
全国の歴史のある街を訪ねると、かつて古代において国府があったとされる街に行き当たる。そうした街の多くは往々にして、現在は所在する県や地域の中核的都市ではなく、近隣の中小都市であることが多いのが面白い。近現代と古代との行政、都市機能あるいは生活基盤の在り方が異なることから、地理的、地形的な適地の考え方が大きく異なることから来るのだろう。
そうは言っても、こうした国府があったとされる都市は、支配や行政の中核として立場を失っても、その後もその地域において何らの役割が与えられ、現代に歴史ある街並みを遺していることが多い。そんな街に通じる鉄道の駅前には必ずと言ってよいほど観光案内所があり、最近では「歴史散歩コース」などのパンフレットが置いてある。
それをみてみると、その町の歴史を反映して、城や陣屋、宿場、寺社などをめぐる散策コースの中に、国府跡や国分寺跡が入っている。国府跡や国分寺跡は、実際に行ってみると、かつてに比べ発掘調査や修景が進み、公園として整備がされていることが多くなった。
遺跡としての価値はもちろん高いのだが、散策コースや観光コースとしてのファクターとして強力なものかというと、多くの場合、よほどの古代史マニアではない限り、観るべきものは少ないといってよい。確かに関係者の努力により、発掘された基壇や礎石が芝生などで修景され、広々とした公園となっていることが多く、気の利いた地方自治体などでは、考古資料館なども設備しているところもある。ただ、地元住民の憩いの場所や学習の場としてはうってつけであっても、観光資源としての価値は余り高いとはいえない。
今回は、そんな国分寺跡に焦点をあてて、国分寺跡の歴史的意味を考えつつ、観光資源としての有り様について考えてみたい。
まず、国分寺とは何であったのか、を整理してみたい。
国分寺の創建については、一般的には741年(天平13)年の国分寺建立の詔をもって、律令で定められた国と壱岐、対馬の2島で造立が始まったとされる。現在、合わせて68ヶ所の国分寺僧寺と尼寺がそれぞれ確認されている。なお、国分寺は、詔においては国分寺僧寺を「金光明四天王護国寺」、尼寺を「法華滅罪寺」と称せよとしている。
もちろん、この創建については前史があって、大陸からの仏教伝来に伴い、唐制が影響を与えたと言われ、685(天武14)年に諸国、家に仏舎を設け、仏像や経を安置させるよう詔が出され、その後も仏法を奉るべしと命じているという。この前後から都から離れた地方の諸国で仏寺が建立されて高僧も派遣されるようになり地方への仏教の浸透が進んだという。
さらにこれに加え737(天平9)年に至り、国毎に釈迦尊像を造置するように詔が出され、そして741(天平13)年になった国分寺僧寺、尼寺の設置と経済基盤の確保を命ずる体系的な国分寺建立の詔が発出されたという。
それでは、この時期に各国一斉に造営されたかというと、60数ヶ国に宗教施設を造るわけであるから、必ずしも順調な国ばかりではなかったようで、「続日本紀」の747(天平19)年11月7日の条には詔を引用して「去にし天平13年2月の14日を以て至心に願を発し、国家をして永固に、聖法を恒に修せしむと欲して、遍く天下の諸国に詔して国別に金光明寺・法華寺を造らしめ、其の金光明寺には各七重の塔一区を造り、並に金字金光明経一部を写して塔裏に安置せしむ」と命じたのに「諸国の司怠緩して行はず、或は処寺に便ならず、或は猶未だ基を開かず」と厳しく指摘している。そのため、使臣を派遣して「寺地を検定して並に作状を察しむ」とし、国司は早く勝地を選定して営繕を行い、その事業には有能な郡司クラスの責任者を任命しなさいと指示を出している。
しかも、この事業が完遂されれば、その者は「子孫絶ゆること無く郡領の司に任ぜむ」と、末代までの身分保証をし、さらに僧寺、尼寺の経済基盤の拡充のための開墾までさえ認めている。
こうした詔を出すに至ったということは、つまり、国分寺の開設が思うほど進んでいなかったということだろう。
この詔により、国分寺僧寺と尼寺の造立はそれなにり進んだようだが、それでもこの詔を発出してから9年たった756(天平勝宝8)年6月3日の条に「勅して使を七道の諸国に遣し、造れる国分の丈六の仏像を催撿(検)せしむ」と廬舎那仏の造仏の状況確認を行う勅を出している。さらに6月10日の条では「頃者使工を分遣して諸国の仏像を撿(検)催せしむ。宜しく来年の忌日(聖武天皇の命日)までに必ず造り了らしむべし。其の仏殿に兼ねて造り備へしむ。如(も)し仏像並に殿已に造り畢(お)ふること有らば、亦塔を造りて忌日に会はしめよ」と、聖武(太上)天皇の一周忌までには、造仏とそれを安置する仏殿を造営し、できれば七重塔を造れという詔を発出したことも記している。
それではどこまで進んでいたかというと、同年の12月20日の条に「越後・丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・美作・備 前・備中・備後・安藝・周防・長門・紀伊・阿波・讃岐・伊豫・土左・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後。日向等二六国に国別に潅頂幡一具、道塲幡四十九首、緋の綱二條頒 頒下し、以て周忌御齋の莊餝に充てしむ。 用い了るときは金光明寺に収置して、永く寺物と為し、事に隨いて之を出用せしむ」とあるので、すくなくともこの26ヶ国については、一定の体制が整っていたのではないかと推測できる。
しかし、国分寺の創建に関する詔が出た737年から20年近くたっても、60数か国の中の半分ほどしか国分寺僧寺、尼寺のネットワークができていなかったとも考えられる。おそらくは一定の造営はなされていたとは思われるが、聖武天皇一周忌にあわせ、なんとかは、ネットワークを完成させようとしたのであろう。このため、都から離れた諸国はこの時期に相次いで完成、創建されたのではないかとも推測される。
そうして出来上がった国分寺のネットワークの維持は、かなり手厚い経済基盤を与えられたと思われるものの、諸国にあっては負担であったようで、「類聚三代格」の767(神護景雲元)年11月12日の条では「諸國々分寺塔及金堂或既朽損。由是天平神護二年各仰所由。 以造寺料稻随既令修。而諸国緩怠曾未修造」という諸国の国分寺に汚損しているところがあり、すでに「造寺料稲」などをもって修繕するように指示をしているが、諸国の怠慢でまだ修造されていないという勅を出していることを所載している。
だが、一方ではおそらくこの頃までには国分寺のネットワークの構築は完了していたとも見ることができる。なお、越前から分国された加賀や能登では、すでに開山されていた前者は勝興寺、後者は大興寺を国分寺に格上げし、国分寺とする事例も見られる(「続日本後紀」842〈承和9〉年9月10日及び843〈承和10〉年12月朔日の条)。
それではこの国分寺の創建は地域にとってどういう意味をもっていたのだろうか。
まず、741(天平13)年に国分寺創建の詔を発することになったかという点については、創建の詔のなかにも天皇自ら「未だ政化を弘めず寤寐(ごみ:寝ても覚めても)にも多く慚ず」として「頃者(このごろ)穀豊かならず、疫癘(えきれい:はやり病)頻りに至り、慙懼(ざんく:恥ずかしく思う)交(こもごも)集りて、唯労して己を罪す」としている。こうした状況に対し、「天下の神宮を増し飾(ととの)へ」、さらに「去歳釈迦牟尼仏の尊高一丈六尺なるもの各一鋪(ふ:数詞)を造り並に大般若経一部を写さ令め」たところ、「五穀豊かに穣れり」と、その霊験があったとし、「天下の諸国をして、各七重の塔一区を敬ひ造り、並に金光明㝡勝王経・妙法蓮経各十部を写さしむべし」とした。寺号を「金光明四天王護国寺」、「法華滅罪寺」とせよとしている。
これをみると、農作物の不作、それに伴う飢饉、疫病などが創建の契機だと記されているが、それと同時に当時の社会、政治状況も要因として大きかったと言われる。それは外交的には新羅との関係の悪化があり、内政的には疫病で聖武天皇を支えていた藤原氏の四兄弟を失い、九州では藤原広嗣の乱があるなど支配体制の揺らぎもあったからだという。
こうした内外の状況を仏教の鎮護国家思想の導入によって乗り越えようしたのだとされる。一方では、国分寺の造営を通じて律令体制としての中央集権国家の勢威を全国普く知らしめる役割も与えられていたともいえよう。そうした役割をもった国分寺で、もっとも重視されたのは詔に示されているように、建造物としては「七重塔」であり、ソフト面では「金光明㝡勝王経・妙法蓮経各十部」の写経であったと思われる。
国分寺という大寺院の建設によって、中央から派遣される国司はもとより、地方官僚である郡司などを中央集権への取り込みに繋がり、建設過程での中央からの文化、技術を移転する結果にもなったという。
ただ、この地方への仏教の広布とそれに伴う文化、技術の移転、波及については、前述したように741(天平13)年の国分寺創建の詔がスタートとなったのではなく、7世紀中頃から律令制の地方での支配体制の整備とともに行われてきたもので、国分寺の造営はそれを加速したものととらえるべきだとされ、その詳しいプロセスについては、現在も続けられている各地での発掘調査や文献調査によって、地方ごとにそのプロセスの相違も明らかになり、現在も探究が続けられている。
例えば、国分寺造塔の際の基礎となる基壇構築技術の技術移転について、青木敬は各地の国分寺の基壇について比較検討した結果、「国分寺造塔をはじめとする堂塔の造営に際し、各地に技術移転をはかった結果と解するのが穏当である」としたうえで、「工人が造営の現地へおもむく、あるいは伝習というかたちで技術が各地に伝わり、造塔や堂宇を造営したと理解するのが合理的である。技術移転をもって造塔されたとみる以上、国分寺造塔に不可欠な技術を保持していたのは、七世紀代から百済大寺や大官大寺などで巨塔の造営を経験し、国分寺造営が本格化した時期にほぼ並行して、東大寺や大安寺の七重塔を相次いで建立した宮都以外にない。要するに、南都七大寺の造寺技術が各地に移転したことで、国分寺造営の技術を確保したといえる」としている。 なお、ここで指摘されている「工人」については、「続日本紀」の756(天平勝宝8)年6月3日の条にある「頃者使工を分遣して諸国の仏像を撿(検)催せしむ」にあたると思われるが、「使工」の所属、身分については、現在定かにはなっていない。
ただ、一方では古尾谷知浩は「奈良時代に中央から諸国への技術伝播」については、それ自体を否定はしないものの、仏教伝来から間もない7世紀はともかくも8世紀に必ずしも中央政府が一律に積極的に行ったものではないとしている。地方にも一定の技術力がすでにあり、技術移転そのものはいろいろなルートで行われとしている。そのなかには、教学的指導者(僧職)で国分寺造営にも一定の役割を果たしていた「国師」も関わっていた形もあったのではないかとしている。
いずれの説にせよ、後進地域あるいは七重塔のように先進技術が必要であった造営には技術移転が行われたのが事実であり、国分寺造営のような大寺院造営事業がそれを促進したことは間違いない。
国分寺の造営には一定のフォーマットが伽藍配置などの指定も中央からなされているが、地方が置かれた地形的条件や政治状況、社会状況によって、そのプロセスに違いも多いといわれている。そんな点も念頭におくながら、いくつかの国分寺跡を訪ね、国分寺がその地方に与えた影響や波及効果をみながら、観光面も含め、現代における史跡の価値について考えてみたい。
参考文献・引用文献
「訓読続日本紀」臨川書店 1986年 209等/579 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12269209/1/209
青木敬「国分寺造営の土木技術と造塔─相模・武蔵国分寺の堂塔造営順序の復元をめぐって─」
古尾谷知浩「奈良時代の木工に見る都鄙間技術交流」