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​特集 4月号​ 神仏分離の爪跡(Ⅺ)
〇秩父の山岳信仰と神仏分離③

  こうして多くの講を組織し、参詣者が増えた三峰山であったが、幕末から明治初めに神仏分離の波を迎え、三峰信仰のコアであった「修験道」も禁止となり、修験者が廃されることになった。これをどのように乗り越えたのか、その経緯に簡単に触れ、神仏分離という激動なかで素早く路線を切り換え、どのようにしぶとく生き残ることとなったのかを考えてみたい。

 

 江戸後期から幕末にかけて、すでに各地で神仏分離の動きはあったが、政府の方針として具体化されたのは1868(慶応4)年3月の神仏判然令であり、さらに1872(明治5)年9月に修験宗の廃止とつながる。この神仏判然令から修験宗廃止までの間は、三峰山(別当寺:観音院高雲寺)を含めた修験宗の各寺社は、天台宗(本山派)や真言宗(当山派)など仏教宗派の中に組み入れられていたが、1872(明治5)年の修験宗廃止によって神仏分離の最終的な選択を迫られることになる。

 三峰山では比較的早い段階から社僧の復飾を決め、神社化を進めたと見られるが、過激な廃仏毀釈は行わず、極力現状を保持しながら移行しようとする動きであったようだ。このため三峰山では仏教施設である観音院やその他の堂宇にあった仏像・仏具や文献・記録・公式文書などが比較的良く遺された。神仏分離の経緯も詳細に確認することができる。

 これらの文献資料からは、社会体制の大変革のなか、といわけ三峰山においては山主が交代したばかりで、なおかつ麓の村との騒動も抱えることもあって、困難な状況であったことが読み取れる。さらに、本山である聖護院とは綿密な情報交換や指示を仰いでいるものの、本山側も当然ながら混乱しており、そのなかにあって朱印地、除け地や境内地の神領の扱い、支配体制の変更、神仏分離の方法など、次々に厳しい判断が求められた。そのため、社僧も含め坊院のなかでの相克、葛藤があり、個々の煩悶も散見できる。

 神仏分離に関し、三峰山が下したもっとも重要な判断は、1869(明治2)年3月と1871(明治4)年の3月のものだろう。

 まず、1869(明治2)年3月に「当山境内奥院において一山総鎮守として、熊野権現ヲ奉請、三峰権現と称来候処、先般御布告ニ奉対、自今三峰大明神と改称仕」えて神仏が混淆しないように境界も明確にすると、岩鼻県に申し出ている。また、同月には「山内一流復飾為被仕、本山修験一途ニ相成」として、この時点では、三峰山のなかで、神道と修験道をきっちり区分して対処するとしている。さらに吉田坊が神仏混淆を防ぐため、復飾し吉田街と改名して「修験相止、神道一途」になり、社務に専念するものとしている。

 しかし、それでは収まらずに1871(明治4)年3月に至り、修験道側の観音院から神社側に「御眷属」を差し出し神仏分離を行ったものの、「御一新之御趣意不採用姿ニ可相當旨」の意向が示されたので、今般「観音院相廃、(山主で観音院住職の到阿が)神主ニ相成、高室自在と改名、神勤仕御眷属守之儀、以来神犬と相唱へ、神主より右守差出、且付属之院も相廃」するとした。この時点で修験宗から離脱し全山が「神道一途」になることを申し出た。おそらく、修験道の廃止の流れの中で「オオカミ信仰」広布の源泉となる「眷属守」を保持するためにこうした決断を下したのだと推測できる。

 この「眷属守」の神道側への移行について、岩鼻県は民部省に意見を求め、「一社ノ縁起ハ不存候得共。古書籍ニモ徴証不相見乍併近世守等差出候ハ、各社一般恒習ノ様ニ相成候間、当分其儘ニ候」と、縁起や由緒は不確かだが、近世には一般化し他社でも行っているので、当面はそのままでよいだろうと、現状維持として認めることを岩鼻県に指図している。こうした煮え切らない判断を下さざるを得なかったのは、「眷属」自体は仏教の影響を受けているものの、「神犬」となると全否定も出来ず、一般化しており、低俗な民間信仰とまでは言い切れないので、捨て置けということになったのではないだろうか。このためであろうが、民部省の回答を受け、岩鼻県の三峰神社に回答も「神札」の存置の可否について「札守之儀ハ、当分其儘可差置事」とそっけない内容となっている。しかし、この決定が明治以降の三峰神社の経済基盤を確保することに重要な役割を果すことになる。

 このように三峰山では困難な判断はあったものの比較的穏やかな形で神仏分離がなされ、習俗性の強い「オオカミ信仰」を中心として、その宗教機能を生き残ことができた要因は大きく3つほどあるのではないだろうか。

 一つ目としては、江戸期に秩父郡は幕府領や旗本領が中心で求心力のある有力藩の支配下になかったことが挙げられる。例えば、立山のように加賀藩(富山藩)の強力な寺社支配体制下にあり、幕末においては早くから神仏混淆に否定的であったので、明治維新以後の新しい体制下においても厳しい神仏分離の裁断が行われたこととは対照的である。

 二つ目としては、明治の新体制下における秩父郡の行政機関管轄は当初岩鼻県に属していたものの、1871(明治4)年には入間県に、1873(明治6)年には熊谷県、1876(明治9)年に埼玉県に移行されるほど変転が激しく、神仏分離の一貫した厳しい指導が必ずしも行われなかったこともあげられるよう。また、行政内部にも郡内おいても過激で強力な国学者が現れなかったこともあろう。これは山形の羽黒山などとの大きな違いでもあった。

 三つ目としては、これが最大の要因であると考えられるが「オオカミ信仰」を中心とする宗教活動によって収入基盤が比較的しっかりしていたことによると指摘できる。修験宗が廃止される前年の1871(明治4)年の段階で観音院は「修験一途」を取り下げ廃寺することにしたが、それは「オオカミ信仰の神札」(眷属札)配布が神社側への継承が認められたことによって、神社経営の重要な収入基盤が確保できる見通しがったからだといといえよう。

 また、三峰信仰の信者は山間地域の信州、甲州が多かったが、人口集積地である江戸、関東にも講が組織され、寄進や参詣客などによる経済的な支えも大きな要因と言って良い。桜井徳太郎の試算では、嘉永安政頃には江戸市中で4000枚ほどの神札が配布されていたと言われ、登拝者数も1854(安政1)年に9236人、1868(明治元)年12573人、1930(昭和5)28710人と神仏分離とは関係なく増え続けている。1948(昭和23年)においても長野県や関東、東京で講中数は4800あり、17万人を超える信徒がいたという(最近の参拝客数は50万人前後)。

 この神札配布により、三峰神社の財政基盤が堅固であることは、国から郷社あるいは村社の指定を受けるのにあたっての1872(明治5)年8月の入間県への申し出にも表れている。その申し出は、三峰神社(「三峰大明神」)は新・古大滝村など4ヶ村の総鎮守となっているものの、郷社や村社に指定されても氏子4ヶ村として「田方一切無之、深山険阻極ミ辺鄙之土地柄ニ而、窮民多く難渋」しているため、社祠官の給料を支払えないことを心配しているとしたうえで、神社側としては無給で勤めても良いとしたものである。それができる理由として挙げているのが当社は「神徳霊顕も有之故、諸人参詣繁仕格別活計之差支も無」いので、郷社の祠官を申し付けられた場合は無給で勤めることができるのだとしている。結局、この申し出を受ける形で、同社は郷社に指定され、1883(明治16)年には県社に昇格している。

 このようにしっかりとした経営基盤があったため、神仏習合的な眷属信仰で土俗的な信仰が神社として認められたことによって、神社化することに大きな障害はなかったうえ、とくに廃仏毀釈的な破壊を行うこともなかったのだろう。

 このため、三峰神社の神仏分離への対処方により、仏像仏具、文献史料の散逸や一部の建造物の破壊を防げることができたともいえよう。いまも境内や、その境内にある博物館などでこれらを拝観することが可能であり、貴重な文献史料も多くのもが整理編纂され、インターネットなどで閲覧することもできるようになっている。

 神仏分離の荒波を乗り越えてきた神社関係者の努力・尽力により、単なる観光としての神社参詣だけではなく、山岳信仰や山間地の文化、歴史への理解を深める機会を提供してくれる。今後もさらにこれを深めて、秩父の日帰り型、通過型観光からの脱皮に寄与することを期待したい。

参考文献・引用文献

幸田露伴「知々夫紀行 山の旅 明治・大正篇」岩波文庫(青空文庫から引用)

「新編武蔵国風土記稿」巻之二百六十五 秩父郡巻十六之巻二十 国立公文書館(52/64)

「秩父志」埼玉叢書 第一1929年 国立国会図書館デジタルコレクション123/286 https://dl.ndl.go.jp/pid/1877328/1/123

「三峰山大縁起」埼玉叢書 第3 新訂増補1970年 国立国会図書館デジタルコレクション 50/296 https://dl.ndl.go.jp/pid/9640837/1/50

「武州秩父三峰山案内」明治40年17/29 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/764407/1/17

「三峯山観音院記録下書」三峯神社史料集 第1巻 三峰神社社務所 1984年 国立国会図書館デジタルコレクション25/197 https://dl.ndl.go.jp/pid/12264591/1/25

三木一彦「秩父地域における三峰信仰の展開-木材生産との関連を中心に」地理学評論69A-12 921-941 1996年 https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj1984a/69/12/69_12_921/_pdf/-char/ja

三木一彦「江戸における三峰信仰の展開とその社会的背景」人文地理第53巻第1号2001年 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/53/1/53_1_1/_pdf/-char/ja

桜井徳太郎「講集団成立過程の研究」吉川弘文館 1962年 286/335 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9544134/1/286

「明治五年御用留抜書」など 三峯神社史料集 第4巻 1989年 三峰神社社務所162・169・212/217 国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/12267603/1/212

「明治維新神仏分離史料 続編 巻上」昭和3年 119/599 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1178624/1/119

「明治維新神仏分離史料 巻下」昭和2年 281/621 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1178600/1/279

 

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