出羽三山神社手向 宿坊
出羽三山神社随神門
出羽三山神社祓川と須賀の滝
出羽三山神社五重塔(国宝)
出羽三山神社参道
出羽三山神社二の坂休憩所から庄内平野
出羽三山神社斎館(寺坊跡地)
出羽三山神社本殿(合祀殿)
八幡平大深沢展望台から月山
湯殿山神社大鳥居
鳥海山(秋田県象潟から望む)
〇出羽三山から神仏分離を考える②
山形県鶴岡市の出羽三山神社は、羽黒山、月山、湯殿山の三所権現として、羽黒修験信仰の中心地として古くから栄えた。いまも、宿坊街のある麓の手向(たむけ)から随身門を入ると、そこからすぐに杉木立が鬱蒼と茂り、霊域の雰囲気を漂わせている。現在、手向にある宿坊は28坊ほどだが、江戸期には全山で360の修験坊があり、そのうち300坊余りが宿坊で、講が数多く組まれ、このため参詣客も夥しかったという。
随神門から石段を下がっていくと、せせらぎの音が聞こえる様になり、祓川に架かられた神橋を渡ることになる。そこからは右手に登山参詣の清めの場である「須賀の滝」が設けられている。いかにも自然の滝のようにみえるが、これは人工的に作られたもので、修験者たちの修行の場でもあったという。ここからまた石段を登っていくと右手に護摩堂跡、左手奥には、杉木立のなかに国宝の五重塔がすっくと立っている。この山中に素木造り、柿葺、三間五層、高さ約29mの巨大な塔には圧倒されるものがある。この五重塔は平将門が承平年間(913~38年)に建立したと伝えられ、現在の建物は1372(応安5)年に再建されたものである。
この素晴らしい堂塔の案内板を見ると、この五重塔には「大国主命」が祀られているとのこと。考えてみれば、随神門を潜ったのだから、神域に入ったわけだが、そのなかに本来、仏教の舎利塔である五重塔が建ち、そこに神が祀られてているというこの不可思議さを感じてしまうところだ。この不可思議さは羽黒山全山の至る所で感じることになる。
五重塔を過ぎ、石段が急勾配になる一の坂に入り、さらに二の坂を登ると、二の坂茶屋があり、庄内平野の眺望を楽しみながら一休みができる。三の坂に入りしばらく登れば、少し緩やかな石畳になり、そこには御本坊跡の案内板がある。右手の杉木立のなかは急斜面から平坦地かわっており、それなりの空間を提供している。この案内板をみるとここは要するにかつては、羽黒山全体を取り仕切る寂光寺(本坊宝前院)があった場所だというのだ。いまは見事になにも遺っていいない。はてまた不可思議である。
三の坂をさらに登ると、右手に延びる石畳の道との分岐となる。出羽三山神社の本殿は石段の方に向かうのだが、右手の石畳は南谷に向かうという標示となっている。この石畳の道は比較的平坦だが、やがて小径となり通る人も少ないとみえ、草木が繁茂して、その先が心配になるほどだ。400mほど行くと少し杉木立が開け、平坦地となり、あきらに小さな池もありかつて作庭した跡とみてとれる。ここは別当寺別院の紫苑院だっただという。ここには芭蕉の句碑が遺り、「奥の細道」でもこの別院についての記述がある。
1689(元禄2)年「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。四日、本坊(寂光寺)にをゐて俳諧興行。 『有難や雪をかほらす南谷』(ありがたいことに南谷には残雪の涼しさがほのかに漂っている)」としている。なお、「五日、権現に詣」、その翌日に月山へと向かい、翌々日に再びこの地に戻り、再び俳諧興行を行っていると「奥の細道」では綴られている。
ただ、こうした歴史的背景のある坊院の跡を想起させるものは何にひとつ遺されておらず、わずかに心字池だった見られる池が草むらに隠されているのに過ぎない。ここが寺院だったことをここまでなぜ、消したかったかと思うほどである。
全山からこれほどまでに仏教色を取り去ろうとする不可思議さについて考えてみると、戦乱や宗教戦争もかんがえられるが、やはりここでは、「修験道」が目の敵のひとつにされた幕末から明治初期に運動としての「廃仏毀釈」であり、統治政策としての「神仏分離」に辿り着く。この不可思議さを解き明かすために、すこしばかり出羽三山神社での「神仏分離」の動向を追ってみたい。
まず、開山伝承に始まる出羽三山の歴史的背景と明治の神仏分離政策がなぜ行われたかについて整理してみよう。
羽黒山、月山、湯殿山の開山に関する伝承は数多くあり、その祭神の変遷や羽黒修験の信仰の発展過程については、所論も数多いが、ここでは、「神仏分離」の前提となる神仏習合の過程と宗派の変遷を大掴みに確認しておきたい。
開山伝承でもっとも広く伝えられているのが、6世紀末、崇峻天皇の皇子の蜂子皇子が山頂に羽黒山寂光寺を建立したというものである。593(推古元)年に蜂子皇子は、聖徳太子の勧めにより、政争から逃れ、北陸路を経て能登半島から佐渡に渡り、さらに由良の浦(現・鶴岡市)まで辿き、そこで三本足の大きな鳥によって羽黒山へ導かれたと言われている。蜂子皇子は難行苦行の修行を積み、羽黒山頂に社を創建し、その後月山、湯殿山を開いたという。全ての民の苦悩を能よく除くということから、「能除太子」、「能除仙」とも称された。また、蜂子皇子は庶民の苦しみを背負ったため、異形の姿だったとも伝えられている。こうした開山伝承はあるものの、10世紀初め、律令制のもと神祇が初めて官制序列化したことを記す延喜式神名帳には月山神社のみが記されており、羽黒山と湯殿山の名はない。
開山の経緯がいずれにせよ、月山をはじめ、湯殿山、羽黒山は山岳信仰や自然信仰がその始まりで山自体あるいは温泉が湧き出す岩自体を農業神や安産の神などとして古くから信仰を集めていたことに間違いない。この自然信仰をもとにして、仏教の流入に伴い、山林修行を重視する法相宗、天台宗、真言宗などの影響を羽黒修験道が生まれ、さらに道教、陰陽道などと習合しながら法理化が進み、平安時代に大成したという。
このため、多くの山伏たちが厳しい戒律のもとに羽黒山や月山、湯殿山に入峰修行したという。こうして神仏習合の法理が整い、三山のそれぞれの祭神と本地(神の本来の姿)仏が整理され、羽黒山の出羽神社では、祭神が伊氏波神と稲倉魂命の2神 本地仏は現世利益の聖観音菩薩、月山神社では前者が月読命、後者は阿弥陀如来(死後の救済仏)、湯殿山神社では、前者が大山祇神、大己貴命、少彦名命の3神で、後者は未来を司る大日如来となっており、「現在」、「過去」、「未来」と見立てられることになった。このことにより三山巡れば、生きながら若々しい生命をよみがえらせることができるという信仰が江戸時代には庶民に広まり、月山・湯殿山の2社と羽黒山の社と合わせ、羽黒三所大権現と称し、羽黒修験信仰の中心となっていた。修験道は天台宗や真言宗の密教と強く結びついていたため、中世から近世においては、羽黒山、月山、湯殿山には別当寺がそれぞれ配され、羽黒山には寂光寺(本坊宝前院)を中心に8つの寺院と360ほどの修験坊や堂塔が建ち並んでいて、仏教色の強い山内であった。
なお、古代においては、三山は羽黒山、月山に対し、葉山か、あるいは鳥海山があてられ、湯殿山は葉山の奥ノ院として位置づけられていたという。三山としたのは熊野修験の対抗上の措置であったされ、その後、鳥海山は峰続きではないこと、葉山はこれを主導していた麓の慈恩寺や同地の戸沢氏の支配関係から、修験場としての関係が薄れ、その代わり奥の院であった湯殿山を取り込み、中世後期には月山・湯殿山・羽黒山の三山が確立した。ただ、近世においては、月山は天台系の羽黒山が別当を兼ね、湯殿山は別に真言系の四カ寺が別当を勤めていた。
また、蜂子皇子開山説は、近世に羽黒山の経営を天台系が主導権を握ってから、真言宗が主導権を握る湯殿山にある空海開山説に対し、権威付けとして、蜂子皇子を別人であった「能除太子」あるいは「能除仙」と同一人物ということにして開山者としたのではないか、ともいわれている。
きわめて雑駁に要約すれば、自然信仰の山々に対し、古代において仏教、道教、陰陽道と習合して修験道が生まれ、当初は真言宗、近世に入り天台宗の経営のもと出羽三山に対する信仰は高まったといえよう。これはここ出羽三山だけではなく、日本全体の宗教状況にあてはまる。畑中章宏は「神仏の習合は神宮寺の建立という形式で地方から始まり、朝廷が造営し、尊崇した中央へと波及していった。それらと並行しながら山岳信仰にもとづく場所でも、神仏の中間的観念である「権現」が生み出され、民衆は神・仏のこだわりなく信仰し、各地の霊場を巡拝した。また朝廷、皇室においては神の祭祀者である天皇が、仏教を庇護し、仏式の葬儀を執り行ってきた。いっぽうで地域に浸透した仏教寺院は、体制の統治機構の一環に組み入れられるようになっていく」と論じている。
しかし、その流れを大きく破壊したのが、明治期に入り神仏分離政策だ。とくに修験道は排斥され、「権現」の名を取り上げられて、すべて神社の形式に改められ、山内の殆どの仏教系の堂坊が破壊された。このため、羽黒修験においても「権現」信仰が否定され、仏教色を排除するため、この時期に「羽黒三所権現」から神社として形式を整えるため社号を「出羽三山神社」と称することになったのだ。
次に現在、我々が目にする羽黒山がどのように形成されたかを知るために、明治政府のこの宗教政策の意図と羽黒山での経緯を簡単に触れてみたい。
まず、神仏分離政策はなんであったかについては、所論が数多くあるが、すこし整理しておきたい。
明治維新を主導した薩長派は尊皇攘夷と王政復古を旗頭にして、討幕運動を進めたが、幼い天皇を中心とした集権国家構想を実現するため、安丸良夫は「天皇の神権的絶対性がなによりも強調されねばならなかったが、国体神学にわりあてられたのは、その理論的な根拠づけであった」としている。そして、この国体神学は、すでに水戸学や後期国学で培われ、「建武の中興よりも神武天皇による国家の創業に明治維新の理念を求めるべきだとし、「神武天皇の国家建設が祭政一致の原則にもとづくもの」にしなければならないとしていた。この理念を展開するために「頂点に宮中祭祀と伊勢神宮をおき、中間に各地の官・国幣社を配し、底辺に村々の産土社をすえ、こうした国家的規模での神社祭祀の統一的体系に日本人の宗教生活の全体を編成し帰属させるという神道国教体制」を究極の目標と設定したという。
ただ、明治政府の神仏分離の諸布告においては、実際の社会の宗教状況に即し「廃仏」までは明言していない。しかし、新政府に忖度する地方支配層や国学派官僚と、幕藩体制の支配機構の末端を担い、頽廃した仏教勢力への反発を有していた民衆の一部は、その布告の意図を「廃仏稀釈」であると受け取り、実力行動までに至った。
これについて、鵜飼秀徳は激しい「廃仏毀釈」が行われた要因を「①権力者の忖度 ②富国策のための寺院利用 ③熱しやすく冷めやすい日本人の民族性 ④ 僧侶の堕落」と4つ挙げている。①の「忖度」は新しい支配体制のなか、薩長勢力に対し、旧幕派の一部の藩の支配層が生き残りをかけ、新しい支配体制にいち早くアジャストしようとする行為を指し、②の「富国策」については、武器製造などのために梵鐘など金属製仏具の供出や寺院伽藍の学校施設の転用などがあったという。
しかし、所詮、近代国家において「祭政一致」のもとでの国家経営は機能することはなく、国際的にも宗教の自由を容認する必要があり、さらに古代から培かわれ、実生活に根差した信仰に対し、上からの教理だけ大衆の宗教観のすべてを変えることは難しかった。このため激しい「廃仏稀釈」の動きは明治期の前半の短い期間で終焉し、安丸良夫は「国体神学は、結果的には、神社祭祀という儀礼的側面に後退したのちの国家神道によって、擬似的にひきつがれたにすぎなかった」としている。しかし、「この後退は、国体神学の教説がその個々の教条を離れて、多様な媒介性を介して日本人の精神に内面化されるということによってあがなわれた」ともしている。「要するに、神話的にも歴史的にも皇統と国家の功臣とを神として祀り、村々の産土社をその底辺に配し、それ以外の多様な神仏とのあいだに国家の意思で絶対的な分割線をひいてしまうこと」を国民に浸透させることは可能にしたとも安丸は指摘している。
一方、排除を逃れた宗教集団は、近代日本の天皇制国家構築のための「良民鍛冶」が焦眉の急を要するなかで、その役割を新しく序列化された神々を前提に、仏教を含めた「各宗教がにない、その点での存在価値を国家意思の面前に競いあうことで」生き残りを図ることになった。「この良民鍛冶の役割からすれば、仏教の反世俗性や来世主義、また信仰生活の遊楽化などは、克服されねばならなかった。しかし、仏教よりもさらにきびしく抑圧されたり否定されたりされなければならないのは、民俗信仰であった」と安丸はいう。この過程で「権現」や「修験道」は弾き飛ばされ、排除の対象となったのだ。
こうした過程で「民衆の生活と意識の内部に国家がふかくたちいって、近代日本の国家的課題にあわせて、有用で価値的なものと無用・有害で無価値なものとのあいだに、ふかい分割線をひくことであった、といえよう」と安丸は指摘し、「神仏分離にはじまる近代日本の宗教史は、こうした編成替えの一環」であったとしている。
次回はこうした明治の神仏分離政策が大衆へ与えた影響と出羽三山で実際に起ったことに触れ、現在の姿になった経緯に触れてみたい。
参考文献・引用文献
畑中章宏「廃仏毀釈―寺院・仏像破壊の真実」ちくま新書 Kindle 版
安丸良夫「神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈」岩波新書 Kindle 版
鵜飼秀徳「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」文春新書 Kindle 版