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​特集 1月号​ 私選味わい深い観光資源(2)
〇秋田県編② 旧料亭金勇

旧料亭金勇」(観光資源台帳https://tabi.jtb.or.jp/res/050043-


 旧料亭金勇は、現在は能代市の管理のもと、観光交流施設として運営されており、国の有形文化財としての建物の見学はもとより、様々な観光イベントの会場として利用され、市内の食事処からの取り寄せで食事を楽しむことができる。概要は観光資源台帳を参照していただきたいが、ここでは私がこの観光資源に興味を惹かれたかを大きく2つほど取り上げてみたい。
 ひとつ目としては、この料亭金勇を生み出した能代という町の歴史的背景と、現在の建物自体の建設は2代目金谷勇助によるものだが、その「料亭金勇」を創業した立志伝中の初代についても触れてみたい。2つ目としては「能代市史資料 第2号」には建築にあたった大工のオーラルストーリーが掲載されており、そこに語られているこの建物へのオーナーである2代目、支援者、大工たちの思いが描かれているので紹介してみたい。

 

 現在、観光交流施設である「旧料亭金勇」は、JR五能線能代駅より西へ900mほどのところにある。この場所は、1728(享保13)年、江戸中期に描かれた「能代町絵図」でみると、米代川が南北に平野部を蛇行するなか、河口の手前で北流から西流に転じ、日本海に流れ込む南側の湾曲部に街が開けている。街の東側、北流する米代川の河岸には、能代が「木都」といわれた地であっただけに広大な「御木材場」があり、街の中心となる能代代官所(在府屋敷)はその西側、西流する米代川を背に米蔵などと一緒に設けられていた。現在の能代市役所の西隣のブロックにあったという。JR五能線能代駅は代官所跡から見ると1.2㎞ほど西南にあたる位置関係だ。
 余談になるが、鉄道の幹線であるJR奥羽本線の駅は能代の中心部から西南に約5㎞離れた「東能代駅」で、五能線で一駅戻る形になる。なぜ、この位置関係になったのかは、1902(明治35)年に開業する奥羽本線の建設当時、鉄道事業者、軍、地元の間で議論は紆余曲折した結果の決定だったという。東能代駅(開業時は機織駅)に決まるまで、軍としては本線が海岸線を通すことには反対し、さらに鉄道事業者は大館への連絡を考えると、なるべく山側を通過させたい意図があり、一方、地元としては木材の運搬を考え、米代川河口の能代港近くに設置することを望んでいた。しかし、最終的には内陸寄りの機織地区に駅は設定され、港は支線で対応することになったのである。その後この支線は海岸線を通って五所川原まで通じることになり、これが現在の五能線である。
 そもそも、能代の地はいつから開かれたかというと、古 くから日本海の海運と米代川の舟運の結節点として利用はされていたが、街として形成されたのは16世紀中ごろだったといわれている。これは秋田杉などの木材の搬出に大きな関りがあったことは言うまでもない。さらに江戸時代に入り、佐竹氏が石高を半減され入部(秋田藩)したこともあって、藩財政の基盤を立て直す必要からその財源を木材におき、林政担当組織の木山方を設け、これを木山掛奉行に統括させて藩内の森林保護と木材搬出、加工の木材産業の育成に努めた。 
 そのなかでも米代川の中上流部の山間部はもっとも重要な木山となり、それを統括する能代奉行が任命され、木山方役所、港、町の管理・支配にあたった。また、17世紀後半には、この木材や北方の物資を運搬するために河村瑞賢によって江戸や大坂などと結ぶ航路も開発され、能代の街の発展の契機となった。
 江戸時代を通じ、秋田藩にとっては林政の重要拠点であった能代は、北秋田の中心都市としての位置を占め、江戸後期の1810(文化7)年頃に記されたとみられる「能代奉行支配並びに役支配覚」では戸数は1400軒ほどで人口は7998人となっている。さらにさかのぼって17世紀後半の記録でもすでに1100軒ほどの戸数とみられ、これから類推すると人口も6000人ほどに達する都市規模であったようだ。近代に入っても1899(明治32)年当時の能代町の人口は1万5千人を超えており、秋田県では秋田市に続く第2の都市であった。このような歴史的経緯が「木都能代」と称される所以である。
 こうした林業で賑わう能代の街で、最高級の料亭のひとつであった現在の「旧料亭金勇」の建物が建設されたのは、1937(昭和12)年であるが、この「金勇」自体は、同施設のホームページよると1890(明治23)年に初代金谷勇助によって柳町に貸座敷(公娼を置くいわゆる「遊女屋」)の「開運楼」として、現在地の隣接地で創業されたとしている。
この柳町は、「能代街絵図」で見ると、代官所の南、在府の役人屋敷、神社仏閣が並ぶ地区の南側にあり、渟代寺・住吉社(現在は八幡神社)の門前に位置し、秋田からの久保田街道の入り口にあたっていたようで古くから宿屋などもあったと見られる。
 能代は港町で人の出入りが激しいことから当然歓楽街も形成された。18世紀前半に記録された「代邑見聞記」によると、「傾城免許は寛文年中(1661~1673年)よりのことかや。…中略…前清助町、新町に二三軒ありしに、元禄年中(1688~1704)年より柳町へ引越亡八も多成ぬ。其頃、揚屋とて差したるもなかりし故旅人共宿へ連れ来りしに、元禄年中より揚屋も」多くなったとしている。
 要するに17世紀初頭に街の西側、米代川河口の「出入役所」近くの清助町から柳町へ遊郭が移転し、歓楽街として発展したという。「能代市史稿 第3輯」によると、1854(安政4)年の能代奉行所への書上の数字では「揚屋十四軒抱女三十九人」と記載しているとしている。また、能代にはほかの街でも遊女を置くところもあったが、この柳町が公認の遊郭であり、最上級とされていた。
 なお、1930(昭和5)年の「全国遊郭案内」よると、「妓楼十二軒娼妓八十人位」としており、1927(昭和2)年頃の数字だとする「日本遊里史」では「貸座敷数十八軒、娼妓七十一人」としている。この数は、秋田市の新地、土崎港町を合わせた数と同規模である。いかに能代の街が「木都」として栄え、北秋田の物流拠点になっていたかが分かる。
もっとも、柳町は1912(明治45)年に火災にも遭い、周辺に学校などもでき、遊郭がある地区としてはふさわしくないという声も上がり、遊郭街は新柳町へ移転している。
 初代の金谷勇助は1890(明治23)年開業した開運楼をはじめ、1893(明治28)年には、政談や集会を開ける山本倶楽部を現在地に開設し、演芸場の米代座や能代公園内のレストランなどを開業している。しかし、1905(明治38)年の火災で開運楼は焼失したため、翌年「金勇楼」として再建した。1908(明治41)年発行の「秋田県案内」には料理店の項目に「金勇 山本倶楽部」としてあり、遊郭の項目のところに「金勇」の名が挙げられている。さらに1912(明治45)年の火災でも金勇楼が焼失したため、遊郭の移転後に「山本倶楽部別(新)館」(のちに金勇倶楽部)として再建している。
 なお、「能代のあゆみ」に掲載されている1895(明治28)年発行の「能代港市街明細絵図」では、当時は、現在の柳町通りまで敷地があったようで、現在の「旧料亭金勇」の位置には「山本倶楽部」の表記があり、柳町通りを挟んだ反対側には金勇の玉撞場もあったとしている。この敷地内におそらく開運楼も並んでいたことだろう。米代座については1918(大正6)年の「秋田県能代港町明細地図」では、八幡神社(住吉社)と同じゾーンにあり、現在「旧料亭金勇」に南接する場所に記載されている。この「米代座」は1922(大正10)年に焼失している。
 また、「山本倶楽部」の名称では、現在の渟城西小学校付近に株式会社組織の「私立山本倶楽部」もあったとし、これは1912(明治45)年の大火とおもに身売りされたと書いている。こちらの倶楽部は金勇とはライバル関係にあった宮越彦兵衛が経営していたとも記している。
 昭和初期には、この敷地内に「金勇」本館と新館の「山本倶楽部」が隣り合わせに建てられ、広い廊下でつながっていたという。敷地内には洋館もあったという。周辺にはいまも食事処として残る「魚松」「都亭」などの料亭が並んでいた。現在の建物は、1937(昭和12年)にこの新館部分を建て替えたものだ。
 さて、こうして能代において、飲食・娯楽施設運営の事業で一定の地位を確立した初代金谷勇助であるが、実は「開運楼」を開業する1890(明治23)年までの動きは、私が当たった範囲の史料・資料にはほとんどみあたらない。例えば、郷土史家が書いた「能代歴史はなし」や「能代のあゆみ」にも取り上げられてない。ただ、1992(平成4)年発行の「のしろ町名覚」には1872(明治5)年以降の作成とみられる富町・横町の全世帯の姓名入り地図が紹介されており、柳町に隣接する富町に金谷勇助の名が、当時すでに能代の経済界の中心人物の家と並んでみられることから、明治初期の段階では一定の経済力があったとも考えられる。
 ただ、江戸時代の能代の有力な商人が紹介されている1855(安政2)年の「東講商人鏡 能代湊諸商人細見」にはその名は見当たらず、能代の経済界で一定の評価を得たのは、「明治二十二歳(1889年)改正番附 能代港町持丸」の番付表で当時の長者番付で前頭の一番下にその名が新顔として登場していることだ。1876(明治9)年の番付表には掲載されていないので、この間に急激に伸びたことがわかる。しかし、残念なことに何で財を得たかは分からなかったが、この翌年、開運楼の創業につなげている。 その後は初代も2代目も大火の多い能代にあって消防組の組長も務め、地元の政財界活動も積極的に行ったことがいろいろな資料に掲載されている。もう少し、立志伝中の人物ともいえる初代金谷勇助について、どのような人物であったか、掘り起こせると興味深いものになる。再度、能代を訪れる機会があったら、地元の図書館などに立ち寄り調べたいものだ。
 こうして初代が築いた「料亭金勇」を2代目金谷勇助によって1937(昭和12)年に山本倶楽部(新館)部分を建て替えることとなった。

 次にこの建物の造作で私が魅了された部分に対し、オーナーや施工した大工たちはどのように思いを込めていたか、建設にあたった大工梅田鉄蔵のオーラルストリーが「能代市史資料 第2号」に掲載されているので、このオーラルヒストリーで探ってみたい。
 梅田鉄蔵がこの建設に携わったのは、それまでの「金勇倶楽部」の建物が老朽化したため、建て替えることになったが、その建物を自分の父親が棟梁として建てたことが縁であったという。オーナーの2代目金谷勇助とともに東京の老舗料亭を見て歩き、その構想を固めたとしている。

 また、県内外の有力木材会社や料亭の同業者ら資金面、資材面で積極的に支援してくれることになり、とくに秋田県でもっとも有力な木材会社、秋田木材が米代川上流の秋田杉で知られる仁鮒地区からの資材提供に全面的に協力してくれたという。大木の搬出には苦労したようで「根元から六尺をとり、その次に五間半(十メートル)の玉切りをした。伐採した丸太は森林軌道で仁鮒に運び、それからイカダに組んで能代に運んだ」という。
 この建物の造作で私がとくに惹かれたのは、1階の「満月の間」と2階の「大広間」の天井だ。梅田のオーラルヒストリーでは「天井に使った銘木は、板のまま金勇に運んでくると、ろう下で人夫たちに磨かせた。最初はカネの束子で磨いていたが、二階の広間だけでも三尺幅の本板を百数十枚も使っているし、下の広間には長さ三十尺の板を六枚も上げたものだから、たいへんな手間だった」という。もっともこのオーラルヒストリーは1970(昭和45)年のものなので、「天井を張った時の時の色は見事だったが、それから三十数年の間に何万人という人がたばこを吸ったためにその煙りが板にしみついてしまったので、現在はまるっきり色が変わってしまった」と慨嘆している。
 しかし、現在でも天井を見上げると、1階の42畳の「満月の間」では5間(9.1m)の天井板が畳の縁と同じ方向に向かって伸びていく様は圧巻である。また、2階の110畳の「大広間」の天井は一畳大の杢目板(自然な模様が入った板)を卍に配した格天井で、柱のない大空間を幾何学的模様が埋めている様は惹きつけられるものがある。現在の天井板の色についてはその後の修復でどの程度修復したか分からないが、飴色で、それなりの歴史が染み込んでおり、それはそれで風格さえ感じさせてくれている。職人の情熱が込められた部屋である。
 このオーラスヒストリーにはでこないが、私が着目した部屋は「満月の間」と廊下を挟んである「田毎の部屋」である。ここは左官や建具の職人の技が集約されている。政治家などの有力者たちの会合に利用された部屋ということで、網代編みの天井をはじめ、部屋のアプローチを石張りとなっており、蹲がおかれた風情ある空間を醸し出している。これらの以外の部屋でも間違いなく職人の意気込みと技の粋を見ることができ、見学は飽きない。
 オーラルヒストリーで、オーナーと棟梁の意気込みと願いを感じさせる挿話がある。上棟式の際に、2人で「住吉神社の本殿の下にもぐって行き、そこの土を掘ってくると、一階のろう下のちょうど真中あたりに埋めた。永久に災いがおきないようにという祈りをこめ」たのだという。

 

 こうした思いを込め建物は2008(平成20)年に料亭の役割を終え、2013(平成25)年から能代市の観光交流施設に生まれ変わった。私が訪れた時も秋田県の伝統芸能である「番楽」神楽の競演会が大広間で開催されており地域に根ざした舞台芸能を楽しむことができた。この施設が今後もこのような活動の拠点となり、大切に保存していくことを祈るばかりだ。
 

 能代に立ち寄った時にはこの建物にも足を延ばし、かつて能代の繁栄の消長の一つであったこの建物を見学するのも悪くない。

参考文献・引用文献
芳賀和樹 「森林資源管理から見た江戸時代の秋田」森林文化協会年報「森林環境2022」
https://www.shinrinbunka.com/publish/shinrin/24071.html
「能代町絵図」秋田県公文書館
https://adeac.jp/akita-pref/catalog/20-ref-C-120708
「能代市史稿 第6輯 (現代 上編(明治時代))」1962年 179/226 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3005249/1/179
「能代市史 資料編 近世 1」1999年327/616 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/13197284/1/327
「能代市史稿 第7輯 (現代 下編(大正,昭和時代))」1964年 82/237
国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/pid/3005253/1/82
新秋田叢書第4巻「代邑見聞記」1971年国立国会図書館デジタルコレクション 262/323  https://dl.ndl.go.jp/pid/12405485/1/262
「能代市史稿 第3輯」1981年 国立国会図書館デジタルコレクション
 https://dl.ndl.go.jp/pid/9570584/1/9797/150
「能代のあゆみ : ふるさとの近代」北羽新報社 1970 39など/144 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9569010/1/39
「全国遊廓案内」日本遊覧社 昭和5年 89/251 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1453000/1/89
上村行彰「日本遊里史 (日本文化史叢書)」藤森書店 1982年 302/325 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12170286/1/302
「のしろ町名覚」能代市1992年 52など/71 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/13229088/1/52
能代市史資料 第2号「梅田鉄蔵」1971年 88/110 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9569571/1/89

  

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