吉野神宮
吉野神宮
吉野神宮
吉野神宮
後醍醐天皇陵(如意輪寺境内に隣接)
如意輪寺
吉野山参詣路
勝手神社
南朝吉野宮趾
吉水神社鳥居
吉水神社拝殿
吉水神社書院
蔵王堂仁王門
吉野山蔵王堂
〇吉野山の神仏分離の今①
大阪から吉野に向かう近鉄電車は、奈良盆地の南端で吉野川にぶつかり、北岸をしばらく並走したあと、上市で吉野川を渡り、山が迫ってくると「吉野神宮駅」である。終点の「吉野駅」の一つ手前で、吉野山の山上には、「吉野駅」からロープウエイに乗車することになる。
「吉野神宮駅」というのであるから、「吉野神宮」の最寄り駅ではあるが、ここから歩くとなると、1.3㎞ほどの道のりで、結構な坂道を登ることになる。吉野神宮は鬱蒼たる樹林に覆われた、吉野山の北端にある丈六平にある。境内は広く、整備が行き届いているが、社殿は、荘厳というより、簡素で清浄さがあると言った方が適切であろう。主祭神は後醍醐天皇で、吉野は南朝があった場所でもあるから、この地に後醍醐天皇を祀った神社があるのは、違和感はないものの、なぜ、吉野山の山上にないのか、あるいは、山上にある山岳信仰がらみの神社仏閣とのつながりどうなっているのか、疑問には思う。
そのひとつの答えが、この神社の創建は廃仏毀釈運動が一時の熱から冷め、神仏分離政策の落としどころも見え始めた1889(明治22)年と近代に入ってからのものだということに関係がありそうだ。そこで、1939(昭和14)年編纂の「吉野神宮誌」で創建の趣旨と経緯をみてみたい。
なぜ、明治中期になって、明治天皇のお声掛かりで南朝の頭目、後醍醐天皇の神社を祀ることになったのだろうか?「神宮誌」では、その趣旨を「明治二十二年には憲法を御制定になり、我が國萬古不易の鴻寶を宣布」し、さらに「橿原宮址に橿原神宮」を創建し、そのうえで吉野宮の創立の旨を出したというのだ。これが意味するところは、近代国家としての憲法を発布するとともに、近代的君主制の権威付けとして、神武天皇と後醍醐天皇の親政にならい、明治天皇をそれに列するべき措置として、この2神宮の創建が必要だったのだろう。
それでは、なぜ、この地が選ばれたかというと、「神宮誌」では「社頭に立つて西の方を望みますれば、金剛、葛城の山容遥かに巍然として天空に聳え、東には高みの嶮峻峙ち、後には吉野の山々を背ひ、前には吉野川の清流が東から流れて居り、地勢高爽にして花木の美、山川の清、その風光を加え景勝佳絶」の地だからだと説明をしている。もちろん、吉野山の北端で吉野川に切り取られた台上にあるのだから、このような地勢的評価を加えることはできるだろう。しかし、もう少し山に入れば、吉野山の霊域が広がり雄大な眺望もあって、なおかつ後醍醐天皇の行宮所も御陵もあるのだから、どうみても、門前のような場所に鎮座させる必要があったのだろうか、と、疑問に思ってしまう。
「神宮誌」を読み進めると、このあたりの事情も垣間見える。
創建の経緯は、山上の中千本にある後醍醐天皇の行宮所でもあり、御陵も遠望できる金峰山寺の院坊であった「吉水院」が、神仏分離政策によって、祭神を後醍醐天皇として「後醍醐天皇社」を祀ることが許され、仏教寺院を廃し、1875(明治8)年には「吉水神社」を社号とする神社となり、村社に格付けされた。しかし、「神宮誌」によると、「中興の英主後醍醐天皇を奉祀する神社としては、吉水神社はその社格が余りに低いのを畏み、地方民一同社格昇進」を望んだという。
これと政府側から「吉野神宮」創立構想が出てきたことにより、新社殿の宮域の選定が必要になったが、「現吉水神社の神域に、又實城寺(吉水院の前身)址にとの儀もあった」ものの、「何れもその神域の狭少と其他の支障」があったため、1889(明治22)年にとりあえず吉水神社を仮殿として官幣中社吉野宮が創立されたとしている。そして1892(明治25)年に現在地に社殿が竣工されると遷座し、1901(明治34)年に官幣大社となって落着した。さらに1918(大正7)年に現在の「吉野神宮」の社号となった。なお、社殿は1932(昭和7)年に現在のものに建て替えられている。
確かに社格の問題があったことと、吉水神社は山上にあるため、官幣大社の社格の神社を設けるには、広い宮域はとれず、なおかつ、立地的にも吉野山の尾根筋にある参詣道より北に一段下がる場所になってしまうことから、適切ではないとの判断が働くのは理解できる。「其他の支障」は、よくわからないが、じつは、吉水院が「神社」となった1875(明治8)年から吉野神宮の創建の1889年(明治22)年の間に、山上における神仏分離政策の揺り戻しがあったのも事実だ。つまり、1875(明治8)年に、一旦、廃寺となった金峰山寺の院坊が明治12、13年頃に次々に寺院として復活しているのだ。
そして中心で吉野信仰のシンボルである蔵王堂も、1886(明治19)年に復旧しているのだ。すなわち、山上は、間違いなく仏教系施設が復活し、「蔵王権現」も拝することが可能になった。こうした山上の状況からみると、その権威を高めるためにも吉野神宮を山上から少し離れ、宮域を十分に確保できる吉野川を望む丈六平に構えたとも考えられるだろう。
こうした、神仏分離政策の揺り戻しの過程と現在に受け継がれた山上の文化遺産、振興拠点については、ロープウエイで山上駅から参詣道を辿りながら見てみたい。
近鉄吉野駅前から乗ったロープウエイを山上駅で降りたら、そこが下千本といわれるところで、ここから吉野山の中心寺院である蔵王堂(金峯山寺)までは上り坂の参詣路を15分ほど歩くことになる。参詣路の両脇には、土産物屋、地元の産物を扱う店がならんでいるが、この尾根筋は意外と痩せていて、左右とも店の裏手は、沢に落ち込んでいる。
途中、黒門、銅の鳥居(かねのとりい)、そして仁王門と続き、まさに神仏混淆の参詣道なのだ。黒門は、かつて金峯山寺の全盛期には100の寺坊があったと言われる寺域の総門に当たるという。
また、銅の鳥居は吉野山の奥、大峯山上(大峰山寺)に詣でるまでの間にある四門のうち最初の鳥居型の門で発心門(ほっしんもん)と称され、北向きに立つ。現在の門は室町期に建造されたとされ、国の重要文化財に指定されている。仁王門は蔵王堂の大和盆方面から来る参詣者にとっては正門にあたり、棟高20m以上も巨大な門である。南北朝の建立と伝えられ国宝に指定されており、同時期に造仏されたという高さ5
mほどの阿吽の仁王像が二躰収められている。
この南側の高台にあるのが、吉野山の信仰のコアとなる金剛蔵王大権現三躰を安置している金峯山寺蔵王堂だ。この三躰の蔵王大権現は、普段は拝観できないが、年に数回行われる特別開帳などで間近にすることができる。蔵王堂堂内の内陣厨子内の三間にそれぞれ一躰ずつ安置され、中尊が7m、左右の像もそれぞれ5mを超える巨大な立像である。
この蔵王堂と蔵王大権現について1772(明和9)年に書かれた本居宣長の「菅笠日記」では「さて蔵王堂にまうづ(詣ず)。御とばり(帳)かかげさせて見奉れば、いともいとも大きなる御像(みかた)の、いか(怒)れる顔して、かた御足ささげて、いみじうおそろしきさまして立ち給へる、三はしら(柱)おは(御座)す。ただ同じ御やう(様)にてけじめみえたはず。堂はみなみむき(南向き)にて、たても横も十丈(30m)あまりありとぞ。作りざまいとふるく見ゆ」と本居宣長の思想は神仏習合の否定論ではあるのの、蔵王大権現の立像の大きさと憤怒の表情の迫真性を、こだわりなく率直に書き記している。特別開帳の際に、足下まで近づきこの三躰と間近に見上げ、対峙すると、確かにその威厳ある形相と青黒い巨大な姿に圧倒され、自らの心を見透かされたような恐ろしさを感じさせられるような迫力があることは確かだ。
そこで、はたと考え込んでしまう。神仏分離政策では山岳信仰とくに神仏習合で成り立っている修験道は全面排除の方針であり、低俗だとした民間信仰と同様に「権現」「明神」信仰も全否定をしようとしていた。そのため、1875(明治8)年に金峯山寺の寺坊の多くは廃寺となり、僧侶は復飾させられている。この蔵王堂自体も金峯神社の口の宮という体裁を取らされ、神社化されたのにも関わらず、また、分離令で否定されたはずの「権現」の頭目ともいれるこの巨大な立像がなぜのこされたのだろうか?しかしも1886(明治19)年には、蔵王堂自体も旧に復し、寺院の体裁に戻っている。
なぜ、神仏分離の嵐のなか、「権現」は残ったのか、また寺院として復活できたのだろうか、少し探ってみたい。
「明治維新神仏分離史料」には、金峯山寺の訴訟に関わりをもち、明治から昭和にかけて活躍した弁護士播磨辰次郎の「龍城雑稿」や裁判所に提出した裁判資料で金峯山寺あるいは吉野山における神仏分離の過程を詳しく記録しているので、これをベースに簡単に整理するとしてみよう。
1868(慶応4)年(明治改元は同年9月)3月に「中古以来某権現或ハ牛頭天王の類、其外佛語ヲ以テ神號ニ相称候神社不少候、何レモ其神社の由緒委細ニ書付早々可申出候事」といわゆる「神仏分離令」が出され、金峯山寺とその寺坊は、5月にはそれに対応して、当局に口上書を提出し、蔵王権現の神号を改めることや僧侶の復飾に特段の配慮を願い出ている。しかし、6月に至り、所定通り、実施する旨の指示が当局から出されたが、金峯山寺側は、抵抗し引き延ばしを図った。
さらに山上にある三所明神(金峯神社、水分神社、山口神社⦅勝手神社⦆)から社地などの引き渡しを求められることにもなったものの、これには勝訴したが、1873(明治6)年に至り、ついに国から「白鳳以前ニ復古致シ。地主神金精明神ヲ以テ本社ト定、金ノ峰ノ神社ト可称、尤蔵王堂并仏具仏躰等悉皆取除可致事」という最終通告がなされた。要するに現在の金峯神社を本宮として、蔵王堂を口宮、大峯山の蔵王堂を奥宮にせよということであった。
吉野山全山は、もともとは山岳信仰のなかで金峯・勝手・水分(子守)などの神域ではあったものの、神仏習合により、修験道として大きく発展してきた。しかし、この結果、金峯山(青が峰)あるいは吉野山の地主神に過ぎなかった金峯神社を本社とし、蔵王堂は口宮として位置づけ、仏像と仏具は除去せよと命令されたのだ。ただ、蔵王堂の本尊の巨大な蔵王権現立像については、大きすぎて動かすことが出来なかったため、前方に幕をはり、前面に鏡と幣束を置き体裁を整えざるをえなかった。また、大峰山の山上の蔵王堂については奥宮としため、新たに行者堂を設け、仏像仏具を移し体裁を作った。
国側はこのような強硬措置をとったが、じつは、国側と直接担当する奈良県側とも意見の齟齬があった。播磨辰次郎の「龍城雑稿」では「中央政府と地方庁との間に意見の扜格(相違)を生じ押問答が数年に亘りて決定をみることができぬ」状態が続いたとし、国の実態を理解しない高圧的専制的な姿勢を批判している。
ここで、もっとも問題になったのは、国(教部省)が蔵王権現信仰の形成過程を無視して吉野山の地主神でしかない金峯神社(水分神社、山口神社も含め)に全山を神社に差し替えしようとしたことであろう。ある意味主客を逆転させようとしたことである。県側は、もちろん宗教論争にも関心があるものの、おそらく、最大の課題は信徒問題であったのではないだろうか。それがひいては地元経済にも悪影響を与えることも懸念したのだろう。
1890(明治23)年当時「金峯山寺ノ寺中東南院ヲ先達トスル信徒一万三千人、同上喜蔵院信徒一万五千人同上桜本坊信徒一万五千人ト云フ如ク、其一斑以テ全豹ヲ知ルべク、総計数十万人二上ル」としており、神仏分離によってこの信者、行者が「登山せぬ、ソレでは吉野が行き立たぬということなった」という。たとえ来訪したとしても、相変わらず、蔵王堂では蔵王権現に、大峰山では行者堂に参詣するものが多かったという。結局、信仰は上からは変えられず、実利も伴わなかったことから、吉野山は、早くに急に復する結果になったということだろう。
こうした時代の流れからすれば、吉野神宮の設置にあたっては、山上の中核にはなりえないことから、吉野山の北端の丈六平に設けざるを得なかったともいえよう。
復旧した蔵王堂は、現在も蔵王信仰の中心であるが、この信仰がここまで根強いのは、その信仰の歴史の古さも起因しているだろう。吉野山は7世紀後半に役行者が古くから山岳信仰の対象であった大峰山を修験場として開き、吉野山に金峯山寺を創建したと伝えられる。以来、大峯信仰登山の根拠地となり、「大峯奥駈道」と呼ばれる紀州の「熊野三山」とを結ぶ修験の道の北の出発点ともなってきた。
金峯山寺の創建前の飛鳥時代や創建後の奈良時代においても霊地として天皇の巡幸などがあったが、その後一時衰退期に入り平安前期に至って僧聖宝などにより再興され、再び皇室・貴族の参詣が増え、多くの物語の舞台になり、詩歌に詠まれた。鎌倉時代の初めには兄源頼朝に追われた義経がこの地に一時身を寄せ、さらには南北朝時代には南朝の本拠地となるなど、たびたび歴史の重要な舞台ともなってきた。さらに江戸時代には、吉野山は修験道の中心地として、またサクラの名所としても隆盛し、修験者や信者だけではなく遊覧客も数多く訪れたところである。
次回は、さらに吉野山を登り、水分神社、金峯神社の地主神たちと吉野山の山岳信仰について考えてみたい。
参考文献・引用文献
「吉野神宮誌」昭和14年 19~27/75 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1117564/1/19
畑中章宏. 廃仏毀釈 ――寺院・仏像破壊の真実 (ちくま新書) (p.141). 筑摩書房. Kindle 版.」
「吉野神宮史にみる近代の吉野」髙野裕基
明治維新と修験道 鈴木正崇
「明治維新神仏分離史料 続編 巻下」 昭和4年 国立国会図書館デジタルコレクション45/629 https://dl.ndl.go.jp/pid/1178653/1/45
「明治維新神仏分離史料 巻下」昭和2年 国立国会図書館デジタルコレクション62~198/621 https://dl.ndl.go.jp/pid/1178600/1/62