟確認されており、寺域の西端部にあたる溝もあったとされる。9世紀中ごろ墨書土器が発見されているが、この溝は国分寺の衰微が始まったとされる10世紀にはすでに埋められていることも分かっている。
ここからさらに狭い路地を東南に向かうと、また、住宅地2、3軒分ほどの空き地に辿り着く。ちょうど、現在の国分山国分寺の裏手にあたり、囲いの中には先ほどと同じく発掘調査の内容を記した立て看板のみがある。ここでは僧房と寺の事務を行う大衆院の一部が見つかっており、8世紀後半の国分寺創建時の建物跡、9世紀前半から中ごろとみられる工房があったとみられている。ここでも墨書土器も発見されている。
そして、この空き地と路地を挟んだ東側には小さな公園に仕立てられた空間があり、ここには四阿も設えられ、「史跡 下総国分寺跡」の控えめな石碑も立つ。興味深いのはその石碑の傍らに、さらに控えめにある石碑の銘文である。2001(平成13)年に国の史跡にされた旨が記された後に、この公園が地元の旧家である山崎家が市川市に寄贈され公有地化したことが記されている。この銘文のなかには山崎家が1650(慶安3)年に分家し、この地に居を構え、連綿として住み続けてきたこと書かれている。
しかし、この公園も史跡公園として、有効に使われているとは思えない整備状況ではある。
ここから南に少し下ると、現在の国分寺の南大門があり、一連の発掘調査では、現在の本堂付近に金堂跡、その北側に講堂跡、西方に塔跡が確認されているという。なお、1891(明治24)年に、ほぼすべての伽藍が焼失したため、現在の堂宇は本堂、仁王門を含め昭和期に入ってからの建物である。
下総国分寺跡周辺を歩いてみると、発掘調査が行われ、現在空地または公園となっている場所を除けば、ほとんどが住宅街と畑地となっている。この状態は、現在のような周辺の住宅街の密集度はないものの、江戸期には寺域がかなり狭まれており、ほとんどの寺域が畑地や集落となっていたと思われる。それは江戸後期の「江戸名所図会」をみると、すでに「二王門」(現南大門)の近くまで畑地と農家が描かており、庫裏などを除くと、大きな建造物は二王門正面の本堂(金堂跡付近)しか見当たらず、また、前述した史跡公園の石碑の銘文にある山崎家の動向をみても想像に難くない。
それでは、この下総国分寺の法灯はどのように継承されたのか、あるいは中断されたのかを検討してみたい。
下総国分寺の創建については、特定できていない。これは同寺の法灯が中断やたびたびの伽藍焼亡によって、記録が遺されていないことによる。
ただ、発掘調査などによれば、8世紀後半の建物や溝の遺構が確認をされているので、
756(天平勝宝8)年12月詔勅にあるすでに造営されたとみられる26か国の国分寺には入っていないものの、同年の6月に翌年の聖武(太上)天皇の一周忌までには、造仏とそれを安置する仏殿を造営し、できれば七重塔を造れという詔を発出していることから、下総においてもこの時期に一部にせよ造営され、国家鎮護の寺院として機能し始めていたと考えてよいのではないだろうか。
9世紀には、同寺も延喜式の主税式に国分寺料として5万束とあることから、同寺がこの時期には他の国分寺同様の扱いを受けていたことが分かる。しかし、前述した発掘調査の結果からみると、寺域の西辺の溝が10世紀に埋められており、その後同寺の消息を確認できるものは見当たらないという。
これは律令制の衰退とこの地域における俘囚の反乱事件など争乱が続き、下総国の国府機能が11世紀には破綻していたといわれることが影響しているのであろう。これに伴い、国分寺もその影響力を失い、荒廃していったと考えてよいだろう。
この地域においては10世紀から11世紀には千葉氏系の有力豪族の支配下になったといわれ下総国分寺も、法灯が繋がれているとすれば、この庇護のもとにあったと考えられる。そのことを推測されるものは、現在の国分寺の境内に千葉氏の分流、国分五郎胤通に関係すると伝えられる宝篋印塔2基があることだ。ただ、国分五郎胤通がこの付近に力を持ったのは12世紀末といわれており、しかもこの宝篋印塔の銘文には国分一族と思われる名はあっても胤通の名はなく、1393(明徳4)年、1398(応永5)年の銘文とされるので、胤通のものかは別としても国分氏と国分寺、おそらくは当時は金光明寺とした同寺との関係がこの時期にあったことは推測される。しかし、11世紀から13世紀の同寺の状況は詳しくは分かっていない。
文献史料として16世紀末の同寺の様子を窺わせるものは、同地を支配していた、千葉氏のちには北条氏の家臣であった高城胤則が国分寺宛に出した2通の書状が江戸後期の「成田名所図会」に紹介されている。この1585(天正13)年2月3日の書状には、国分寺の当時の状態を「国分寺之事者古跡之儀然ニ近年者御沙門之形儀無ク一式トモ不構庭之掃除以下モ無之」としているので、相当に荒廃していたとみてよいだろう。胤則は2通の書状で除地の不入を約しているが、おそらくこれが江戸初期には金光明寺として中興されていたことと関係しているのだろう。
なお、高城氏に関連していえば、現在の松戸市にある高城氏ゆかりの徳蔵院の寺伝では、同寺の創建は15世紀の中頃とされ、下総の国分山国分寺の隠居寺として建てられた、あるいは、国分寺の支院として建てられた後に現在地へ移転されたと伝えられているという。
これらか見れば断定はできないが、古代の国分寺からは一定の中断期間を含みながら、どの程度の連続性はあったかは分からないものの、現国分寺に鎌倉期から戦国時代にかけての供養塔である板碑が多く遺されたところから見れば、有力氏族や地域の宗教拠点として一定の継承はなされていたともいえそうである。
江戸時代の同寺の状態については、前述の通りだが、1891(明治24)年の焼亡まで、その前に数回焼失しており、貴重な仏像仏具や文献史料の大半を失っているため、周辺への影響力がどの程度あったかは分かっていない。
下総国分寺は以上の歴史的背景から、都市化に埋もれた史跡で、実見、体験できるものは少なく観光資源としての評価は高くない。そうした史跡群であるため。活用計画でも学校教育や生涯教育の一環としての探索コースなどの提案や他の国分寺史跡との連携を中心としているが、それにしても住宅街の歴史公園としてもほとんど機能していない現状は残念でならない。もちろん、一定の保存は重要ではあるものの、住宅街の都市公園として地元住民に親しまれ、気軽に立ち寄れる公園として修景、整備が必要ではないかと思う。
なお、貴重な出土品はあるので、他の国分寺史跡との全国的な連携は必須であり、市立の市川博物館が関東におけるコア的存在になることも視野に活動を続ければ、観光資源的にも面白い存在になるかもしれない。
次回は公園として整備が進む国分寺跡を訪ねてみたい。
参考文献・引用文献
市川市「国指定史跡 下総国分寺跡 附北下瓦窯跡保存活用計画」
https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000281594.pdf
千葉氏顕彰会HP https://chibasi.net/kokubu.htm
「千葉県誌 稿本 巻上」大正8年 384/502 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/960652/1/384
「成田名所図会」56/62 国立公文書館
徳蔵院HP http://tokuzouin.com/history_1/