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​特集 9月号​ 国分寺を訪ねる(Ⅴ)
〇公園化が進む国分寺①

 関東の国分寺跡・国分尼寺、あるいはその周辺で、比較的公園としての整備が進んでいるのは、下野国分寺跡・同国分尼寺と常陸国分尼寺跡だろう。

 下野の国分寺は、中世の早い時点から荒廃し、跡地も田畑や荒れ地になっていたので、寺域もほぼ維持され、発掘調査が容易だったことから、寺域とその周辺には「天平の丘公園」という郊外型の都市公園が整備されている。

 一方、常陸国分寺は城下町として宿場町として中世以降も栄えていたため、国衙跡に近い国分寺の寺域は縮小され、現在の後継寺院の境内も小さく、金堂跡、講堂跡の案内板がわずかに遺るだけである。町の中心から東に少し外れた国分尼寺跡は比較的寺域は遺され、発掘調査後は、金堂と講堂の基壇を復元し、歴史公園として整備されている。

 この2つの国分寺は創建から荒廃まで消長の歴史的流れが対照的である。その違いが何だったのか、また、ことした異なった2つの国分寺跡の活用として、ともに公園化を進めてきたが、これらの現状と課題、今後の方向性について少し考えてみたい。

 下野国分寺跡はJR小金井駅から西北西へ4.5kmほどのところに、小丘陵を控えた平野部にある。

現在、周辺は水田地帯で、小丘陵には古墳もあり、国分寺跡及び国分尼寺跡を包接する形で天平の丘公園として整備されている。また、国分寺跡と国分尼寺跡の間には「しもつけ風土記の丘資料館」が建っている。

 国分寺跡は金堂などの基壇が模造、配置さているものの、かつての伽藍があった境内は広場か雑木林となっている。国分尼寺跡は、とくに建造物はなく、芝生の広場が広がっているだけである。なお、天平の丘公園には、植物園や子供広場、展望台の平成の丘、カフェなどが整備され、年間を通じイベントも開かれている。公園の東側にはこの地付近には古墳や薬師寺跡などの史跡があり、その発掘調査や研究を行う栃木県埋蔵文化センターもある。

 この地は地形的には、渡良瀬川・利根川の支流の沖積地で、西側を南流する思川と東側をやはり南下する姿川に挟まれ、この2つの川は小丘陵の南で合流している。国分寺の造営にあたっては国衙の近くの勝地が選定されることになっていたが、下野においては、肥沃な沖積地と古墳を造営するのに適した小丘陵という地形がこの地に創建される理由のひとつとなったと推定されている。下野の国衙は思川の西岸にあったが、この地に置かれた期間が短く、下野国分寺が早い時期から荒廃した要因になっていると思われる。

 ここで古代における下野国の誕生と国府の場所について簡単に整理しておきたい。

 平安中期までに編纂された「先代旧事本紀」の「国造本紀」においては「下毛野」国造の条で「難波高穴朝御世元毛野国分為上下豊城命四世孫奈良別初賜国造」としているので、仁徳天皇期に毛野国を上・下に2分して国造を任命したことになっている。これが仁徳天皇期だとすれば、4世紀ということになる。実態が分からないことも多いが、この時には別に那須国が存在し国造も任命されている。その後7世紀末に入って那須国は統合され、8世紀初頭に改めて「下野」「上野」の国名になったと言われる。つまり、国分寺が創建される半世紀ほど前に、下野国が成立していたといえよう。

 それでは、この下野国の中心地となる国府は、どこに置かれたかということである。前身の毛野国における国府的な中心地がどこにあったかは、いまだに特定されていない。分離後の下野国の中心地は、「栃木市史(通史編)」によれば、巨大古墳群の分布からなどから「県南の現在の渡良瀬川流域から思川流域に移ったのではないかと思われる。これら思川の東岸の台地上も、死後すなわち黄泉国へ行ってから後の壮大な宮殿としての古墳を築造することができた人物は、この地方の王者、すなわち大和国の大王より国造の称号を与えられたほどの人物でなければ不可能」だと推測している。

 思川の流路は何度も変化しているので、現在の川筋だったかは別としても、この国造の称号を与えられた人物が「大化の改新の後に下野国府(現栃木市田村)の設けられたあたりに居住していたもの」と「栃木市史」は推定している。すなわち、東方に先祖の古墳群を仰ぐ地で豊饒な沖積地に居住し、その後、国府が設けられたと考えられている。

 こうして設けられた国府に対し、古墳群のある、東方、現在の思川の川筋の東岸の古墳群のある小丘陵の麓が国分寺の勝地として選定されたのは当然のことであろう。

 下野国分寺及び国分尼寺の創建年代については、詳細は分かっていないが、756(天平勝宝8)年12月詔勅のなかにあるすでに国分寺・国分尼寺の体制が整えられたとされる26ヵ国のなかには入っていないことや下野は「下国」と呼ばれる辺地の国であったので、これ以降に創建されたと考えるのが妥当であろう。

 国分寺から8㎞東にある下野薬師寺は下毛野氏の氏寺として7世紀末に創建され、8世紀前半には国家機関の「下野薬師寺造寺司」が設置されているので、この地域においては国分寺の創建より早いことが分かっている。同寺の造営技術の国分寺造営への影響については、青木敬によると塔の基壇構築にあたり礫を少量しか使用しない事例としては、陸奥、筑後、下野の国分寺塔が挙げられるとして、その3寺とも下野薬師寺のような大寺の造営が先行しており、その技術が継承されたと理解できるとしている。ただ、下野国分寺の金堂では礫の大量使用も認められており、こちらは直近に造営された国府の影響もあったのではないかもとしている。

 なお、下野薬師寺は国家の仏教広布政策の先頭を走っていたと言われ、僧侶となる資格を得る受戒の儀式が行える戒壇も設置されたことにより東国仏教の中心地となっていた。その後も荒廃する時期もあったが、足利氏などの崇敬を受け、寺号を安国寺(現在は同地に古代寺院の寺号である下野薬師寺に復している)と変え、戦国時代の焼失を経るも、近世以降も法灯は継承している。

 8世紀前半には築かれていた下野国の国府は律令制の揺るぎとともに、939(天慶2)年、平将門の乱の際に占拠されている。これが直接的な要因なのか、思川の流路変更の影響なのか不分明であるが、少なくとも10世紀後半には3㎞ほど北西の勝光寺(現・栃木市国府町)付近に国府は移転をしている。この頃には下野国分寺もおそらく衰退し、機能が低下していたので、国府と国分寺の距離が離れることは問題にならなかったのだろう。

 国府がこの移転先でいつまで存続したかについては、「栃木県史」によると、1194(建久5)年5月20日の吾妻鑑に「宇都宮左衛門尉朝綱法師、掠領公田百餘町之由、下野国司行房経奏聞之上差進目代訴訴申之云々(宇都宮朝綱が、国衙領百余町の年貢を横取りしたと下野国司の行房が、奏聞し、朝廷の了解のもと目代〈代官〉を差し寄越し訴えて来た)」とあるので、この時までは下野国内に若干の公田、国衙領は残置されていたとみてよい。しかし、その後は小山、宇都宮などの地方豪族に横領され、国府の機能を失うとともに、政治経済の中心も小山、宇都宮、結城などに収斂されていったという。

 当然、このような情勢なので、国分寺の経済基盤も喪失し、「栃木市史」では1229(喜元)年の小山朝政から嫡孫長村の譲状にも「国府郡」「国分寺敷地」とあり、国府、国分寺の敷地もすでに私領化されていたと指摘している。吾妻鏡にも下野国分寺自体には直接触れてはいないものの、1186(文治2)年5月に諸国の国分寺など傾倒していることの記載がみられることはすでに記述したが、下野国においても平安末期には国分寺も実態を失い、鎌倉期に入ると私領に組み込まれ、伽藍堂宇自体も失っていたとみられる。

 その後の下野国分寺の消息については、江戸中期の「下野国誌」によると、「国分寺は天台宗も禅宗もありて、国々今は混じたり、さて当国国分寺は真言宗の小坊舎なり」と小さな坊しかなく、宗派的にも法灯の継承とは言えないことを示している。おそらく当時は、国分寺の寺域はすでに豊かな沖積地の雑木林となっていたと考えられる。

 近代以降も大きな開発がなく古代寺院の寺域が良く保存されていた。遺構の良好な保存状況に基づき、1982~1992年に発掘調査(それ以前も国分尼寺などの調査は行われている)が行われ、寺院域の規模が東西413m、南北457mであることや伽藍配置が明確となり、寺院域や伽藍の変遷がほぼ明らかになった。

 伽藍の変遷はおおむね4期に区分できるとしている。1期(8世紀中葉)は塔・金堂などの創建期、2期(8世紀後半~9世紀前半代)は主要地を掘立柱塀と主要堂塔の造営、3期(9世紀後半代)は掘立柱塀の築地塀への建て替えと伽藍堂宇改修期、4期(10世紀以降)は主要堂塔の補修などが停止される衰退期と考えられると言い、前述の文献類の示す推定とも矛盾はない。

 

 こうした歴史的、地勢的な背景から、建造物の消滅や法灯の断絶はあったものの、国分寺及び国分尼寺の寺域がそのまま保存されていることは、全国的に極めて稀で貴重だと思う。幸いなことに周辺も含め天平の丘公園として整備されており、観光の視点からも史跡として価値のみならず、有益なことだと思う。とくに国分尼寺跡は芝生広場も広がり、市民の憩いの場としても活用されていることは評価したい。ただ、国分寺は基壇の模造は設けられているものの、基本的には野原化している。新たな建造物の復元は必要ないが、市民が憩える場としての植栽やベンチ、水場などの整備はすべきだろう。また、公園内の国分寺、国分尼寺、古墳はもとより、薬師寺跡も含め、コース設定だけでなく、散策路あるいはサイクリングロードの整備も行ってもらいたいものだ。さらに、史跡内には詳細なガイド板やQRコードなどからのスマホなどの利用による音声ガイドもあってよいかもしれない。

 さらに、現在、国分寺跡と国分尼寺の間に下野市立の「しもつけ風土記の丘資料館」があるが、国分寺に関する全国的な研究成果を展示する資料館としてさらに充実すべきだろう。いわば、国分寺研究の情報センターの役割を担えば、地域住民の生涯学習の場のみならず、これを目的とした訪問者もあると思う。観光資源として派手さはないものの、日本の古代史における貴重な史跡なので、調査研究を重視しながらも、官民あげて活用も積極的取り組んでほしいものだ。

 次回は、国分尼寺跡が都市公園として整備された事例を常陸国分寺にみてみたい。

参考・引用文献

先代舊事本紀 10巻 [2] 「國造本紀」 110/128 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2553448/1/110

「栃木市史 通史編」1988年 120・255/722 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/9644337/1/120

青木敬「国分寺造営の土木技術と造塔:相模・武蔵国分寺の堂塔順序の復元をめぐって」

國学院雑誌2022年4月 

「栃木県史 第11巻」15/289 昭和13年版 1972年復刻 臨川書店 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9640318/1/15

「日本古典全集 吾妻鏡 第三」大正15年 96/129 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/1912784/1/96

「下野国誌 5之巻 仏閣僧坊」27/30 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/763918/1/27

下野薬師寺HP

https://shimotsuke-yakushiji.or.jp/aboutus/

下野市歴史的風致維持向上計画

「第2章 維持向上すべき歴史的風致 2. 国分寺地域にみる歴史的風致」

https://www.city.shimotsuke.lg.jp/manage/contents/upload/6244eb32c24e5.pdf

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