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​特集 3月号​ 私選味わい深い観光資源(4)
〇山形県編① 肘折温泉

〇肘折温泉(全国観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/060033-

 

 山形新幹線の終点、新庄駅から国道458号線で南西に向かい、最上川を大蔵村役場がある清水地区で渡ると、ひとまず銅山川沿いに、途中からは火砕流台地上を20数㎞走れば、「肘折温泉入口」の標識に達する。これを大きく右折し、しばらく行くと視野が広がり眼下には小盆地が広がり、その底には銅山川の流れが再び見える。少し蛇行道を下ると、そこからはらせん状に橋脚が設けられ、一挙に小盆地の底に辿り着く。

ここが銅山川の河畔にある肘折温泉の温泉街の入り口となる。狭い路地のような道の両側に小規模な旅館やお土産屋、日用雑貨の店、郵便局など40数軒が建ち並ぶ。そのうち旅館は20軒ほどだ。銅山川は家並みの右手裏を流れている。

 小盆地の底であるこの小さな温泉街は、まさに山並みに囲まれ俗世間と切り離された小宇宙を感じさせる。こうした地形について、樋口忠雄は日本人が共通して好み、集落や宗教施設などを形成してきた、類型な場所のひとつだとしており、ちょうど、仏像が載っている基壇の形に似ていることから「八葉蓮華型」と分類している。その典型として高野山を挙げており「深い谷、高い山を越えた山深いところに、あたかも鉢を開いたような、水が豊かに流れる沢が広がる。まさに高山にある平原の幽地で、ここを安住の仏都と見立て」、霊地として日本人に好まれてきたと指摘している。

さらに、こうした日本各地にある山深い小盆地は「『小野』、「小国」あるいは『かくれ里』」と呼ばれていたともしている。このような「山間の小盆地の僻村での現実の生活は、厳しいものであったにもかかわらず、そこに住む人も外の世界に住む人も、このような地に一つの理想郷を思い描くことができるのは、閉鎖された盆地状の地形という景観のもつ特徴」だからだと指摘しており、これが平家落人伝説や桃源郷思想に結びついていくともしている。

 ただ、高野山に似ている地形とはいえ、異なる点もある。高野山は紀伊山地の造山活動に伴う隆起によって生まれ、河川の源流部の浸食よって形成された小盆地で、一方、肘折は、「内径約2km外径約3km比高マイナス約0.2kmのカルデラであり、火砕流台地がその南方数kmと北方約8kmにかけて分布している」(気象庁)。肘折は小カルデラであり、その結果、温泉の噴出や鉱山開発が行われてきた歴史につながっている。さらに、高野山の小盆地は標高800~900mほどあるが、こちらは550mほどではあるものの、緯度を勘案すれば、気候は遥かに厳しいものがある。とくに積雪は4mを超えることがあるという。

 こうした地形や地質であるから温泉が湧出するのは当然であるし、隔絶した桃源郷的な雰囲気を持ち合わせるのだから、湯治場としてうってつけであるともいえるし、霊山である葉山や月山などの修験者たちの登拝口になるのは、当然のことだとも言えよう。さらに、小カルデラ内の立地であることから、周辺には古くから金や銅などの鉱山が開発され、温泉場としての発展に関係していたことは言うまでもない。

 開湯伝説については詳しくは触れないが、開湯の時期は807(大同2)年とされている。一方では、1390(明徳元)年に月山への登拝路が開発され、同地にあった修験法院「阿吽院」の縁起(江戸初期の作成)では、この時期に開湯されたという記録があると、「大蔵村史」では紹介している。ただ、この縁起では大同年間の開湯伝説にも触れていることから、「明徳年間に於いて正式に肘折が開削される以前に自噴していた温泉を山岳信仰の行者が発見した」という推測が成り立つのではないか「村史」はまとめている。

 「大蔵村史」によると、この地区での鉱山開発は、肘折の温泉街から銅山川の上流、約10㎞のところに1667(延宝)年(1669年という説もあり)平賀源内によって銅の鉱脈が発見され、新庄藩の許可のもと、採鉱が始まったという。元禄2から正徳4(1689~1714)年あたりが最盛期となり、全国の銅山のなかでも3位とされ、一時はこの鉱山の在山人口は3千人ほどになったという。当然ながら、肘折温泉の利用が多く、温泉地のとしての賑わいを支えていたという。なお永松鉱山は1961(昭和36)年まで操業していた。

 さらに、肘折の温泉街の近く、現在の黄金温泉の西側に明和年間(1764~1773年)に金脈が発見され、少なくとも1803(享和3)年頃までは採掘が続けられ、一時は活況を見せたが、休山したという。しかし、1903(明治36)年に再開され、当初は金を採掘していたが、鉱脈が銅に変わったのに伴い銅の採鉱を行うようになった。「大蔵村史」によれば、日露戦争前後から大正3年までが最盛期で在山人口は3千人に及んだという。1917(大正6)年に出版された「大蔵鉱山誌」には「休日若くは、終業後には、肘折温泉に遊びて徒然を娯むるもあり」と記している。ただ、大蔵鉱山の命脈は短く、1920(大正9)年には閉山している。

 この温泉は月山や湯殿山、葉山への登拝口として開かれ、さらに江戸時代には鉱山開発とともに本格的な温泉場としての体裁を整え、発展してきたといえよう。

 こうした、周辺環境の変化のなかでも、湯治場として、営々と歴史を重ね、かつての湯治場の雰囲気を残しているのには、「肘折36人衆」の存在が大きかったといわれている。

 そのことを知るために肘折温泉の歴史を少し振りかえってみたい。

大蔵村観光協会の「ひじおり旅の手帖」にはこの「肘折36人衆」の現在の役割が紹介されている。それによると、肘折温泉には、「雪深い肘折で湯治文化を守っていくためには、村全体でルールを決めていく必要」があり、「古くからの『契約講』が大切に継承」され、「その代表的なものが『三十六人衆』」だとしている。役割としては温泉の使用権を持つ温泉組合と同様の機能を有し、「年に1回、12月の第2日曜日に大きな契約講の集まりが行われ、温泉の維持・管理に関する会議」を執り行う。「その後、念仏を唱えながら直径3mもある数珠を回す神事をおこない、肘折三十六人衆『男地蔵(湯の神)』の前で湯守の結束を確認」することが継承されているという。

 こうした温泉を維持していくための共同体組織、契約講がいつ生まれたのだろうか。 「五人組」など相互扶助・相互監視システムが整備される前から、村落では「寄合」「契約講」など称される自治組織的なものはあったとされる。「大蔵村史」では「肘折のそれは山奥の温泉地という特殊な立地条件もさることながら、古形をとどめて」いるとしている。その成立時期については「大蔵村史」では、肘折の契約講がいつ始まったかは、解明は難しいとしているがものの、「現存する最古の契約帳は文政三年(1820)から記録」されているとしている。ただ、この年が成立したかどうか、分からない。

 それ以前にもおそらく同様の組織はあったのではないか、と推測されるのは、「増訂最上郡誌」によると、肘折の「湯守運上金」が「宝永3年(1706)」に納入され「宝永5年(1708)」には湯治客が6192人あったという記録があるとしているからだ。なお、当時隣村である古口村を通過した湯殿山行人は5~8月で36304人だったとも記している。肘折はその登拝口であったから、この人数も通過していっただろう。また、ちょうどこの時期は、前述したように永松鉱山や少し遅れて大蔵金山が開発、採鉱が始まったころでもあった。それゆえ、奥深い山中でありながら、人、モノの流れが生まれた時期であったので、肘折の温泉地としての整備が進んだと考えてよいだろう。

 「契約講」の最古の契約帖が遺されている1820(文政3)年当時のこの「契約講」に参加している戸数は28軒で、当時の肘折の集落全戸が加入していたとみられる。現在は契約講の戸数36軒に増えており、これは温泉に対する権利の株数と一致しているものの、肘折地区の現在の世帯数が90余りであるから、温泉に関わる契約講に全戸が参加しているわけではない。

 それは、この契約講の性格、歴史的役割に関係している。1921(大正10)年の決議事項だが新規契約加入者の厳格な資格を決めている。例えば「他ヨリ移住シタルモノハ絶対ニ加入シ得ル権利ヲ有セザルコト」として、加入させる場合には厳格な条件を付しており、排他的な色合いがつよい。おそらく、集落の基本的な組織体制を維持することが強く意識されていたことと、「大蔵村史」が指摘している通り「新参の外来者から温泉にまつわるいかなる権利を奪われることを拒否」しようとしたのだろう。その結果、現在に至るまでも古い形としての湯治場の形態、風情が残されたともいえよう。

 ちなみに、当時の入湯客数だが、「肘折温泉誌」によると、大蔵鉱山がまだ採鉱していた1914(大正3)年の7月から9月の3か月間で8,147人であった。この人数と延べ人数から推算すると、平均滞在日数は6日ほどになる。なお、2023(令和5)年の同温泉の観光客数59,345人で1990年代の20万人前後と比べるとコロナ禍の影響はあったものの、盛り返すまでにはいたっていない。

 現在のように過疎化、人口減少が続き、近郊内需的な湯治場の存在を維持できるかが課題となってきている。こうした時代の潮流なかで、誘客対象にインバウンド客も視野に入れるとなると、旅館、観光施設の改善、近代化となれば、巨額な投資が必要であることから、外部資金を取り込むことも考えざるをえいないかもしれない。しかし、一方では近代化、現代化が進めば進むほど、従来の湯治場的な雰囲気が薄れる可能性もあり、この温泉の本質を失わないためには、緻密な対応策を考える必要があるだろう。

 大きな鍵を握るのは、失われつつある共同体意識をこの「肘折36人衆」が組織としてどのように対処し、生き残って行っていくのかである。願いとしては安易に外部資本の導入や外部のコンサルタントの企画・指導に惑わされず、難しいことではあるが「肘折36人衆」を中心に地元の官民合わせての知恵で乗り切ってほしいと願うばかりだ。

参考・引用文献

樋口忠雄「日本の景観 ふるさとの原型」春秋社 1981年 36/143 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12649536/1/36

気象庁HP「知識・解説 東北地方の活火山 -肘折」

https://www.data.jma.go.jp/vois/data/sendai/217_Hijiori/217_index.html

「大蔵村史」1974年 33・82・111/328 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/9536360/1/33

大場重次郎「大蔵鉱山誌」大正6年 78/89 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/948619/1/78

大蔵村観光協会HP「ひじおり旅の手帖」https://hijiori.jp/tabi/

「増訂最上郡史」臨川書店 1986年 313/423 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/9540249/1/313

大場重次郎「肘折温泉誌」大正6年 53/89 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/948619/1/53


 


 

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