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​特集 3月号​   関東の式内社(Ⅰ)

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​鹿島神宮楼門

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​鹿島神宮拝殿

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​鹿島神宮仮殿

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​鹿島神宮拝殿から本殿

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鹿島神宮奥宮

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鹿島神宮参道と社叢

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​鹿島神宮御手洗池

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​鹿島神宮要石

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​筑波山

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筑波山梅林

 まず、式内社とはなにかを調べてみた。
 式内社は927(延長5)に完成した、延喜式の巻九、巻十の神名式上下、いわゆる神名帳に記載されている神社のことを指している。それでは延喜式はなにかといえば、古代日本における律令制度を支えた法令類の集大成版であり、最初の法典である養老律令を基礎にその後にまとめられた弘仁式、貞観式をほぼ包含した巻一から五十に及ぶ法典である。
 この神名帳に神社名が記載されている理由は、律令体制下における神祇に対する国家的な統制であり、宮中・京中・五畿・七道内の当時の全国の支配地域の有力な神社について、国家の神祇としての祈年祭などを実施する神社の体系化であった。つまり、それまでは、産土神であったり、氏神だったりした神々を、律令制度の神祇令とし、有力な神社については国家の神祇官のもとで祀るものと位置付けたのである。
式内社として規定された神社は神祇官または国司より幣帛を奉ったが、神祇官が奉幣する官幣社と、国司が奉幣する国幣社と分かれており、それぞれ大、小に区分するという序列があった。また大には大社と名神大社とがあった。大社・名神大社のなかでも月次・新嘗・相嘗祭などにも幣帛をうける社と一部の神祭事のみ幣帛をうける社に区分されていた。
 神名帳にある神社の数は、全国で、鎮座する神の数で3132座、神社の数としては2861所であり、複数の祭神が鎮座する神社もある。区分でいうと、官幣大社304座・198所(名神大社124座・74所、大社180座・124所)、官幣小社433座・375所、国幣大社188座・155所(名神大社161座・129所、大社27座・26所)、国幣小社2207座・2133所となっている。京都周辺の五畿内に式内社は多く分布し官幣社も多い。畿外では、式内社は相対的に少なく、一部を除き国司よる奉幣が一般化したとみられている。
 この式内社の勢威は、中世に入ると律令制度の崩壊とともに、弱体化し、その影響力を失ったが、近世に至って、国学の勃興とともに再び注目を集め、明治期の神仏分離令や神社合祀政策に影響を与えたという。

 それでは、古代においては京都から遠く離れた夷との最前線でもあった関東では式内社はどういう状況であったのだろうか?
相模国:13座(大1・小2)13社で名神大社は寒川神社(神奈川県寒川町)。
武蔵国:44座(大2小42)43社で、そのうち前玉(さきたま)神社(埼玉県行田市)には2座鎮座し、名神大社が氷川神社(埼玉県さいたま市)と金佐奈神社(現・金鑚神社:埼玉県神川町)である。
安房国:6座(大2小4)6社で名神大社が安房坐神社(現・安房神社:千葉県館山市)・大社が后天比・理乃比咩(元名洲崎)神社(現・洲宮神社:千葉県館山市)。
上総国:5座(大1小4)5社で名神大社が玉前(たまさき)神社(千葉県一宮町)。
下総国:11座(大1小10)11社で名神大社が香取神宮(千葉県香取市)。
常陸国:28座(大7小21)27社で名神大社が鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、筑波山神社(大1小1座 茨城県つくば市)・大洗磯前薬師菩薩明神社(茨城県大洗町)・静神社(茨城県那珂市)・吉田神社(茨城県水戸市)・酒烈磯前薬師菩薩神社(茨城県ひたちなか市)・稲田神社(茨城県笠間市)。
上野国:12座(大3小9)12社で名神大社が貫前(ぬきさき)神社(群馬県富岡市)・伊加(香)保神社(群馬県渋川市)・赤城神社(群馬県前橋市)。
下野国:11座(大1小10)11社で名神大社が二荒山神社(栃木県日光市)。
 いわゆる現在の関東地方で合わせて130座128社で、そのうち名神大社及び大社は18社となっている。その名神大社及び大社のうち、東北地方と接する常陸国と上野国で10社あるというのも、これが夷と対峙する当時の律令国家の最前線という地理的な意味合いという点からも興味深い。

 

 こうして古代律令国家で定められた式内社は、当時の辺地であった関東においても有力な信仰の場であったことは間違いなく、現代にもそれが継承されている神社も多いが、長い歴史のなかでは、当然ながらその社会的役割も存在意義も変化し、その場所が特定できなくなったものもある。そこで、関東において特徴的な神社をいくつか取り上げ、現地を訪ね現状がどのようになっているか確認しつつ、近世以降に社会的役割として大きくなった観光資源としてのこれらの神社の価値をどうみたらよいのか、少し探ってみたい。
 第1回は、現在も参詣客が多く、観光資源としても重要な役割を有する鹿島神宮、筑波山神社、第2回は、いまも地域の鎮守としてその役割を果たしている埼玉県の玉敷神社、金鑚神社、第3回は武蔵国一之宮の氷川神社と国府とつながりが深かった大国魂神社を取り上げてみたい。

〇鹿島神宮
 私は、この鹿島神宮が関東においては、中央朝廷からもっとも重視され
ていたのではないかと、思っている。その背景には大和朝廷が国家として機能しはじめ、畿内だけでなく東国まで勢力を伸ばし、さらに東北地方(古代では夷の支配下にあった地域)まで進出しようとする最前線であり、その守り神として極めて重要な存在であったと考えられるからである。
 同社の創建については、不明な点は多いものの、創建神話として、神武天皇が「東征」の折、天孫降臨に先立ち国譲りの交渉をしたという武甕槌命(たけみかづちのみこと)の「韴霊剣」によって窮地から救われたことから、紀元前660(神武天皇元)年に、この地に武甕槌命を祭神として祀ることになったと語り継がれている。このことは、日本武尊の「東征」が重ね合わせて語り継がれることが多い、4~5世紀における大和政権の東国進出の過程の重要拠点であったことが表現されたもので、それに伴う祭祀も執り行われたのではないかといわれている。
 鹿島神宮の祭神である武甕槌命は平城京への遷都にあたっては、霊地であった三笠山に勧請され、春日大社が創建されることになる。春日大社が置かれた地はもともと中臣(藤原)氏との関係が深く、この勧請にも関わっている。さらには神仏習合の中で藤原氏の氏寺である興福寺と春日大社は一体的に経営され、奈良、平安時代には国を守護する寺社として崇敬されたことで知られている。
 つまり、その淵源になったのが、鹿島神宮ということであるから、中央朝廷にとって関東における同社の意味は極めて重要だったといえよう。ちなみに武甕槌命の「韴霊剣」が神格化されたといわれる経津主命は、霞ケ浦の対岸、千葉県の香取神宮に祀られているおり、こちらの神も春日大社の祭神とされている。
 鹿島神宮がこの地に祀られた理由には、当然のことながら、東国統治の拠点と対東北地方(夷)への最前線として、地形的なものがそれに適していたということであろう。外洋と内陸や内湾の霞ヶ浦との東西の結節点であり、内湾を挟んだ向かいの香取神宮とともに北への睨みをきかせる一方、交通の要となっており東国統治の拠点としてうってつけなのだ。
 そして、武家社会に入った中世から近世においても、創建神話などから武神としての評価が高まり、源頼朝、徳川家康など名だたる武将から崇敬されるようになり、鹿島信仰として全国に約600社にのぼる鹿島神社が勧請されることになる。
 これだけ、国家守護の重要な役割を果たし、名だたる武将から崇敬を受けてきた同社は、現在においてもJR鹿島線鹿島神宮駅の南東に、約70万㎡の広大な樹叢を有している。鹿島神宮駅側にはかつての賑わいほどではないにしても、門前町の体裁は十分に遺され、参道は西から入ることになっている。すなわち、霞ケ浦の内湾から入る形となり、その湖岸には西の一之鳥居が建つ。
 参道を東に向かうと大鳥居、楼門と続き、その先の右手に本宮(拝殿、本殿等)が建つ。この本宮の本殿は1619(元和5)年江戸幕府2代将軍徳川秀忠の造営したもので、三間社流造、桧皮葺(ひわだぶき)。この本宮と参道と挟んで反対側には仮殿と称する社があるが、これは1619(元和5)年の本宮の本殿を造替する際に、当時の本殿を奥宮として曳家したため、仮にご神体を鎮座させた社である。奥宮は本宮から深い樹叢のなかの参道をさらに400mほど入ったところにあるが、現在の奥宮はこの曳家した建物で、1606(慶長11)年徳川家康の造営だという。本宮の本殿の造替は、この江戸初期に行ったものが最後となる。それまでは20年ごとに造替が行われ、本宮の位置も20年ごとに現在の本宮と奥宮の位置に交代で鎮座していたとされる。
 面白いことに本宮も奥宮も参道に対し正対しておらず、北向きに建っていることだ。おそらく、北の脅威を意識してそのように建てたのではないかとも言われているが、詳しいことはわかっていない。奥宮の周囲の樹叢は、さらに繁茂しており、深閑さが増し、奥宮の裏手の林間の道を辿れば、要石に達し、右手の坂を下ると、1日40万リットル以上の湧水がある御手洗池に出る。ここには茶店もあり、一息つくことが出来るようになっている。
 ともかくも広大で密な樹叢に覆われた境内はまさに神域の風格があり、社宝も多く、社殿の歴史的背景も興味深い。これぞ式内社の大社としての伝統を受け継いだ神社だといって良い。
 これからみると、観光資源として高く評価すべきだが、ここ数年はコロナの影響をうけ、入込数はその傾向を読み取れないものの、その前の10年をみると、通年参拝客が50~60万人、初詣やその他の祭神事で80~90万人ほどで、合わせて130~150万人(鹿嶋市商工観光課資料による)の間を行ったり来たりといった停滞傾向にある。これほどの観光資源であれば、もっと観光客を引き付けられるのではないかと、思う。その要因は、ひとつはアクセスの問題かもしれない。東京からは高速バスで2時間20分ほど、鉄道は約110㎞の距離だが、かつてあった定期の直通特急はなく、途中乗り換えが2回ほどあり2時間20~30分もかかる。特急がなくなったのは、バスとの競合に負けたからだと言われている。とくに初詣は、やはり利便性の高い、都心や近郊にある神社には敵わないのだろう。
 今後、インバウンド需要の取り込みも含め、停滞から上昇への道を描くとすれば、ここは鹿島神宮単独ではなく、対岸の香取神宮、佐原などの観光資源と連携したストーリーを作り、それをもとに2次交通の整備やマイカーの観光ルートの整備を図る必要があろう。鹿島神宮自体もこれだけの歴史的背景、価値をどのようにアピールしていくのか、さらなる工夫が必要かもしれない。たとえば、春日大社との関係性、鹿苑の見せ方、樹叢における体験学習、境内での宿泊施設の整備など、極めて多くの素材がある神社などで、信仰の場所としても観光資源としても一層魅力を増すに違いない。

                                                      
〇筑波山神社
 常陸国には名神大社が7社あり、関東地方ではもっとも数が多い。そのなかでも筑波山神社は、名神大社が筑波男神、小社が筑波女神と、2座が祭神とされている。この神社は山岳信仰から成立しており、筑波山の双峰の男体山と女体山がその信仰の対象で、極めて土着的な自然信仰から始まっている。本殿は男体山と女体山の山頂付近にある祠で古代の山岳信仰を今も伝えている。この点は国家鎮護的な鹿島神宮とは対照的なかもしれない。このため、早くから神仏習合の修験道が盛んであった。現在、主祭神を伊弉諾、伊弉冉としているが、これは後代に人格神として付与したものだ。
 8世紀後半から9世紀前半の僧徳一によって、筑波山麓の現在地に知足院中禅寺が開かれ、筑波の双神は筑波両大権現と呼ばれて発展した。徳一は磐梯山信仰にも関りがあり、磐梯山の山麓にも慧日寺(えにちじ)を開いている。もともとは、奈良の興福寺で法相宗を学び、20歳の頃には東北地方で仏教の広布に努めていた。徳一は、修験者たちによって行う山林修行の実践者で生まれながらの知を習得する「自然智宗(じねんちしゅう)」を主導し、勃興した山岳仏教(密教)を包含する天台宗の最澄との間では激しい法論が繰り返されたという。
 それでは、東国の北端にある筑波山が名神大社とされたか、といえば、おそらく、律令体制の影響力が及ぶ関東平野において筑波山が圧倒的な存在感を示し、在地住民から圧倒的な畏怖と崇敬を集めていたためだろう。当然、東征の最前線である東国経営の安定のためには、大和朝廷との関係性を神話など結び付け、さらには律令体制のなかでしっかりと位置付けておく必要があったのではないだろうか。これは常陸国に7つもの名神大社がおかれた理由でもあったのだろう。
 その後も中世、近世を通じ皇室、公家、武家の信仰も篤く、ことさら江戸幕府の歴代将軍は江戸城の鬼門にあたるとして崇敬した。このことは摂社として日枝神社、春日神社、鹿島神社の本殿、拝殿などが境内にいま遺るが、いずれも三代将軍家光が1633(寛永10)年に寄進したものであることからもわかる。しかし明治の廃仏毀釈のため中禅寺は廃され、神社名も筑波両大権現から筑波山神社と改めた。現在も本殿は男体山・女体山の山頂の祠であることは変わらないが、拝殿がある山腹の現在地は、知足院中禅寺跡地で、老杉に包まれた境内に摂社の社殿なども建ち並ぶ。なお、拝殿は1875(明治8)年に造営されたものだ。
 古くからの土着的信仰によって発展した神社だけに、庶民からも篤い信心を集めていたため、参詣者も多く、筑波山の南面の中腹に広がる境内の随神門から神橋、石鳥居周辺には門前町が発達し、かつては山麓の参詣道も「つくば道」といわれ賑わいを見せた。現在もその面影を残す町並みや景観(北条・神郡・小田地区等)が神社周辺や山麓に点在している。

 

 観光資源としては、東京の高尾山のように筑波神社は神社自体というより、筑波山という首都圏から手軽に登ることができる山というカテゴリーのなかに包含されているといってよいだろう。筑波山は関東平野の北、八溝山地の南端にあるが、関東平野からは独立峰のように見える山容で、よく目立つランドマークとなっている。植生なども独特なものもあれば、登山道には修験道に関連する史跡も遺っており、山頂へはケーブルやマイカーなどで手軽に登れ、山麓の梅林、果樹園、史跡なども含め魅力的な観光資源といってよいだろう。
 資源的にはインバンドに人気のある高尾山と比べても遜色ないものがあるので、登山、サイクリングなどのレクレーションとともに修験道の歴史的背景やつくば参詣道などを適切に結びつけ、2次交通に工夫を重ねれば、その魅力はもっと増すのではないだろうか。

株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典 『延喜式』『延喜式神名帳』」

国史大系第26巻新訂増補「延喜式」 昭和12年 200/604

国学院大学メディア「鹿島神宮に現れた遺跡 そこから見えた古代のフロンティア」

鹿島神宮HP 

筑波山神社HP 

 

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