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​特集 5月号​   関東の式内社(Ⅲ)

​氷川神社参道

​氷川神社参道

​氷川神社神池

​氷川神社楼門

​氷川神社拝殿

​氷川神社境内

​大宮公園 白鳥の池

F11A2547女體簸川神社.JPG

​氷川女體神社拝殿

​大國魂神社参道

​大國魂神社随神門

​大國魂神社拝殿

 武蔵国において、式内社あるいは論社のなかで、武蔵国の一之宮は埼玉県さいたま市の大宮区の氷川神社とされている。ただ、一方では東京都府中市にある大國魂神社は武蔵国の総社と称され、六所宮ともいわれ、奉祀されている六つの宮のなかに氷川神社も入っており、その中では氷川神社は三之宮とされている。はてさて、これはどういう関係なのか、興味深い。そこで、この格式の高い2社を訪ねて探ってみたい。なお、六所宮のなかには前回紹介した武蔵国二之宮金鑚(佐奈)神社も入っており、五之宮とされている。

〇氷川神社
 氷川神社は武蔵国ではもっとも古い創建の社だといってよいだろう。とくに中世以降は荒川の流域を中心とした関東において氷川明神信仰が広まり、各地に氷川神社がここから勧請されたり、遥拝宮として設けられたりした。
 ただ、創建の経緯となると詳しいことは分かっていない。延喜式には武蔵国では2座しか与えられていない名神大社のひとつとされているから、古代から崇敬されていたことには間違いがない。中世においても源頼朝の保護を受け社殿修復もなされたり、足利尊氏の参詣、寄進があったりして、在郷の武士などの崇敬を受けていたという。近世では、江戸後期の「江戸名所図会」においても「街道の右の方に鳥居・立石あり。これより十八町(約2㎞)入りて御本社なり。」として現在も遺る長い参道が挿絵にも描写され、「新編武蔵風土記稿」では境内が9万坪(約30万㎡)もあったとしていることから、いかに境内が広大であったかも記録されている。
 創建の経緯については諸説があるが、ひとつは「新武蔵風土記稿」が紹介している社記には「孝昭帝(五代天皇)ノ御宇勅願トシテ出雲国氷ノ川(簸川)ニ鎮座セル杵築大社ヲウツシタテマツル」とあるとしている。この時に「氷川」の社号を賜ったとし、その後日本武尊が東征の折に戦勝の祈願をしたとされている。これはあくまでも神話伝承のことであり、杵築(出雲)大社の近くを流れ、祭神となる素戔嗚命がヤマタノオロチと退治したという「簸川」の河川名を社号にするとは考えにくいものの、一定の含意はあると思われる。
 古墳時代に武蔵国の国造であった笠原氏(後の丈部氏)は出雲神(天穂日命)を遠祖としているとされており、日本書紀では大和朝廷の力を借り、地方豪族も巻き込んだ同族間の争いを抑え、国造の立場を守ったことになっている。もっともこの笠原氏の遠祖が出雲系だったことについて疑問視する説もあるものの、この時期の関東においては、中央権力が地方豪族を勢力下にしつつあったとされ、それを背景に笠原氏一族の一派が国造としての立場を確固たるものとした過程であったのは間違いないだろう。やがて、大和朝廷が屯倉などの統治をもとに律令体制の整備のなかでこの地域でも支配体制を盤石のものにしてきたと考えられる。
 こうみれば、おそらくはもともとは氷川神社の祭神は、集落の産土神、ひいては地方豪族の氏神であったものを、支配層の遠祖か、権威付けか、あるいは支配層に出雲系氏族が移入してきたかはともかくも出雲系の祭神が取り入れられ、律令体制のなかで位置付けられたと考えられるのが妥当だろう。それゆえ氷川神社の祭神は素戔嗚命(須佐之男命)であり、それにその妻の櫛名田比売女(稲田姫)と息子の大己貴命(大国主命)の三神が祀られている。  
なお、現在のさいたま市緑区宮本にある氷川女體神社に櫛名田比売女が、同市見沼区中川に王子社として中山神社に大己貴命を祀っており、合わせて武蔵国一之宮だったという説もあるが、これは後述するが、後代の氷川信仰の広がりのなかで結びつけられた話だとする説が妥当だろう。
 社号の「氷川」については他の説もある。菱沼勇は「『ヒカハ』の『ヒ』はやはり、『氷』の意」であり、「『カハ』の意は、今日一般の川のことではなくて、泉または池、あるいは細い水流は広いところにたたえ、よどんでいる場所」のことを指しているとしている。それが今も境内に隣接して残る神池である御手洗池で、かつては見沼につながっていたという。この池をこの地で農耕に携わっていた地元民が農業神として崇敬していたのではないかとしている。菱沼は「氷川女體神社」はこの氷川神社に相対するかたちで、見沼の淵に祀られたとしている。ただ、これについては、野尻靖は異なった見解を有している。
 野尻靖は「氷川神社」の創建については、神池=見沼説にも確証がないとしている。ただ、この地が古くから祭祀の場所であったことは周辺遺跡の発掘などから間違いないとし、都から離れたこの神社が「名神大社」として中央から高い神階を与えられたかについては、奈良時代に入り、武蔵の有力豪族で氷川神の祭祀を司っていたという丈部氏(笠原氏の後裔)が中央朝廷において「藤原仲麻呂の乱」の鎮圧などで活躍し重用されたことに関連するのではないかと、指摘している。

 一方、「氷川女體神社」については、氷川神社とは別の創建過程があるとしている。中世までは「氷川」は社号にはなく単に「女體神社」と称されており、所在地の「『三室』=三諸(御室)であろうし、『宮本』は神社の根本の地」を意味しているとしている。「女体」の社号も有する神社は関東周辺の川べりに分布し、神が船で渡御する「御船祭」を神祭事として執り行っている事例が多い。この船の安全を願う「船玉神」が女神であったとされる。おそらくこれが後代に「稲田姫」と結びついたのだろうとしている。要するに同社は、現在は干拓で無くなったしまった見沼とともにあった神社であり、大宮の「氷川神社」とは、別のプロセスで生まれたというのである。
それが大宮の氷川神社と関係を有するようになったのは、野尻は江戸初期からで、江戸幕府の文書や神社の棟札からも指摘できるとしているが、その理由は不明だとしている。ただ、当時熊野三山信仰の影響を氷川神社は受けており、男体社・女体・中氷川(王子)の三社一体化が進んだのではないか、と推測している。
 いずれにしても氷川神社は、武蔵国の形成の草創期から何等かの形で、もともとこの地に住民からもまた支配層が確立したあとはその支配者からも崇敬を受けていた長い歴史を有するのは事実だ。現在も2.3㎞に及ぶ参道や境内だった大宮公園、御手洗池など現代の市民にとっても貴重な存在である。ただ、観光資源としてみた場合、社殿の多くが昭和に入ってからのもので比較的新しいものが多く、遺された社宝も少なく物足りないものはある。もし、この神社を観光資源としてもっと活用したいとなれば、周辺の資源と合わせ、周遊性を高め、参道の魅力を引き出す事だろう。
 氷川神社の参道は現在もJR「さいたま新都心駅」の北500mほどのところから氷川神社の本殿まで続くケヤキ並木は素晴らしい。ただ、参道のケヤキ並木の両側は住宅街となっており、とくに門前町の雰囲気を醸し出していないが、途中に市立博物館もあるので、もっと「氷川信仰」に特化して、イベントも連動し参道散策の拠点、案内機能として充実すれば、資源価値が上がるのではないだろうか。
さらに神社周辺は、境内地だったところが都市公園の県立大宮公園となっており、そこには県立歴史と民俗の博物館、動物園も併設され、御手洗池などの池沼も広がる。公園を北に抜けた大宮公園駅付近には盆栽の聖地として世界にも知られる盆栽村があって「盆栽美術館」もある。神社から充実した収蔵展示がある県立博物館への誘導が少ないのも残念だ。そして博物館から大宮公園駅や盆栽村へ通じる道も単なる住宅街の裏道といった感じで、公共施設の廃屋があったりして殺風景なので、改善を図るべきだろう。
 また、誘客という観点からは、参道の両サイドにこだわることはなく公園内でもよいが、門前町の雰囲気のある飲食、雑貨店などの集積が作れるとなおよいと思う。こうした施策を積み上げれば、現在は神社周辺の周遊性をあまり前面に出していないが、さいたま新都心駅あるいは大宮駅から参道・社殿・公園・県立博物館・盆栽村を巡って大宮公園駅に至る文化(鉄道・武蔵国黎明期)、信仰(氷川信仰)、芸術(盆栽)を楽しむ一大周遊コースが生むことは可能だろう。都市化の激しい場所なので多くの課題はあるだろうが、インバウンドを含め観光資源の潜在的価値は高いのではないかと思う。
 さて、武蔵国の一之宮について、氷川神社と大國魂神社の関係はどのように位置付けられたのだろうか、ということになる。武蔵国一之宮はどこかについては「氷川神社」「氷川女體神社」「大国魂神社(小野神社)」などが挙げられてきたが、野尻靖は時代に変化するのでどれも誤りではないとしている。ただ、「大國魂神社」の神職の見解は若干異なっているので、これについては次の「大國魂神社」の項で触れてみたい。

 

〇大國魂神社
 大國魂神社は江戸後期の「江戸名所絵図」では「府中六所宮」として紹介されており、18ページに及ぶ記事と挿絵が掲載され、記事では祭神から社殿、縁起、年間行事などを詳細に解説し、挿絵では広大な境内に社殿が多数建ち並び様を描いている。いかに当時の「六所宮」、現在の大國魂神社が庶民の崇敬をあつめ、観光名所だったかが分る。なお、社号は、1871(明治4)年になってから神仏分離政策の影響もあり、現在の「武蔵総社大国魂神社」と改称された。
 現在も神社が広く崇敬を集めていることは京王府中駅から、ビル、商店が建ち並ぶ、目抜き通りを行くと、正面に大鳥居、そこから石畳の参道が数百m続き、途中、随身門、中雀門をくぐって、やっと拝殿に辿り着くほどの長い参道、広い境内域からも想像できる。参道の右手は大國魂神社創建と深い関係のある国府の跡であり、現在は国の史跡「国府跡」に指定されている。
 現在語られる同社の縁起は、1624(寛永元)年に神官家の猿渡盛道によって論考され、まとめられた「六所宮縁起」などが基となっている。それによると創建は、111(景行天皇41)年と伝えられているとしているが、定かなものは何も遺されていない。ただ、律令制度が整いつつある7世紀末から8世紀前半に隣接地に武蔵国の国府が置かれたため、国府(国衙)の祭事神事を担っていたとされ、その後、国司が武蔵国内の大社六所を1ケ所に勧請して合祀し、総社としたため大規模なものとなったといわれ、「六所宮」と呼ばれるようになったとしている。
 武蔵国の6つの大社、一之宮から六之宮をひとまとめに「大国魂大神」と称し、「六所宮」の祭神としており、それは時代によって多少の変遷はあるものの「小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神」を指しているとされている。このように有力神社を合祀した神社を「総社」と呼ぶが、これは「国司が国内の諸社を巡拝する労を省略するために国内の諸神社の祭神を一か所に合祀したもの」だという。「総社」という名称が文献上みられるようになるのは、平安時代後期で、「六所宮」の名は鎌倉時代の「吾妻鑑」からだとされる。これらから鑑みると、「総社」は平安中期頃、「六所宮」は平安末期頃に成立しらとみられている(遠藤吉次「わが町の歴史府中」)。
 なお、武蔵国の一之宮について「氷川神社」が挙げられることが多いが、これについて江戸後期の「六所宮」の神主猿渡容盛は「氷川神社は武蔵国の一之宮であり、小野神社は国府の六所宮の一之宮であるとするもの」だと説明し、「六所宮」においては、氷川神社は「三之宮」とされるとしている。これはおそらく国府にもっと近く、小野神社が巡拝の最初であったことではないかと推測される。
 ただ、この「六所宮」自体は成立時期のこともあり、平安中期の延喜式神名帳「武蔵国多磨郡」には同社の名は記載されておらず、合祀している「小野神社(現・府中市住吉または多摩市一宮)」と「大麻止乃豆乃(オホトノツノ)天神社(現・稲城市)」が式内社として挙げられている。この2社との関係は不明確であり、大國魂神社は論社にあげられるのにとどまっている。
 それゆえ、延喜式でのステータスは明確ではないものの、まさに律令制度の根幹であった国府の祭神事場、鎮護の神として総社として認めていた以上、この地域への影響力が強かったことは間違いない。それは、江戸時代に至っても同様で、徳川家康が社領五百石を寄進し、その後も幕府は厚く保護したことからもわかる。現在の社殿は、中世以前のものは遺されていないが、寛文年間(1661~73)造営の本殿(慶応・昭和年間に修復)をはじめ、拝殿(1885[明治18]年改築)・鼓楼(1854[嘉永7]年再建)・宝物館などが建ち並んでいる。また、中世からの年中行事として「くらやみ祭(4月30~5月6日)」で知られるが、この神祭事は国府の斎場である「六所宮」すなわち同社に国司をはじめとする武蔵国の統治者・有力者たちが集い、国守りの奉幣・祈願をしたことがはじまりではないか、とされている。
 「大國魂神社」は式内社としては論社に過ぎないが、古代から中世を通じて東国、なかでも武蔵国の総社として信仰面から同地域の統治機構を支え、あるいは利用されてきたといえよう。それ故、観光資源としての奥行きも深いものの、同社へ参詣してみればわかることだが、いまや郊外都市の発展のなかに埋もれつつあることは認めざるを得ない。今後、国府跡や神祭事も含め大切に保存継承していく必要を強く感じることには間違いない。

 関東には畿内と異なり、都からみれば辺境であり、それにしたがい式内社は圧倒的に少ない。しかし、古代には大和朝廷にとっては東北地方への支配確立のための最前線であり、中世以降の武家政権では、東国武士の本拠地であったことから、非常に個性的な式内社が散在している。文化資源としての保存継承面では不足感はあるものの、これらの神社の歴史的背景がさらに正しく掘り起こされ、都市化の中で文化景観が守られていけば、観光資源としてもより一層興味深い存在になるだろう。

参考・引用文献

菱沼勇武蔵国式内社の歴史地理」菱沼勇著書刊行会1966年 36~50/198 国立国会図書館デジタルコレクション  

野尻靖「大宮氷川神社と氷川女體神社その歴史と文化」さきたま出版会 2020年

「大日本名所図会 第2輯第5編 江戸名所図会 第4巻 『大宮氷川明神社』 『宮本簸川大明神社』」182~188/285・179/285 国立国会図書館デジタルコレクション

「新編武蔵風土記稿巻之一百五十三 足立郡之十九 『氷川神社』」16/51 国立公文書館デジタルアーカイブ  

「新編武蔵風土記稿巻之一百四十三 足立郡之九 『女體社』」8/47 国立公文書館デジタルアーカイブ

氷川神社HP 

大國魂神社HP 

「江戸名所図会 7巻 [10] 武蔵國総社六所明神社」 天保5-7 [1834-1836] 2/61 国立国会図書館デジタルコレクション 

「延喜式 第2」 日本古典全集刊行会 昭和4年 74/138 国立国会図書館デジタルコレクション 

官弊小社大国魂神社社務所「武蔵総社大国魂神社史料 第1輯」「六所宮縁起」 1944年 37/215 国立国会図書館デジタルコレクション

遠藤吉次「わが町の歴史府中」文一総合出版社1985年 23/134 国立国会図書館デジタルコレクション 

「多摩市史 通史編1 小野神社と府中六所宮」 540/553 多摩市デジタルアーカイブ 

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