
〇旧有路家住宅【封人の家】
(全国観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/060079-)
国道47号線は太平洋岸の仙台から山形県の新庄を経由して、日本海に面する酒田まで達する。途中、岩出山伊達藩の城下町だった岩出山町から出羽山地の深い山間部に入る。こけしで知られる名湯鳴子温泉、義経伝説のある尿前の関跡を経て、中山越えして山形県に入る。鳴子温泉も尿前の関跡も十分に山の中だが、国道47号線はここからさらに緑深い山中に分け入る感じがする。県境となる中山平まで上り詰め少し下ると、小さく開けてくるのが山形県最上町堺田だ。
国道47号から南西に300mほど入ったところにJR陸羽東線の無人駅堺田駅(現在鳴子温泉駅‐新庄駅間不通)があり、その前に分水嶺を示す看板が立ち、確かに北から流れてくる小さな川が東と西に分かれている。ただ、平地での小川の分流なので分水嶺という実感は湧かない。
国道47号線とこの堺田駅に入って行く路地との交差点のすぐ近くに、今回テーマとした「旧有路家住宅(封人の家)」がある。「旧有路家住宅」は旧堺田村の庄屋だった家であるが、ここは松尾芭蕉が「奥の細道」のなかで「虱蚤(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」とい名句を詠んだ場所としても知られている。この住宅についての解説やここに芭蕉が宿泊した経緯などは、「観光資源台帳」や同台帳のエッセイ「たびれぽ 国境の『奥の細道』(https://tabi.jtb.or.jp/tabirepo/okunohosomichi/)」
で取り上げているので、合わせて読んでいただけると幸いだ。
この観光資源は、芭蕉ファンや俳句愛好家にとっては、「奥の細道」のなかで、芭蕉が宿泊したところで当時の建物がそのまま遺っているとされるのはここだけなので、大変興味深く、一度は立ち寄りたいところだろう。ただ、一般の観光客にとっては、国道沿いにある、古い庄屋屋敷程度にしか目には映らないかもしれない。それ故、時折起こる「奥の細道」ブームの時にツアーバスが立ち寄る以外は、多くの人が訪ね、滞在していくレベルの観光資源にはなかなかなれないだろう(2023年入館者数3057人、2012年に7067人)。」
しかし、この観光資源に纏わる話はなかなか興味が尽きない。私自身、この地に立ってみると、なぜ芭蕉はこの道を通って、ここに泊まったのか?そして、旅慣れているはずの芭蕉が尿前の関で通行手形を持っていないためにトラブルに遭遇したのか、あるいは、芭蕉が「封人の家」と称した「有路家」という家は、このような山深い国境の辺境の地になぜ居を構えたのか?また、どのような暮らしをしていたのか?など、次々に疑問がわき、知的好奇心を刺激するものがあった。
こうした疑問や興味に従い、その後調べてみたことをここで少し紹介をしてみたい。
そもそも松尾芭蕉がなぜ「奥の細道」を歩いたか、また、平泉からの経路の選択についても「たびれぽ 国境の『奥の細道』」で触れたので参照していただきたいが、経路の選択について、もう少し考えみたい。
芭蕉がみちのくを歩くことになる一つの大きな目的は、西行法師や能因法師の足跡を訪ねることであり、俳諧の本質である「不易流行」を見極めたいということであったようだ。さらに、そのなかで、地方の門人や支援者との交流によって、俳諧の本質を啓蒙しようと試みでもあったかもしれない。「奥の細道」のルートその北限は平泉から象潟であるが、これはまさに前者が西行の後者が能因の旅の北限でもある。
このため、1689年5月(元禄2年3月)に江戸深川を出て奥州街道を下り、黒羽、那須、白河を経て仙台へ。そして仙台、松島を巡ってさらに北上し、平泉まで行き、どこかで奥羽山脈を越え、象潟に向かっているが、目的地とおおよそのコースは最初からある程度は決めていたのだろう。もちろん、途中の最上川や羽黒三山も組み込んでいるが、有力な支援者で門人たちが多くいた尾花沢への訪問とファンサービス(俳諧之連歌会など)も重要なルート設定の要素のひとつであったのだろう。
「曽良旅日記」には訪ねた有力支援者や門人たちとの「俳諧之連歌会」の開催やサポートされたことについての記載も多い。これからみると、那須の黒羽や白河の関を越えてすぐの白河、須賀川などでは、宿の提供はもちろん連歌会を開いたり、旧跡を訪ねたり、支援者や門人によるその歓待ぶりが窺えるものが記載されている。しかし、仙台に入ると、訪ねた支援者には会えず、俳人仲間の大淀三千風も不在で、結局その門下で書林を営んでいる北野屋加右衛門の世話になっている。この加右衛門によって、仙台の名所を巡り、松島の案内地図や宿の紹介をしてもらっている。
おそらく、この時に平泉や有力な支援者のいる出羽の尾花沢への行程を聞き及んでいるかもしれない。というのは、平泉から尾花沢までの間、支援者や門人に関する記載がなく、かなり不案内で心許ない旅ではなかったのではないだろうか。また、尾花沢へ抜ける当初の予定行程については、「曽良旅日記」に「中新田町 小野田(仙台より最上への道に出合) 原の町 門沢(関所有) 渫沢 軽井沢 上の畑 野辺沢 尾羽根沢 大石田船乗」と極めて詳細に語られ、さらにこの道が仙台から尾花沢に向かう最短コースでもあることからみると、加右衛門などから仙台で仕入れた情報ではないかと思われる。
しかし、結局この道は通らず、当初予定の峠越えをやめ、北寄りの「中山越え」を岩出山の宿で選択することになる。岩出山から尾花沢への道筋としては、歌枕の「小黒崎」がこのコース沿いにあり行程も短くなることと、岩出山から当初ルート上の関所のある門沢(冬季の番所、通常期は軽井沢に番所がある)までショートカットできる道もあるが、難路ということでから、「中山越え」を選んだのではないかと想像できる。
「曽良旅日記」によれば、平泉から南下して岩出山宿に泊まり、1689年7月1日(元禄2年6月15日)に岩出山宿から歌枕の「小黒崎」などを回って「尿前の関」まで5里ほど(約20㎞)を歩いている。
そしてこの選択の結果、「尿前の関」で「関守にあやしめられて、漸として関をこす」(「奥の細道」)ことになるのである。その原因について、曽良は「関所有。断六け敷也。出手形の用意可有之也」としていることから、途中手形と呼ばれる、その地で発行する出手形(「出判」ともいわれる)を持っていなかったことだとしている。
そこで、疑問になったのは、当初予定の行程でも、「出手形」が必要であれば、極めて親切にサポートした加右衛門がその取得の手伝いをしないわけがないと思われる。まず、仙台からの道筋を考えると、基本的には仙台領内で、平泉は、当時は仙台領であったから、通常の身分証明ともなる通行(往来)手形を持参していれば、途中手形は不要であったと考えられる。また、最初予定した経路上の軽井沢番所は仙台藩と山形、村山などの諸藩との境になっており、仙台藩直轄の関所であるが、一方の尿前の関は庄内藩と仙台藩の支藩である岩出山伊達藩の境にあり、岩出山伊達藩の管理となっていた。本藩と支藩で扱いが違ったということか、あるいは関所ごとに個別ルールがあったのかもしれない。
そこで、この出手形(出判)はどのようなところ必要となったのかを確認してみたい。
そもそも「通行(往来)手形」は「関所手形」と呼ばれ、五島敏芳の「往来手形考」によると、関所において「入鉄砲に出女」の改めに利用していたため、諸奉行など公的組織が発行し女性のみが必要とされた。一般的には、「百姓・町人の男などは本来関所改めの対象ではなく、本来の関所手形は必要ない」とされたという。しかし、現実には「東海道膝栗毛」の記事に見られるように大家などからから受け取った「通行(往来)手形」を所持していたという。身元証明の確認に使用されたといい、発行者も大家であったり、寺院であったり場合によって旅先の旅籠、茶屋であったしたという。五島は庶民の通行が多くなった元禄以降に使われるようになり、江戸後期に一般化したとしている。
山本光正の「旅と関所」でも「近世関所の通行は一般庶民男子の場合、往来手形の改めを受ければ通行できることになっていた」とし、箱根の関所では「手形が無い者は取り調べの上、不審な点が無ければ通行させるという」としている。ただ、関所によっては「関所通過の際手形を関所に提出」した事例もあり、これが旅の途中で出される途中手形だとし、本来幕府が定めた通行手形ではなく、時期によっては発行中止を命じたが、運用は続いていたとみられるという。
ただ、地域により、関所によりその改め方は多様であったとされる。例えば、芭蕉の目的地のあった羽黒三山のある庄内藩は、関所改めが比較的厳しく、「鶴岡市史」によると、5カ所の関所で「境界の警戒、旅人の出入の取り締まり、物資搬出入の監視を行った」とし、「此処を通るには『出判』『入判』がなければならなかったし、幾らかの約銭すなわち通行税」を必要としていた。つまり、出入国管理と税関機能が厳しかったともいえよう。当然、羽黒三山に向かう参詣者、道者もその対象になっており、往来手形以外に「出判・入判」が必要であったとする「旅行記」や特産品の厳正な輸出管理の事例を「鶴岡市史」は紹 介している。
それでは、尿前の関を管理する岩出山伊達藩ではどうであったか。
尿前の関は仙台藩(支藩岩出山伊達藩)と新庄藩の境目であるが、この北陸羽街道は、大名の参勤交代などに利用する本街道ではないため、他国ものの交通はそれほど、多くなかったとみられる。一方では、物資の通行は盛んであったともみられ、宿駅も整備されていたため、地元民の通行は相応にあり、庄内藩や新庄藩の特産品の輸出路になっていた。
ただ、尿前と堺田の間の中山付近の仙台藩と新庄藩の藩境について、当初確定しておらず、両藩での紛争が絶えず、幕府の裁定により、1645(正保2)年頃に確定した所でもあった。そのこともあり仙台藩は、このころより尿前の関の管理を厳格化したとみられ、「鳴子町史」によると、1669(寛文9)年には、関所の管理を地元に任せず、岩出山伊達藩の役人(尿前関所役)を派遣しているとしている。
さらに同町史では1777(安永6)年の富田伊之と僧山隠の旅行記に、番所(関所)を通過するのに手形が必要で、食事を食べた百姓家で手形が手に入り、その手形を番所に届けてもらい、その代金が12文だったことを記していると紹介している。番所の体制が整備されてから100年経てもこのような検断体制であったのだから、まだ国境確定から20年ほどしか経っていない芭蕉が通った時期では一定の厳しい管理体制とられていたのだろう。
仙台藩は数度にわたり「境目留物等定書」を制定・改定しているが、主な規制対象は、女性(とくに比丘尼)の取締と藩指定の禁制品の検断は厳しさが増したが、男の地元領民に関する規制はほとんどみられず、他領民と物資の輸出入に携わる人々への検断のみが厳しかったようだ。ただ、仙台藩が他領との間に設けた関所(番所)は19カ所(あるいは27カ所とも)あったとされるが、それぞれの地域によって、地域事情に合わせ多少の運用幅があったと思われる。
例えば、白石の上戸沢番所では、幕府の「入り鉄砲に出女」を意識した厳しい規定になっており、いわゆる途中手形の出判入判を必要としているものの、検断を簡便に運用しており、男性に関する馬丁など特定職業の出判入判以外は遺されておらず、尿前の関所(番所)とは運用が異なる印象だ。
なお、新庄藩側といえば、検断はかなり厳しく「最上町史」によると「仙台領の商人たちが新庄領内、あるいは庄内・秋田方面で商いをするのに、しばしば小国領内を通行していたことが知られる。商人達が前述のように領内に入るには入判、領内から出るには出判という証明書(通行許可証)が必要であった」としている
これらから見ると、岩出山伊達藩としては、新庄藩の扱いに対抗または準じて、出判・入判の発行・確認をする運用をしていたのではないかと推測できる。芭蕉はおそらくこの運用を知らずに尿前の関にいき、検断で怪しまれた可能性が高い。芭蕉や曽良に幕府隠密説もあるが、もし隠密であれば、このように身分に関することで疑われるような行動をとるはずもないと考えるのが妥当ではないだろうか。
さて、こうしてなんとか、尿前の関を越えるが、岩出山から雨の中20㎞ほど歩き、途中、歌枕「小黒崎」に寄り、関所の通過に時間が掛かったというのであるから、関所から1里半(6㎞)ほどの中山を越え数百m先の新庄藩領に入ったのは夕刻に近かっただろう。新庄藩側の国境最前線である堺田で宿泊するのが、駅宿も兼ねる「封人の家」と芭蕉が称した庄屋の有路家の邸宅である。「奥の細道」では「大山をのぼつて日すでに暮れければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」と記している
天候不順でこの地に3日間降り籠められた芭蕉と曽良は尾花沢の門人たちのところに早く辿り着きたかったのか、ここでも山道の厳しい最短ルートの山刀伐峠越えを選択している。曽良はこの経路について「笹森関所有。新庄領。関守は百姓に貢を肴し置也。さヽ森 、三り、市野ゝ。小国と云へかゝれば廻り成故、一ばねと云山路へかヽり、此所に出。堺田より案内者に荷持せ越也」と記している。芭蕉を泊めた有路家は問屋宿駅でもあるので、芭蕉の訪問先である門人の鈴木清風が有力な紅花商人ということを熟知していたと思われ、途中手形(入判)の世話から、厳しい山道の案内まで引き受けたのではないかと思われる。
なお、新庄藩側の関所は、堺田のすぐ西、新庄の城下への道と山刀伐峠に向かう道の分岐に笹森口留番所を設けていた。とくに入国で厳しい検断がなかったのは、当然ことながら有路家の案内も付いていたからだろう。
こうした経緯のなかで大きな役割を果たす、この地域の有力者であった有路家はどんな一族だったのかについても、若干ながら触れておきたい。有路家については、「最上町史」の編纂資料としてまとめられている「堺田・有路家旧蔵文書」に詳しい。
この文書の分析にあたった上野貞によると、同家の家伝では最上氏傘下の尾花沢の延沢氏の家臣だったとされ、1622(元和8)年に最上家の改易とともに延沢氏も滅亡したため、その家臣である「有路但馬は帰農することを決意した。その子三人の男子」は長男が地元畑沢に、もう一人がこの堺田に、さらにもう一人は一迫(宮城県栗原市)に居を構えたと伝えられている。その後、延沢領から数軒が堺田に移住し、村が形成されたとみられている。本家とみられる畑沢の有路家は1648(慶安元)年に畑沢を本拠としたことから、この前後に分家として堺田に入植し、新田開発をおこなったのは間違いないだろう。
堺田はその名の通り仙台藩領との国境の最前線で有路家の入植は、その国境画定(1645年頃)の前後であることから、この国境を守る村としての位置づけであることを最初から認識しており、あるいは、その任を与えられてものであったことは想像に難くない。「最上町史」では芭蕉が有路家を「封人の家」としたことを「当時地元でそう呼称をされていたわけではなかったであろうが、自らが宿りを求めた現在の旧有路家住宅を、その家がある村の持つ性格を適切に名称」として表現したのではないかとし、「堺田村の歴史上の性格をみごとに言い当てている」とも指摘している。
堺田村の規模は、江戸中期1794(寛政6)年から1877(明治10)年までの人別帳などからみると9戸52人から11戸65人と近世を通じ、小規模だが安定している。新田開発で入植したとは狭隘な地区でどのような生活基盤があったかというと、林業と馬産地として一定の地位を築いたと思われる。有路家は小国郷の駒頭という新庄藩の末端役人も務めており、新庄藩のなかでも有数な馬産地だったという。
また、堺田は「出羽街道」の宿駅としても指定されており、有路家は問屋も兼ねていた。すなわち、江戸期を通じ、新庄藩の末端役人としての駒頭、村の指導者として庄屋、街道の宿駅管理など重要な役割を担っていたといえよう。
とはいっても、馬産で馬の育成実務に関わっていたので、当然ながら、屋敷もこの地独特の馬との共生する造りになっている。これはぜひ、芭蕉が詠んだ「蚤虱馬の尿する枕もと」を現地で実感してほしい。もっともこの句は現地で完成したものではなく、推敲を重ねたうえで成句したとのことであるが、臨場感あふれる句であることは間違いない。
こうして尿前の関、山中越え、山刀伐峠の難所を越え尾花沢に着いた芭蕉たちは、有力な門人や支援者に囲まれ、「俳諧之連歌会」なども開き、周辺の名勝地も訪ねた。逗留は10日間にも及び、6月1日に至り大石田、新庄に向かうことになる。
尾花沢は天領で大石田は山形藩、新庄は新庄藩なので、当然のことながら途中手形(出判・入判)が必要であり、曽良も尿前の関で懲りたのか、「大石田より出手形を取、なき沢に納通る。 新庄より出る時は新庄にて取りて、舟形にて納通。両所共に入には不構。二り八丁新庄、風流に宿す」と事前にちゃんと準備したことを記している。おそらく今度は門人、支援者のしっかりとしたサポートを受け、往来手形を確保することができ、円滑な旅を楽しむことになるのである。
「旧有路家住宅(封人の家)」自体の観光資源については、規模も小さいし、さほど有力なものではないが、その背景は十分に奥深いものがある。通行手形、途中手形(出判・入判)などの手形の運用ひとつをとっても江戸時代の庶民の旅の有り様が浮かび上がり、迎えた有路家の国境での役割も、また当時の「藩境」とはどんなものであったかを探るのもまた興味深い。
参考文献・引用文献
伊藤博 「奥の細道db [『奥の細道』 曾良『奥の細道随行日記』」
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno01.htm
五島敏芳「往来手形考」国文学研究資料館 史料館研究紀要 29号 P157-195, 1998年
山本光正「旅と関所」国立歴史民俗博物館研究報告 第36集 1991年
「鶴岡市史 上」1980年 349・355/445 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/9538546/1/349
「鳴子町史 上巻」1974年 147/334 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/13331591/1/149
「最上町史 上巻」1984年 324/411 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/9571357/1/324
仙台市文化財パンフレット第16集 仙台市教育委員会 平成元年
https://www.city.sendai.jp/bunkazai-kanri/documents/pan16.pdf
白石氏文化財調査報告書第26集「木村家の古文書」平成15年
https://rekishi.irides.tohoku.ac.jp/document/ep/uploads/shiroishi_kimurake.pdf
「玉造郡誌」1974 382/397 https://dl.ndl.go.jp/pid/9569153/1/382
最上町史編集資料 第11号 (堺田・有路家旧蔵文書) 1983年 国立国会図書館デジタコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9539719









