住吉大社反(太皷)橋
住吉大社第三本宮・第四本宮
住吉大社第三本宮
住吉大社第一本宮拝殿
角島大橋(本土側)から
角島大橋(本土側)から
角島大橋(本土側)から
(3)住吉大社の反橋
天王寺駅前から阪堺電軌の路面電車に揺られ,十数分で「住吉鳥居前」の電停に着く。電停から道路を渡り参道に入ると,もちろん,大きな石鳥居が目に入るが,その先に急な木製の階段状の斜面が現れる。これが「反橋」だ。「反橋」は神池に架けられた神橋で,神池に映る姿から一般的には「太鼓橋」と呼ばれている。
この橋の石製の橋脚部は江戸時代初期の造成とされ,木製の橋桁・欄干部は修復を繰り返されてきたが,長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5m、最大傾斜約48度の巨大な反橋となっている。そのため,鳥居側から見上げると壁の様に立ちはだかる。各地の神社で太鼓橋は多く見られるが,これほどの大きいものは少ない。太鼓橋が架けられる理由は,霊域と俗界を分ける結界の意味があり,この橋を渡るだけで「お祓い」になるともされる。
本宮に向かうには別にこの橋を渡らなくとも迂回していくことはできるが,多くの参詣者がこの橋を渡っていく。とくにインバウンド客は,アミューズメントパークのアトラクションを楽しむように急な階段を登り,天頂部で写真を撮っている。
しかし,この橋の形式はもちろん,中国からの輸入であるが,中国の反橋は石橋で,それを木製の橋の形式に移し替えた。さらに,池に映る太鼓型の形状と結界という意味合いから日本人にとって思い入れをしやすく,日本的な隠喩として,心情表現に使いやすい対象になっているようだ。
川端康成の『反橋』(1948年)という小説のなかでもこの橋を重要な舞台回しとして,主人公の人生,あるいは当時の日本人(川端自身)の心情を暗喩していると考えてよいだろう。川端康成がこれを書いた時期は,日本が敗戦し,日本の存在価値が問われているときだけに,1968年にノーベル賞を受けた際に語る「美しい日本の私」に至る,川端の戦後の作家活動の基軸を定めていく過程の出発点とも言われている。
この点は多くの川端文学の研究者が論じているので,門外漢の私が触れる必要もないことだが,少しだけ、この小説と住吉大社の反(太鼓)橋との関係性と意味合いについて,私なりの解釈を記しておきたい。
この小説の前半部分では,自分の出生の経緯に関わりのある地,住吉の宿で,友人の梁塵秘抄の書をきっかけに,主人公が日本文化の本質をどこに求めるかを語らせている。例えば文人画の浦上玉堂の絵については「私にはすこぶる近代的なさびしさの底に古代の静かさのかようのが感じられて身にしみる」とし,川合玉堂については「玉堂の雪の山にも凍りつくようなさびしありそうですけれども,それが日本でいろいろ救われているところもありそう」だとしている部分や池大雅について「大雅の美しさには近代もありますが,見ていて近代から救い出されるところ」もあるとしている。これからみると,主人公はもちろん,敗戦後の川端の心情としてはここに日本文化のよりどころを見出そうとしていたのかもしれない。おそらく近代という陥穽に嵌まり,あらぬ方向に向かった日本のなかで,改めて見出せるのは,日本的心情あるいは美意識である「もののあわれ」なのだろう。
前半はこのように敗戦後の日本文化の本質を探る叙述が続くのだが,具体的に橋が出てくるのは後半部分だ。この前半と後半のつなぎに,後三条天皇の住吉の歌「住吉の神はあはれと思ふらむ空しき舟をさして来れば」を提示している。この歌について「この空しき舟は私の心にほかならないように,私の生にほかならないように思えてしかたがない」と主人公に述懐させている。
それは,主人公が産土参りをした住吉大社に5歳の時,母親に連れて来られた橋(これが「反橋」)の頂上でまで上り切った得意の絶頂の時になぜか,母親から「ほんとうの母親ではない」ということを聞かされることに繋がっている。「反橋は上るよりおりるほうがこわいものです」そして「私の生涯はこの時に狂ったのでありました」と主人公に語らせている。だから,主人公に「空しき舟」の心の自分はここには来てはいけないと言わせるのだ。「空しき舟」の人生と神仏に「あはれ」と思われる主人公に敗戦した日本,それに揺れ動く自分をこの言葉に負託しているのだろうか。
そして老境に入り,「仏は常にいませどうもうつつならぬぞあわれなるとつぶやき」ながら住吉大社を再訪してみると,橋板に幼い頃には気が付かなかった足をかける穴があり(現在の橋にはないが),「私の生涯にもこの穴のような足場はあったかしらと思いましたが,遠いかなしみおとろえで目先が暗くなりそう」だと締め括っている。
さて,これを読んで,橋は主人公や作者の心情の隠喩として何を意味するのか,考えてしまう。幼き日此岸から上り,橋の頂上部で人生の分岐となる事実を知り,そこから厳しい人生を下らなければならず,その渡った先は彼岸に至る。まさに人生の縮図を橋が暗喩しているのかもしれない。あるいは,この主人公に日本という国あるいは日本文化の当時の状況をなぞられているのかもしれない。
ただ,この繋ぎになっている,後三条天皇の歌の「空しき舟」は一般的に「上皇」の立場を指し,とくに心情的な意味合いはないとされている。しかも,この歌を詠んだ時の後三条天皇は,上皇になったばかりで,院政によって政治権力をふるう意欲があったといわれているから,本来なら,このストーリーに,必ずしもマッチしていないとも考えられる。単に「空しき舟」と「あはれ」という言葉が必要だったのでこの歌を取り上げたのだろうか。当然この歌の意味がわかっていた作者はあえて後三条天皇は「どういうおつもりか」という言葉を小説「反橋」のなかでは差し込んでいるが,その深い意味はわからない。
この小説での反橋の扱いは,ダニエル・ストラックが整理した「橋の普遍的隠喩」からみれば,「①人生の困難を乗り越えるのは橋を渡ることである」「③人間関係の破綻は橋の破壊である」「④運命の逆転に遭遇するのは橋を渡ることである」「⑤死につつある人は橋を渡る人である」の4つにあたるのだろう。
私なりに考えてみると,作者の川端康成は戦後間もないこの時期は「もののあわれ」を美意識とする「美しい日本の私」に向けて,リスタートしようとしていた時期で「日本文化」あるいは「日本」のアイデンティティについて,模索しつつあり,「反橋」の主人公に託して「日本」という国の「目先が暗く」なりそうな状況ではあったが,「穴のような足場」を探し求めていたのではないかとも思う。つまり,この場合の「反橋」は此岸と彼岸を結ぶだけではなく,過去から現在を経て未来へ越えるべき結節点としての橋だったのかもしれない。
もうひとつ,この小説の冒頭と最後に「あなたはどこにおいでなのでしょうか」と問い掛けているが,この「あなた」について専門家たちでも意見が分かれている。文脈からいえば仏だとは思うが,実母・養母とも,さらには抽象的な母なるものではとの意見もある。これは,雨宮が取り上げた「文殊浄土の遙かな高みを象徴する石橋」という橋に対する思念からすれば,仏かもしれないが,抽象としての母なるもので、その抽象するものは,川端にとっての「日本文化の本質」ではないか,と私は勝手に理解している。
この橋をはじめ日本の橋の中には、単に形状のユニークさや機能だけでなく,何か日本人の心情の琴線にふれるなにを持つ橋も数多いともいえよう。住吉大社の反橋もそんな橋のひとつなのだろう。単には,お祓いの橋とみるだけでなく,日本人がこの橋への心情の深さを知りつつ上り下りするのも,また,違った風景になるかもしれない。
(4)角島大橋
一転してこの橋には,普遍的な隠喩などなにもない,極めて実用的な橋である。山口県の西端,九州との玄関口でもある下関から海岸沿いに50㎞,鉄道の難読駅で必ず取り上げられる,山陰本線特牛(こっとい)駅から車で20分ほどのところにある。
実際に現地に行ってみると,その橋の機能美は見事だ。角島大橋は,山口県の北西部の豊北町にある。海上約1.5㎞の距離にある角島と本土を結ぶ,延長1780m・幅員6.5m・2車線の離島架橋である。かつては角島と本土との間は町営渡船による連絡のみだったため,荒天時,緊急時をはじめ,日常的な社会・経済活動に多大な支障があったことから2000(平成12)年に開通した。ただ,建設にあたっては,この架橋地点が北長門海岸国定公園の第1種保護区域に指定されている鳩島や漁業資源(鮑,サザエ,ワカメ)の豊富な周辺岩礁などがあることから自然環境への影響を極力避ける必要があったため,大橋は鳩島を迂回する曲線及び直線とで構成された結果,この曲線と直線の組み合わせが橋としての機能美を高めている。周辺海域の環境保全に配慮しながら,日本海に面した,厳しい気象・海象条件などに対応するため,設計,工法に多くの工夫がなされ,角島大橋の周辺海域は,透明度の高い海,緑豊かな島影と弧を描く長大な橋梁という見事な景観を生み出すことになった。
この橋の架橋にあっては,当然ながら離島特有の社会経済の支障を取り除き,地域の発展を願うものはあったが,日本全体の少子高齢化の流れは,橋だけでは食い止めることは出来ず,1950年には2045人あった島人口は橋が開通した2000年には941人,さらに2023年には622人と高齢化と人口減少のスピードは落ちていない。
ただ,良い材料としては,この機能美と海域の保全によって,この橋を目当てにした観光客が大幅に伸び,開通前は20万人足らずだったものが,最近は安定的に100万人を超えている。一方で,角島自体となると,日本海に沈む夕日が美しく白砂の海岸,ワカメをはじめとする海産物などの観光資源はあるものの,決定力にかけ,滞留性や観光客の消費額には課題が多いようだ。なんとか,角島の魅力を掘り下げて島内消費が多く,持続性の高い滞在型観光を育成し,島内経済の底上げとその経済活動を支える人口を確保できることを願うばかりだ。
さて,角島の現状と課題とは別に,一般的にこうした離島架橋はどのような運命を辿るのだろうか。人口減少がさらに利用度が下がり,ドローンなどの新しい交通体系で,橋自体が無用の長物化する可能性もあるかもしれない。
でもこの角島大橋に限って言えば,そうした時代になっても産業遺産として,その機能美が再認識され,神話化するかもしれないと,妄想をしたくなる。その時こそ滞留型観光が花開いていてほしいとも願いたくなる。
次回は「世界一の長さの木造歩道橋」である「大井川の蓬莱橋」と「武家町と町人町」を繋いだ「錦帯橋」を紹介しながら,もう少し日本人が付き合ってきた橋のありようを考えてみたい。
参考・引用文献
川端康成「反橋・しぐれ・たまゆら 」講談社文芸文庫
山本芳明「市場の中の川端康成-『哀愁』・『反橋』をめぐる覚書」学習院大学文学部研究年報69輯
「大阪府神社史資料」昭和8年 国立国会図書館デジタルコレクション
ダニエル・ストラック「『日本の橋』と世界の橋―保田與重郎と柳田國男における〈橋〉の異相―」北九州大学文学部紀要(北九州大学)2001年 61号
雨宮久美「橋の文化的意味―聖と俗の架け橋―」国際関係研究(日本大学) 第35巻1号 平成26年
八千代エンジニヤリング株式会社HP「しあわせつながる“角島大橋”」 長尾信雄等「角島大橋の設計施工」 「コンクリート工学」37 巻 7 号 1999年 山口県HP 「離島・角島」