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​特集 10月号​   神仏分離の爪跡(Ⅴ)

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​熊野古道中辺路継桜王子付近の茶屋

1.F11A3994 和歌山県田辺市熊野古道中辺路継桜王子3.JPG

熊野古道中辺路継桜王子付近

3. F11A3978 和歌山県田辺市熊野古道中辺路継桜王子1.JPG

熊野古道中辺路継桜王子

4.F11A4024和歌山県那智勝浦町那智の滝.JPG

​熊野古道 那智の滝

5. 290072奈良県桜井市大神神社IMG_2808.JPG

​大神神社拝殿

8.290072奈良県桜井市大神神社三輪山F11A9380.JPG

​奈良・三輪山

7. 290072奈良県桜井市大神神社 摂社狭井神社三輪山登拝口 IMG_2825.JPG

​奈良・三輪山登拝口

10. 290053奈良県天理市 石上神宮IMG_2893.jpg

​石上神宮

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​内山永久寺跡境内図

13. IMG_3504奈良県天理市 内山永久寺萱御所趾.JPG

​内山永久寺跡萱御所趾

15. IMG_3506 奈良県天理市 内山永久寺址 芭蕉句碑.JPG

​内山永久寺跡芭蕉句碑

〇残された青岸渡寺、消えた内山永久寺
 

 前回まで吉野山で出会った神仏分離について書き綴ったが、そのなかで、吉野山と同じ信仰の流れで修験者たちが行き交った紀伊半島の南にある熊野三山との間では神仏分離の結果として残されたものが、全く異なる形になった。吉野山はこれまでみてきたように寺院が早くから復旧し、神社形式は主流とならなかったが、熊野三山では、神社合祀令の影響で神社の統合はあったものの神社中心の形式が主流となった。これは、紀伊半島の付け根と南端でどうしたこうした違いがうまれたか、当然ながら疑問に思うところだ。
 そこで、熊野三山における神仏分離の経緯について簡単に触れたい。熊野三山については、その形成は諸説あるが、もともとは滝(那智滝)や大岩(神倉山)の自然信仰から始まったとされ、それに氏族による神の概念が持ち込まれ、さらには記紀による国造りの伝承と入交り、霊域、神域とされ、「黄泉の国」「常世の国」との接点と認識もされるようになった。その後、仏教思想の流入によって神仏習合し、修験道へと発展していったというのが信仰の歴史的経緯の大要であろう。
 中世以降は修験者の行場として吉野山とともに広く知られ、さらに天皇家、貴族などの崇敬を受け行幸も度重なった。「新宮市史」によれば、室町時代以降、上位先達(修験僧の指導者)によって「宿坊の御師と橋梁して道者の誘引に専念し、熊野の宣伝に力を注いだ」といい、「有力な檀那と結んで師檀関係を強固に構成」して、この地域の経済基盤を確立したという。しかし、このことによって、近世に入ると厳しい修行の場というより「しだいに巡礼化し、遊山気分をさえ交える」ようになっていう。
 しかも、1744(延享元)年に至って、「社家、本願社務争訟訴訟」が起こった。これは神社側すなわち社家側と、本宮・新宮のそれぞれの庵主(2カ寺)及び那智山の7カ寺の本願所9カ寺との争いで、本願所とは社殿の造営・修理を勧進する寺院のことを指し、本来は造営のための寄進を集める機能であったが、徐々に神社の社務に影響を与えるようになり、本来、神社の経営にあたっていた社家との争いが中世から長年続いていた。結局、この延享の訴訟における江戸幕府の裁定で社側が勝利となり、一挙に寺院勢力が衰微していった。
 また、紀州藩主が江戸後期あたりから、水戸国学などの影響を受け、「神儒一如」を旨としたため、先行的に神仏分離政策を取り入れており、修験道の布教を制限したこともあってこの訴訟結果と合わせ、熊野における寺院勢力は明治に入る前から力を失っていたといえよう。そのため、神仏分離令に対しても熊野本宮大社と熊野速玉大社の仏堂はすべて破却され、熊野那智大社においてにのみ如意輪堂が、西国三十三か所の巡礼地であったこともあって青岸渡寺として遺されるに過ぎなかった。
 このような経緯から、神仏分離政策に対し、吉野山と熊野三山では、遺された寺社の態様が大きく異なることになったが、中心的な信仰形態としての修験道は壊滅的な影響を受けたことは同様である。

 

 さて、次に神仏分離の動向のなかで、最も大きな影響を受け、消滅してしまった巨大古刹について触れてみたい。
奈良盆地の東南端で流れ出た大和川の舟運の一大拠点であった海石榴市から、遷都が繰り返された盆地内の古代の都をつなぐ道が、「山の辺の道」である。この道は盆地の東端を海石榴市から、三輪山の麓を抜け、数多くの古墳、天皇陵を左右にみながら北に向い、石上神宮までを辿っており、さらには奈良市内の春日大社へも続いている。
 現在の「山の辺の道」と称する道も古代の道をほぼ辿っているといわれる。「山の辺の道」の案内は、ここでは避けるが、海石榴市から約10㎞(近鉄桜井駅から近鉄天理駅まででは約16㎞)の間に数多くのみどころがあり、とくに記紀にも登場する延喜式内社の古社、大神神社と石上神宮が最重要ポイントといってよいであろう。
 三輪山をご神体とする大神神社から石上神宮の「山の辺の道」は奈良盆地を左に眺めながら、畑作、果樹園を中心とした田園地帯を通る小道で、時折、集落の中を抜けたり、古墳、陵墓の際を歩いたり、あるいは、ちょっとした山あいを抜けていく。大神神社から約8㎞、もうすぐ、石上神宮の境内地に入ると思われる山あいに、古道の左手に溜池が現れ、右手には人工的に積み上がれた石垣や平坦な造成地が、山腹の地形に沿って、随所に見ることができる。なにか、かつて大きな施設があったことは理解できるものの、現在は、建物はなにひとつ遺されていない。ただ、池畔の小高いところに「内山永久寺址の境内図」の看板が立つのみである。 
 はて、これは何かと、探求心が湧いてくるシチュエーションだ。境内図の説明書きをみると、明治初期に廃寺になった大寺と記されており、早速、「明治維新神仏分離資料」にあたってみる。とすると、ここは極めて大胆な廃仏毀釈が行われた地であったことが分かる。まさに「神仏分離」の爪跡の典型的な事例と考えられるので、少しその経緯を書き留めておきたい。
 この内山永久寺は、1600(慶長5)年の「内山永久寺縁起」によると、永久年間(1113~1118年)に鳥羽天皇が楼閣に登り、南の空に金色の光を見るという奇瑞に遭遇した。その光が立つところは「山跡(やまと)の国山辺の郡いその上(石上)布留社の南の山」ではないかと、勅使が確認に行ったところ、頼実という一人の比丘がこの地を「この頃此山に光明のあかる事数十丈なるを、これなん法門興隆すべき地」として、密教流布の道場にとも思い、見捨てがたくすでにここで住んでいた。勅使は、帰京して奏聞したもの、その折には天皇からは特段の指示はなかったという。
 しかし、20年余りの後、長承、保延の頃に天変や飢饉に見舞われ、速やかに大伽藍を建立するように天皇に夢告があり、高僧の亮恵をして光明の奇瑞があったこの地に伽藍建立の詔が発せられたという。そして「金剛乗院の勅額を賜ふ、されハ此山五鈷杵の形にて内に一の山あれハ山号を内山といひ、永久年中に奇瑞をあらハせしを以て、寺号を永久寺」としたという。
ただ、鎌倉後期の記録である「内山永久寺置文」等では頼実を本願とし、太政大臣の子弟である尋範が別当となって、保延年間(1135~1141年)頃に主な堂塔を整備させたとしている。いずれにせよ室町期には寺領971石、境内は5町四方、坊舎52坊あったされる大寺であった。
 江戸後期の「大和名所図会」にも広大な境内図の挿絵が掲載され、「本堂は阿弥陀仏を本尊とす。奥院の不動明王は、日本三体の其一なり…中略…其外諸堂魏々として、子院四十七坊」あったとしている。中世以降勢力を伸ばした永久寺は北隣りにある石上神宮の神宮寺と、もなり、神仏習合で天皇家、貴族はもとより、広く崇敬を集め、隆盛を誇ったという。
 このような大寺であったにも拘わらず、「天理市史」によると、明治維新後、1875(明治8)年頃には、戸長役所への報告資料には「前段(明治7年)反別御調之節に諸建物等、歴然と有之、広々と相見え候得共、其後元伽藍堂宇は不残御売払に相成尚又銘々共宅地諸建物は勿論石垣石段等に至迄取荒し、追々及破却に候」とされており、廃墟化が一挙に進んだとしている。これはいくら神仏分離が引き金となったとはいえ、無惨な結果となっているおり、おそらくは、この寺院の特殊な事由があったのだろうと推測出来る。
 この間の経緯について、東京美術学校の校長も歴任した正木直彦は「十三松堂閑話録」で「布留石上明神の神宮寺内山の永久寺を廃止しやうと言ふことになつて、役人が検分に行くと、寺の住僧が私は今日から仏門を去つて神道になります。其の証拠はこのとおりと言ひながら薪割を以て本尊の文殊菩薩を頭から割つて了うた。遉(さすが)に廃仏毀釈の人々も此の坊主の無慚な所業を悪みて坊主を放逐した。その迹(あと)は村人が寺に闖入して衣類調度から畳建具まで取外し米塩醤豉まで奪い去ったが、仏像仏具は誰も持つて行き手がない」ため、役所は庄屋に命じ、預賃年15円で貰い預からせることとした。年月を経て、結局は庄屋家の所有になっていったが、順次散逸したと記述している。
 この記事は少し乱暴で、本尊を破壊した「坊主」を二十八代座主上乗院亮珍のことだとすれば、時系列的にはずれがある。同寺の僧侶の復飾と廃寺化をリードしたのは亮珍であることには間違いはなく、1868(慶応4)年3月の神仏分離令が発令されるとすぐに、復飾し「藤原亮珍」と改名して、石上神宮神官となることを申し出ているので、廃寺と放逐のタイミングが合っておらず、さらに亮珍は明治5年には逝去しているので、このエピソードにはそぐわない。
 ただ、永久寺はこの多難な時期に、代表者である「山務」と「上乗院大僧正」に亮珍を迎えていたことが、この悲劇的な結果を生んだのかもしれない。亮珍は公家出身で、明治維新以前からすでに、急進的な国学派と親交があったとされ、神仏判然や廃仏毀釈の思想の持主であったのではないか、とされる。
 このため、神仏分離令発令後、すぐに復飾願いを出し、その後も繰り返し「位階」を求めていたのをみると、必ずしも純粋に国学思想に基づくものでなく、一定の身分保証を求めていたのかもしれない。推測すれば、僧侶としての立場に拘泥しておらず、寺院運営も必ずしも専心していたのではなかったのではないだろうか。それ故、寺院の存続、あるいは寺宝の継承に全く関心を有せず、地元から支持、支援もなかったため、廃仏毀釈運動のなかで、外的圧力というより、内部崩壊という形で、あっという間に700年ほどの古刹の歴史を無に帰してしまったのだろう。
 残念なことに、各所の博物館や寺院に一部は遺されているものの、仏像、仏画、書画、文献などがことごとく散逸し、海外へも流失したとされ、取り返しのつかない事態だったともいえよう。当時の状況から、いかに文化財を守ることが難しかったかは、想像するのに難くはないが、現代でも同じ状況を繰り返さないとは断言できないことを心しておくべきだろう。
 いま、旧境内の古池にほとりに「うち山やとざましらずの花ざかり」と芭蕉の句碑が立つが。芭蕉が目にした光景をいまは全く想像もできないほど荒れ果てたことを無念に思わざるを得ない。

参考文献・引用文献
「新宮市史」1972年 70~104/577 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/9572998/1/70
熊野三山協議会「熊野三山とは 熊野本願文書」
http://www.kumano-sanzan.jp/sanzan/hongan.html
杉山正樹「連載・神仏習合の日本宗教史(7) 熊野三山と山中他界の信仰」宗教新聞2022年10月17日   https://religion-news.net/2022/10/17/sugi792/
村上専精 等編「明治維新神仏分離史料 続編 巻下」昭和4年 16・34/629 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1178653/1/16
水間徹雄「建築巡礼の旅 神社建築02/石上神宮・内山永久寺跡-2」
https://mizumakjt.fc2.net/blog-entry-74.html
「天理市史」1958年 341~344/558 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/3020868/1/344
大日本名所図会 第1輯 第3編「大和名所図会」大正8年 182/375 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/959906/1/182
東京国立博物館 編「内山永久寺の歴史と美術 : 調査研究報告書内山永久寺置文 史料篇」1994年 11・76/107 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12635107/1/76
正木直彦「十三松堂閑話録」昭和12年 81/185 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1220385/1/81

 

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14.IMG_35054 奈良県天理市 内山永久寺萱御所趾.JPG

​内山永久寺跡

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