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​特集 6月号​ 国分寺を訪ねる(Ⅱ)
〇創建時の面影をみる

​ 創建時の伽藍配置の遺構が現在の寺域内にそのまま遺されているとされるのは周防国分寺である。同寺はJR山陽本線防府駅から北東に約2㎞、防府平野の北端にあり、741(天平13)年聖武天皇の勅願によって諸国に建てられた国分寺のひとつであることは言うまでもない。同寺自体の創建は不詳だが,756(天平勝宝8)年よりはさかのぼるとされている。

 これは前回すでに述べたが、「続日本紀」の同年の12月20日の条に「潅頂幡一具、道塲幡四十九首、緋の綱二條」を「周防」など26か国の国分寺に頒下したことが記載されていることから、この年にはすでに周防国分寺は実態があったと考えられるからである。また、この時期に創建されたことは、発掘調査によって、江戸時代までの各時代の古瓦が、境内から発見されているおり、塔跡、金堂東側などからは奈良時代のもの出土していることからも推定できる。
 また、同寺は、発掘調査の結果から、当初は寺域が400m四方あったとみられ中門跡,回廊跡,南門跡などの配置が明らかになっている。さらに現在ある金堂(本堂)と仁王門を結ぶ南北中軸上にほぼ並んでいたことが分かっており、現在の寺域は創建当初より狭くなってはいるものの、主要な遺構・遺跡が現在の寺域内にそのまま遺されているのは、全国の国分寺史跡では珍しい事例だといわれている。また、東南約900mのところに国府跡があり、国分寺の境内の西側には周防国分尼寺があったと見られている。
 現在は、白い築地塀とマツやクスの巨木に囲まれた境内に、質素だが堂々とした楼門の仁王門をくぐると,広い境内の正面に金堂・聖天堂がどっしりと建つ。これらは江戸期に毛利氏によって再建されたものだ。創建時や応永年間(1394~1428年)再建時のものより、一回り小さくなっているというが、十分に荘重な構えで、外観は古代以来の面影を遺すなか,唐破風造の向拝などには近世的な特徴があらわれているという。
 また、本堂には室町時代の作である薬師如来坐像や本尊の両脇侍である藤原期初期の日光・月光菩薩立像、同じく藤原期の四天王立像が安置されている。どっしりと構えた本尊をはじめ、温和なで柔らかな腰高の両脇侍、表情豊かな四天王立像と間近に対面でき、その造仏の時代差を感じさせない調和を感じる。
 こうした現在の周防国分寺は平安期に中断した時期を除き、現在に至るまで、寺勢の消長を繰り返しつつも境内域も中心となる金堂の伽藍配置もほぼ継承され仏寺として存在し続けてきた。平安期の中断は「周防国分寺史」によれば、鎌倉初期の再興されるまで「永い300年の空白の時代」があったとしている。ただ、平安期の国分寺の衰退は、律令体制の崩壊に伴うもので、諸国の多くの国分寺において法灯の継承が廃絶または中断が余儀なくされ、境内域が消失、廃絶し、再興時には伽藍の規模、位置が大幅に改変された。

 そのなかにあって、なぜ周防国分寺境内域などが一定程度継続できたのだろうか。
 そのひとつとして考えられるのは、諸国の国分寺が衰退あるいは廃絶したのは、律令体制の崩壊とともに国衙領が有力貴族や寺社勢力に荘園として浸食され、中央からの支援も薄れ、経営基盤を失ったことによる。しかし、周防国分寺が再興できたのは、周防国が1181(治承4)年の平家の東大寺焼き討ちによって焼失したため、その再建にあたり1186(文治2)年に東大寺の造営料国に充てられたことの影響が大きいとみられている。これは造営料国となった周防国では、東大寺の僧がこの地域における国司の目代など行政面でも支配権を握っていたので、財政面でも行政面でも再建のバックアップが行いやすかったとみられている。同寺は東大寺の系列である極楽寺の末寺に組み込まれ、その後同系の西大寺末寺であったことから同寺の再興と寺領確保が可能となったと考えられる。
 この点については、1325(正中2)年12月26日付け「周防国留守所下文案」にある「爰関東極楽寺住持善顕上人任国之時 目代覚順 如旧再興彼両寺(国分寺・国分尼寺)」などと記されていることから、松尾剛次は「極楽寺長老善願房順忍が東大寺大勧進として周防国守(周防国が東大寺による知行国の領有化がなされていた)だった時に、目代覚順によって周防国分寺・国分尼寺の再興がなされたことがわかる…中略…注目すべきことには、それと同時に周防国分寺(おそらく尼寺も)の律寺化、とりわけ極楽寺の末寺化が進んだことである」としている。さらにその後西大寺の末寺となるが、これは松尾が「南北朝初期までは極楽寺流は三河国以西の西国にも展開していたが、南北朝動乱の終結を機に、西大寺と極楽寺で調整がなされ、基本的に西国の末寺は西大寺が、東国は極楽寺が統括する」ことなったと指摘しており、これに伴って、周防国分寺も西大寺の末寺となったと考えられている。
 ただ、こうして大寺の傘下になると多くは、経営的基盤である寺領を本寺に実質的に支配される事例も多かったとされるが、周防国は国全体が東大寺造営料国であったために、逆に国分寺自体としての寺領が一定程度守られたとも考えられている。造営料国の行政を実際に行っていた目代は東大寺から派遣された僧侶であったことは前述したが、その中にあって鎌倉末期、1322(元享2)年から1333(元弘3)年までその任あった覚順は、周防国分寺の住持も務め、その際に周防国分寺、国分尼寺の再興に努めたといわれる。
 覚順はまず、寺領管理を合理化するため、同寺の「再興事併可為国務繁昌之基也」として旧来分散していた寺領を国衙領とする一方、その代わりに国分寺の近隣地を寺領の替え地とした、と1325(正中2)年の周防国留守所下文にも記録されている。
 このように鎌倉末期に再興され、南北朝の混乱期も乗り越えたものの、1417(応永24)年には、ほとんどの伽藍が焼失してしまった。この時に同地のランドマークであった鎌倉末期に再建された五重塔(創建時は七重塔)も灰燼に帰している。しかし、これを復興させる朝廷、幕府などの力はすでになく、南北朝期から周防を含め西国で勢力を拡大した大内氏により、国家鎮護の特別な寺院として、代々寺領の安堵を行うとともに1421(応永28)年に金堂の再建に着手され、一定の伽藍の復旧はなされた。ただ、五重塔は造営されることはなかった。
 室町後期の混乱期に入ると戦国武将による寺領収奪にもあったが、毛利氏の同地の平定とともに寺領が担保され、松崎天満宮(防府天満宮)や玉祖神社などと合わせ、毛利家の崇敬と庇護を受けるようになった。
 戦国末期には大内氏の再建修復した伽藍も荒廃したとされたが、1596(慶長元)年に毛利輝元により再建造営された仁王門(現存の門は,1767【明和4】年に毛利重就が修築)をはじめ、江戸時代を通じ、代々、伽藍の修復、再建、建立がなされた。現在、遺されている堂宇の多くは、1779(安永8)年に毛利重就が建立した金堂をはじめ、この江戸期に毛利氏によって再建造営されたもので、これを明治期以降に修復したものである。

 周防国分寺はこうした歴史的は背景によって、一定の継続性、継承性が保たれ、境内域や伽藍配置についても縮小されたものの、創建当時の状況をよく遺しているといえよう。また、創建時のものかどうか不詳であるが、藤原期初期の作とみられる日光・月光菩薩立像、四天王立像や1421(応永27)年に大内盛見が建立した薬師如来坐像などの仏像や中世中期以降の古文書(周防国分寺文書)などの数多くの貴重な文化財が遺されている。

 こうしてみると、周防国分寺を観光資源としてみた場合、各地の国分寺跡と比べ、創建当時の伽藍配置をよく遺し、堂宇も近世以降のものとはいえ、国分寺の遺風を継承しており、」さらには、仏像をはじめ収蔵文化財も豊富で、極めて価値が高いと思う。しかも、市内を東西に古代からの官道、山陽道が貫いており、東から国衙跡、国分寺跡、国分尼寺跡(推定地)、防府天満宮(旧松崎天神)が並んでいる。
 さらには、瀬戸内海に開けた海岸は国府の港として古代から発展し、江戸時代も長州藩(毛利家)の物資の集積地や水軍の根拠地として重要な港となっていた。現在の海岸線は江戸時代の塩田開発などによって干拓により、遠くなっているものの、長州藩の舟倉跡などが遺されっている。その意味では古代から近世を通じ、要衝の地であったことを示すものが数多く遺されている都市でもある。
 しかしながら、拝観の受け入れ態勢や展示解説施設の充実、周辺の修景など、受け入れに対するソフト・ハード両面でさらに整備を進める必要があろう。また、全国各地の国分寺跡と連携して、「国分寺の歴史と価値」を伝えていくセンター的な役割を果たしていくこと重要ではなかろうか。そうすれば、防府天満宮、国衙跡、三田尻湊関連遺跡などと合わせ、古代中世の歴史散歩の街としてもさらに充実し、観光資源としての価値もより一層高まると考えられる。

 

 次回以降は都市化のなかの国分寺史跡として武蔵、下総の国分寺跡を訪ねてみる。

 

参考文献・引用文献
「訓読続日本紀」臨川書店 1986年 209等/579 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12269209/1/209
防府史料 周防国分寺文書44p「周防国留守所下文案」 防府市電子図書館
https://www.library.hofu.yamaguchi.jp/dbook/dbook_hofu/dbook_hofu_22_kaitei.pdf
松尾剛次「鎌倉極楽寺流の成立と展開─初代から九代までの極楽寺歴代住持に注目して」山形大学大学院社会文化システム研究科紀要第14号 2017年 
https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/11/kiyou14_01.pdf
防府市教育委員会「防府史料 第25集『周防国分寺史』」1976年 国立国会図書館デジタルコレクション 27・50/94 https://dl.ndl.go.jp/pid/9573845/1/27
御薗生翁甫編「防府市史 上巻 第2版」防府市教育委員会 1961年 国立国会図書館デジタルコレクション 223/ 268  https://dl.ndl.go.jp/pid/3034993/1/223

 

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