蔵王堂
東南院
竹林院
桜本坊
上千本(花矢倉)から吉野山全景(中千本・下千本)
水分神社
金峰神社
金峰神社付近の行者道
大峰奥駆道 玉置神社
〇吉野山の神仏分離の今②
今回は、さらに吉野山を登り、水分神社、金峯神社の地主神たちと吉野山の山岳信仰について考えてみたい。
現在も、蔵王堂から行者たちが大峰山を目指した道筋には、東南院、吉水神社、勝手神社(山口神社)、桜本坊、竹林院など、かつての院坊群が建ち並んでいる。神仏分離に際しては神社化を目指したり、寺院の立場を守ろうとしたりして、現在も独立した宗教法人・施設としてなんとか存続してきた。
とくに金峰山寺の復旧復興の中心的な存在であった竹林院は、現在も歴史的な建造物や庭園などが人気の宿泊施設としても盛業であり、また、櫻本坊は神仏習合を示す仏像群などが遺されている寺院として今も大峰山の護持坊のひとつとして山岳修行の道場であり続けている。また、後醍醐天皇の行宮でもあった吉水神社からは、中千本の桜の眺望がすばらしく、その先には如意輪寺の多宝塔などの塔頭が望め、その如意輪寺の裏手には後醍醐天皇御陵が続く。なお、勝手神社は2001(平成13)年の火災で社殿を失い、ご神体は現在、吉水神社に仮鎮座している。
現在は、これらのように神仏分離の荒波を潜り抜け、それぞれの社寺が、新しい時代の宗教観に合わせつつ、より観光資源としての存在感を高め、吉野の桜とともに吉野山観光の重要な要素になっている。
中千本からさらに急坂を上れば水分神社がある。この神社は、吉野山の修験道の宗教観とは異なった立ち位置にあるといってよく、創建の経緯は不詳だが、水の分配などの農業神としてすでに延喜式の式内社にもなっている古社だ。
古くは青根ヶ峰に祀られていたとされ、その山腹には元水分神社跡があり、万葉集には、「神さぶる磐根こごしきみ芳野の水分山を見ればかなしも」(神々しい岩石のごつごつと峙っている芳野の水分山を眺めると、荘厳ですばらしく感ぜられることである)と詠まれている。この水分山は青根ヶ峰とされ、万葉集の歌には水分信仰が底流にあることが分かる。また、中世以降は社号の水分(みくまり)から「みこもり」と訛り、「子守り」の神としても貴賤を問わず広く崇敬を集めたという。現在の社殿は、棟札から1605(慶長 10) 年に豊臣秀頼により再建されたものであることが分かっている。
子守信仰はすでに平安期には確立されていたことは、藤原道長の「御堂関白記」にも記述されていることからもわかっている。「御堂関白記」によれば、1007(寛弘4)年8月11日の条で、御嶽(金峰山寺)参詣の折に、「參上小守三所。獻金銀。五色絹幣。紙。御幣等」と現在地か、あるいは青根ヶ峰の元水分神社かは、定かではないが、参詣したと記している。これは長女で一条天皇の中宮(皇后)となっていた彰子の懐妊を祈願したものとされ、道長の吉野山参詣の目的のひとつだったとされている。
江戸時代においても、1713(正徳3)年発刊の貝原益軒「和州吉野山勝景図」の絵図のなかでも「子守り明神」として同神社は描かれ、江戸中期の国学者本居宣長は同社を生涯に3回も訪れている。「菅笠日記」では、「此御やしろは、よろづのところよりも、心いれてしづかに拝み奉る、さるはむかし我父なりける人、子もたらぬ事を、深く嘆き給ひて、はるばるとこの神にしも、ねぎことし給ひける」と、宣長の幼いころ亡くなった父親が同社に祈願して宣長を授かったことだとし、自分の原点だとも記している。かつては、青根ヶ峰を水源とする在地の水分信仰から始まったものの、早くから子守り神としての性格が強まり、江戸期にはすでに子守信仰が完全に前面に立っていたのだろう。
上千本のさらに奥、修行門や女人結界を越え、本格的に「大峯奥駈道」の修験道に入る所、奥千本に金峯神社がある。この神社の立場は、神仏分離の際に、吉野山全体の本社とされたということから、少しややこしい存在となっている。
江戸時代以前にはこの地にある神社は「金精社」また「金精大明神」と称されていたとされる。江戸後期の「大和名所図会」では、その説明のなかで「『神名帳』曰く、金峯(きんぷ)神社、吉野山の地主神として、金御嵩(かねのみたけ)の号(な)もここに起ると」として紹介している。ただ、清浄地であることを記したうえで「金峯山寺の鎮守とかや」と金峯山寺との関係は明解にしてはいない。また、江戸末の「吉野山名山図志」では、挿絵はあるが小さな社が描かれているだけ、「金精明神」と社号はあげているものの、とくに記事はなく、見どころはなしと括っている。
この神社の近くにはかつては「金峯山三所の蔵王」(山上蔵王⦅大峰寺⦆・安禅之蔵王・山下蔵王⦅金峯山寺蔵王堂⦆)と称された安禅寺があっところでもある。この寺は、平安前期、桓武天皇の勅願で宝塔が建立されたのがはじまりで、貞観期には伽藍が整備されたものの、その後、荒廃したのを豊臣秀頼が再建したといわれる古寺である。しかし、神仏分離の混乱のなか、1892(明治25)年に廃寺となり、現在は廃墟となっている。同寺にあった蔵王権現立像と愛染明王は金峯山寺に、都藍尼(中世に霊山女人禁制に関わる伝承の修験尼僧)像は櫻本坊に母公像として、現在はそれぞれ安置されている。
この神社の祭神であった「金精明神」の意味は、現在の青根ヶ峰を指し、なんらかの鉱物が産出したのではないかとされ、そのため金峯山(吉野山、大峰山全体を指すともされる)と称したと伝わることから、その地主神だった考えるのが妥当なのだろう。これは推測だが、古くは、山自体がご神体で本殿すらなかったとも考えられる。そのため、神仏習合をして形成された修験道のなかではコアの存在ではなかったのだろう。
それは1922(大正12)年の境内地所属に関する裁判の際に出された、金峯山寺側の神仏分離の命令が出された立場に関する弁明要領書でも明確に主張しており、「吉野山字二ノ鳥居ノ近傍ニ在ル金峰神社、延喜式内社ニシテ、金峰山寺ノ地主神タル金精明神ノコトニシテ、金峰山寺蔵王堂ヲ神社視シ、蔵王尊ヲ神トシテ視タル金峰社ノコトニアラズ」と峻別している。それ故、神仏分離が施行されても「蔵王権現其モノヲ、口ノ宮、奥ノ宮ノ本尊トシ、神トシ神社トシタルニアラズ、別ニ之レマデ金峰山寺ノ地主神トセル金精明神(金峰神社)ヲ本社トシテ、之ヲ拡張シ、口ノ宮、奥ノ宮ニハ其分霊ヲ祀ラセルコトニシタリ」として、金峯山寺や蔵王権現の資格存続にはなんら干渉するべきではないという立場をとっている。
これが恐らく、神仏分離の施行の命令が出た1884(明治7)年時点から吉野山関係者の現場感覚の実態に即した考えた方だったのだろう。事実、金峯神社は、「吉野山名山図志」にあるように小さな社殿しかなかったため、その後、拝殿を吉野神宮の旧拝殿を移築したりして、その体裁を整えていた。それ故、結局は実態に合わせざるを得なくなり、吉野山は明治中期には旧に復すことになっていったのだ。
しかし、それでも、中央政府は、一時的にせよ神仏分離を推し進め、多くの寺僧が復飾せざるを得なくなり、仏像仏具も復飾しなかった寺僧がいる寺院などに預けられることになった。この混乱状態のなかで官員による宝物の持ち出しもあり、「播磨雑稿」のなかでもその事例について憤りをもって記述している。それでも、廃寺的な期間は比較的短く、旧に復するのが、早かったため、比較的散逸が抑えられたことも事実だが、それは金峯山寺とその院坊、地元の関係者、信者の尽力によるものが大きい。
吉野山のさらに奥、大峰山脈の主峰山上ヶ岳(標高1719m)の山頂にあるのが、大峰山寺である。ここは672(天武天皇元)年に役行者が金剛蔵王大権現を感得して蔵王堂を金峯山(山上ヶ岳)に建立したといわれ、その後、修験道の根本道場として多くの修験者・信者が修行に訪れた。本堂は天平年間(729~749年)に行基が改築したのち衰退する時期もあったが、平安期に入り真言宗の僧聖宝によって再興された。
しかし、1534(天文3)年に争乱に巻き込まれ他の諸堂堂宇ともに焼失した。現在の本堂は、1691(元禄4)年に内陣部分が建立され、その後1706(宝永3)年までに外陣部分の拡張が行われた。門口約24m、奥行約20m、棟高約13mの寄棟造。本堂が国指定の重要文化財となっているとともに、本堂及びその周辺からも山岳信仰にまつわる出土品も数多く発掘されている。
大峯山寺は、吉野山から高野山に向かう約120㎞の修行の道「大峯奥駈道」のもっとも重要な霊場とされ、吉野の金峯山寺から青根ヶ峰(同858m)、大天井ヶ岳(同1439m)を経て、大峯山寺のある山上が岳までの尾根伝いの道を「山上道」と称し、さらに山上ヶ岳から弥山・釈迦ガ岳(同1800m)を経て熊野を目指す道を「奥駈(おくがけ)道」または「奥通り」と呼ばれている。
この重要な聖地も、神仏分離で混乱をした。1884(明治7)年の教部省からの指示で、この寺院は金峯神社の奥の宮となったため、これでは参詣者が減少し地元経済に影響があるとの地元からの要望を聞き入れ、本堂から仏像、仏具は取り払われたものの、本堂の蔵王権現出現の地とされる「龍穴」には手をつけず、鏡と御幣を置いて祀り御簾をかけるに止まった。さらに仏像・仏具類は同寺の接続地のお花畑に別堂を建て、そこに安置することとし、それを龍泉寺(吉野郡天川村洞川)と善福寺(吉野郡吉野町吉野山)に監守することを奈良県も容認した。
結局は、この神仏分離策は長続きせずに、1886(明治19)年に金峯山寺は再興されたことはすでに述べたが、同時期に大峰山寺は金峯山寺とは別個の寺院として龍泉寺、桜本坊、喜藏院、竹林院、東南院を護持院として復活した。
このように吉野山は、神仏分離政策に対し、一旦は従わざるを得なかったものの、比較的早く、旧に復することはできたものの、江戸時代までのように盛んであった修験道を中心とした神仏習合の宗教観は衰微していったのも事実である。しかし、一方では、日本有数のサクラの名所としての名声とともに、遺された蔵王堂や大峰山寺への観光参詣は、入込数が110万人と横ばいではあるもののいまもなお盛んである。
インバウンドを含め、さらにこれを増加傾向に転じるための施策について、ここでは議論するつもりはないが、観光対象としての価値を高め、質の高い観光資源としていくためには、吉野山の宗教的存在意義を根本から変転させたこの神仏分離政策とそれまでの長い深い歴史を、俯瞰的に伝えていく努力をする必要があるのではないかと思う。それが明らかになって行けば、吉野神宮、蔵王堂の蔵王現権現立像、吉水神社、東南院、櫻本坊、竹林院、水分神社、金峯神社、そして蔵王権現の出現の場所である大峰山寺の連関性、朝廷あるいは政治との関係性、修験道が担った信仰の意味など吉野全山への知的好奇心を高めてくれるに違ない。
ただ、同じ信仰の流れであっても、吉野山と熊野三山との間では神仏分離の結果として残されたものが、全く異なる形になった。吉野山はこれまでみてきたように寺院が早くから復旧し、神社形式が主流とならなかったが、熊野三山は、神社合祀令の影響で統合はされたものの神社中心の形式が主流となった。この違いはなぜ起きたか、当然ながら疑問となる。この点については、次回の「神仏分離の爪跡(Ⅴ)」で考えてみたい。
〇参考文献・引用文献
畑中章宏. 廃仏毀釈 ――寺院・仏像破壊の真実 (ちくま新書) (p.141). 筑摩書房. Kindle 版.」
「吉野神宮史にみる近代の吉野」髙野裕基
明治維新と修験道 鈴木正崇
明治維新神仏分離史料 続編 巻下 昭和4年45/629 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1178653/1/45
明治維新神仏分離史料 巻下 昭和2年62~198/621国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1178600/1/62