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​特集 2月号​ 神仏分離の爪跡(Ⅸ)
〇秩父の山岳信仰と神仏分離①

  宗教政策の大転換であった明治初期の神仏分離策は、全国各地に多くの傷跡、爪跡を遺したが、その程度は、地域によってかなりの差がある。徹底的に仏教寺院を打ち壊し、仏具仏像経典を破壊したところもあれば、一方では比較的穏やかに分離、あるいは神社化が進んだところもみられる。この対応の違いとなった要因は、それぞれの地域において祭政一致を原理主義的に信じていた支配組織のトップや国学者及び復古運動を主導する活動家が存在したかどうかにより、さらには支配組織において新政権に対する忖度の度合いもあったと思われる。

 もうひとつ要因と考えられるのは、地域住民や信者たちの動向である。それは山岳信仰など神仏習合型の信仰の指導者や御師により、当該地域に対し信仰的、経済的に大きな影響力をもっていた講などの信者組織を背景にして、神仏分離のなかでの生き残り策が模索され、場合よっては、新たな信仰の融合によって、従来の信仰形態を維持していく例も見られた。

 秩父地域の山岳信仰は、前述した要因が大きく影響したとみられ、比較的スムーズに新しい体制に適合した事例が多い。こうした事例として、山岳信仰として盛んであった宝登山神社と三峰神社をとりあげ、その由緒、歴史を概観し、現状を踏まえ、観光資源としてあり方について考えてみたい。

 埼玉県の東部、関東平野に流れ出る荒川の上流部にあたるところに秩父盆地が開ける。秩父神社などのある盆地の中心部には東京の都心から西武鉄道の路線が伸びており、一方では、荒川に沿って、熊谷方面から三峰神社の登拝口となる三峰口まで盆地を縦断するように秩父鉄道が走っている。宝登山神社は、熊谷方面から行くと荒川が狭隘な谷を形成し、盆地に抜けようとする荒川の名勝長瀞に西面する山懐にある。

 その宝登山神社の由緒については、大正期の「秩父郡誌」では「日本武尊東夷を平定せられ、其の帰途当山頂上に神籬を建て畝傍山陵を遥拝せられしを起原とす。此の時尊は火防守護の神なる火産霊神を拝せらる。これ神号を火止(後に宝登に改む)と称する由来とす」と社伝に沿って解説している。また、「鳥羽天皇の御世、僧空圓と云ふ者当所に一寺を建立し玉泉寺と称し、別當職として当社を管理経営す」とも記述している。

 さらに、社伝では、日本武尊が当山の山頂に向おうとした時、山火事にあったが、山犬が現れ火を消し止めとして、山の神が眷属を遣わしたというところから、主祭神の神武天皇とともに、山の神である大山祇神と火産霊神を祭神としたともしている。

 一方、江戸末から明治初期にかけて編纂された「秩父志」では「寶登山大権現神社」として記載されており、山頂に小さな祠があったとしている。山下には別当寺の「龍石山玉泉寺」があり、「此寺ヨリ霊犬ノ御鎮符ヲ出ズ、土人御符ヲ請テ祝ヒ置事ナリ」とも記載さいている。三峰山や御嶽と同様に犬神の眷属信仰もあったことを示している。なお、寶登山の地名の由来については、社伝とは異なり「保土ハ火所ノ称ナルベシ」とし、和同開珎のもとになった銅がこの地周辺で掘り出され、「此地ニテ火爐ヲ立ラレ、淘汰セル故ニ此地ノ山ニソノ名ヲ遺スナルベシ」としている。

 また、文化・文政期(1804~1829年)に編まれた「新編武蔵国風土記稿」では、宝登山の記事は、近隣集落の秣場としての記載しかなく、神社名の記載はない。ただ、玉泉寺の記事があり、「起立永久元年三月開山法印空圓」とし、境内には儀間堂、撞鐘堂、十王堂、稲荷社があるとしている。

 その玉泉寺の寺伝には「平安時代の永久元年(1115)僧空圓は、日本武尊が山頂にて神霊を奉斎し、弘法大師が来錫のおり、宝珠の山頂に向かって飛翔した神変に感応され、仏庵を営んだ」とし、「開基以来、『玉泉寺』住職は別当として『寶登山大神=宝登山大権現』の神にも使え、神仏を共に敬い祀るその関係は明治初年(1868)の『神仏分離令』が出されるまで続いた」と宝登山信仰との関係を説明している。

 前出の「秩父郡誌」では、社伝とほぼ同様の内容を記事にしているが、一方では「近年長瀞の奇勝天下に紹介せられ、都人士の来遊するもの年々多きを加ふ。かくて当地鎮護せらるる本社も世人の崇拝次第に高くなりつつあり」としているところをみると、この神社の存在は、近代になってから長瀞の知名度が上がるに従い、広く知れ渡ったという風にも受け取れる記述になっている。

 1899(明治32)年に発表された幸田露伴の「知々夫紀行」でも「路の右手に大なる鳥居立ちて一条(ひとすじ)の路ほがらかに開けたるあり。里の嫗(おうな)に如何なる神ぞと問えば、宝登神社という」として事前に知識があったようではなく、ただ、参詣者も多そうなので、立ち寄ってみたようだ。しかし、「色がらすを嵌(は)めたる「ぶりっき」の燈籠の、いと大きくものものしげなるが門にかけられたるなど、見る眼いたく、あらずもがなとおもわる。境内広く、社務所などもいかめしくは見えたれど、宮居を初めよろずのかかり、まだ古びねばにや神々しきところ無く、松杉の梢を洩りていささか吹く風のみをぞなつかしきものにはおぼえける」とそっけない描写になっている。

 宝登山神社の始まりについては、伝説的な部分はともかくも、中世以降、玉泉寺が神仏習合のなかで、宝登山への信仰を守ってきたことは間違いないだろう。興味深いのは、明治の神仏分離の際の対処の仕方であったろう。

 宝登山神社の神仏分離の経緯については、神社のホームページでは、玉泉寺は開山以来「755年にわたって寳登山大権現(神仏習合当時はこのように称していた)の祭祀を続け、この間に京都御室御所の院家格を賜るなど、寺格を高め」て来たとし、「明治元年(1868)に四十八世栄明を最後として神仏分離」が行ったとしている。しかし、「両者は、一応は分離の形式をとったものの、寺は従来どおり存在し」、寺持ちの山林を分筆して神社境内を設定して玉泉寺の僧侶は復飾し神官となり、玉泉寺を無住とし、住職を兼務するようにしたとしている。さらに寺が主導していた寳登山大権現の講社、講中を継承したというのである。

 真言宗智山派の末寺である玉泉寺の檀家の多くは、周辺集落に多かったため、その後も寺院機能は維持され、その管理運営は神社によって行われている。主客は逆転したものの、ほぼ信仰の場は維持されたといってよいのではないだろうか。

 こうした対処方法は全国的にも極めてめずらしく、僧職から復職し神官となりつつ、一方では、江戸期より組織化してきた、地域住民(寺の檀家)、信者の講組織を背景に、主体性を寺から神社主導に切り替えつつも寺院も守るという離れ業が行われたと言ってよい。もちろん、これには当時のこの地域の統治者、行政担当者がそれほど強引に神仏分離政策を推し進め、実態に合わせた形で対処することを許したということであろう。

 実際に現在、宝登山神社を訪ねてみると、たしかに神社に主導権が移ったため、境内全体としては明治期以降に建てられた神社建築が目立つようにはなっているものの、一画に山門、本堂や護摩堂など寺院らしい建造物が遺され、一体的な運営がなされていることはみてとれる。なお、山頂の奥宮へは徒歩で登ることも出来るが、ロープウエイで山上駅まで行き、そこから徒歩10分ほどで宝登山山頂に辿り着くことができ、その一段下がったスギ林のなかに奥宮の小さな社が建っている。山頂からは秩父連山、長瀞などの素晴らしい眺望は楽しめるが、かつての信仰が盛んであった頃の様子を窺えるものは少ない。

 現在の宝登山神社を観光資源という観点からみると、長瀞の付属的な資源という位置付けといってよいだろう。当然、現代に合わせ、現世御利益的な設えになり、山岳信仰の神髄は後景に追いやられている。山自体もそれほど大きくないので、止むを得ないことであり、今後、宗教施設としても観光資源としても生き残いきためにはこの路線で行くしかないだろう。ただ、できれば、少しでも日本の古くからの宗教文化を継承していくための案内施設や展示施設があってもよいかもしれない。

 

 次に、宝登山神社以上に講組織の影響力が強く、それが支えてとなって信仰や境内の原形をとどめながら、神仏分離を乗り越えた事例として三峰神社を訪ねてみたい。

参考文献・引用文献

「新編武蔵国風土記稿 秩父郡巻之七」14/57 国立公文書館  

「埼玉叢書第一 秩父志」1929年 138/286 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1877328/1/138

「埼玉県秩父郡誌(埼玉県郷土誌叢刊)」1987年 臨川書店 288/331 国立国会図書館デジタルコレクション   https://dl.ndl.go.jp/pid/9644074/1/288

「宝登山神社HP」  https://www.hodosan-jinja.or.jp/

幸田露伴「知々夫紀行 山の旅 明治・大正篇」岩波文庫(青空文庫から引用)

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