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​特集 7月号​ 国分寺を訪ねる(Ⅲ)
〇都市化のなかの国分寺①

​ 国分寺跡のなかには、周辺を住宅地などに囲まれ、その保存と周囲との調和に腐心しているところがある。そのために、保存、修景、公園化が必ずしも十全とはいかないところも見受けられる。なかでも武蔵、下総の国分寺跡はまさにその都市化がもっとも進んでいることもあって、史跡の保存とその活用に向け試行錯誤をしている状況がよくわかる。

 武蔵国分寺跡は、JR中央線の西国分寺駅の東南にある都立武蔵国分寺公園の南側に遺されている。公園は崖上から傾斜地を下り国分寺跡の裏手の傾斜地を雑木林で覆っている。その雑木林のなか、公園の最南端には国分寺薬師堂が建っている。この傾斜地は国分寺崖線とよばれ、武蔵野台地を古多摩川が削り取って形成した崖を指し、多摩地区から都内の大田区まで30kmほど連なっている。台地を削り取ったあとのためこの辺りでは、湧水が多く、崖下には湧水が多くみられ、そこから派生するせせらぎが多く見られる。

 また、国分寺跡の西側には東山道の支路、武蔵路が北上していたとみられ、この道を挟んだ西側には国分寺尼寺の遺跡が遺されている。府中にある国衙跡からはこの東山道で北へ3㎞ほどのところにあり、交通の利便性があり、湧水の豊富な地を国分寺の勝地として選んだと思われる。なお、現在も崖線際には武蔵国分寺の寺号を受け継ぐ寺院があるが、同寺は新田義貞が再建したという崖上の薬師堂を中心に江戸期中期以降に隆盛したといわれ、古代の国分寺との連続性は不詳である。

 国分寺跡は、現在、基壇の復元、整備が行われ、遺跡公園となっており、一部では発掘調査が継続されている。公園内には多少のガイド板があるのみだが、現在の武蔵国分寺から「お鷹の道」を少し入ったところに「武蔵国分寺跡資料館」があり、発掘調査の成果などを展示している。ただ、周辺は崖線のある北側を除けば、住宅地が迫っており、公園機能としても中途半端な整備だといってよい。

 なお、かつては東山道を挟んであったとみられる国分尼寺跡は、府中街道(東山道の道筋)とJR武歳野線によって隔てられ、歴史公園とは称しているが、近隣公園といった風情の公園のなかに、金堂、講堂の基壇と発掘された遺構の一部を観察できる施設があるのみである。

 武蔵国分寺の創建については、756(天平勝宝8)年に「潅頂幡一具、道塲幡四十九首、緋の綱二條頒 頒下」された26ヵ国に含まれていないことから、その時点ではまだ伽藍の整備や経営体制が確立されていなかったとみられるが、発掘調査によって多数出土した同寺の古瓦に新羅郡の名がないことから758(天平宝字2)年以前には造営されたと考えられている。また、「宜しく来年(757年)の忌日(聖武天皇の命日)までに必ず造り了らしむべし。其の仏殿に兼ねて造り備へしむ。如し仏像並に殿已に造り畢(お)ふること有らば、亦塔を造りて忌日に会はしめよ」との勅もあるため、おそらくこの指示通り757年には一定程度、堂宇伽藍が造立され、寺院運営が整備されたとみてよいだろう。

 発掘調査によると、金堂の基壇の規模は間口約45m、奥行き約26mで、そのうえに間口36m、奥行き17mほどの建物があったとみられている。金堂の奥にあった講堂はそれより一回り小さいものだったが、それでも壮大な伽藍だったことには違いない。また、七重塔は基壇が約18m、そのうえに約10m四方、高さ約60mの塔であったと推定されている。

 なお、七重塔については、「続日本後紀」の承和12年3月23日(乙巳)の条に「武蔵国言。国分寺七層塔一基。以承和2年為神火所焼。于今未搆立也。前男衾郡大領外従八位上壬生吉忠福正申云。奉為聖朝欲造彼塔。望請言上。殊蒙処分者。依請許之。」とする記載がみられ、創建時の塔は、835(承和2)年に落雷で焼失、再建されたとされたことがわかる。ただ、境内には、もう1カ所塔跡が発見されており、どちらで再建されたかは、まだ、確定されていない。

 武蔵国分寺の消長について、藤原実資の「小右記」の1023(治安3)年4月23日(辰丙)の条に「右中弁章信朝臣持来前日所下給之勘宣 武蔵国申修造国分寺」との記述があり、武蔵国分寺の修造が認められているので、この時点では、一定の機能が維持されていることがわかる。しかし、発掘調査ではこの時期前後から、境内地に竪穴式住居があったとされ、衰退期に入っていたと推測されている。

また、吾妻鏡によれば、1186(文治2)年5月小29日丙午の条には「且於東海道者、仰守護人等、被注其國惣社并國分寺破壞及同靈(尼)寺顛倒事等、是重被經奏聞、随事躰爲被加修造也」とあり、さらに1194(建久5)年11月小27日乙夘の条にも「近國一宮并國分寺可修復破壞之旨。被仰下」などの記述があり、鎌倉期前半には、「東海道」及び「近国」には武蔵国が含まれているので、武蔵国分寺も修造の対象であったとされよう。

  衰退が決定的になったのは、1333(元弘3)年の分倍河原の合戦において焼失したことのようだ。これについて現在の武蔵国分寺の縁起、「医王山縁起」では分倍河原の合戦の際に新田義貞の軍が「鎌倉へ打越給フ時、当国分倍合戦之砌、兵火ノ為ニ古来之諸堂悉ク烏有トナリシガ、建武之砌再栄之為ニ、義貞朝臣ヨリ修造料三百金寄進」されたと、伽藍堂宇の焼失と翌年に造営されたことを伝えている。それが国分寺跡の裏手の丘にある薬師堂だとされ、それを基にして、現在の武蔵国分寺が再興されたものだとしている。

 しかし、寺域は大幅に縮小され、江戸後期の「江戸名所図会」では、薬師堂や現在の武蔵国分寺は、現在地と思われる場所に描かれているが、国分寺跡の大半は耕作地や野原になっており、大きな礎石のみが書き込まれている。なお、古瓦の出土があったことも記載されており、礎石とともに古代中世の国分寺の遺跡としての認識はなされていた。

 この史跡については、すでに江戸時代から着目されており、前述した「江戸名所図会」にも史跡として紹介されており、明治から大正期には学術調査も行われ、1922(大正11)年には国史跡に指定されている。その後も断続的、継続的調査も行われたが、1974(昭和49)年には「武蔵国分寺保存の基本方針」が定められ、これに基づき、発掘調査なども進められた。

 その基本方針では「○中心建物のみでなく,付属雑舎群や周辺集落を含め,広域学術調査によって武蔵国分寺跡を解明し,保存計画策定のための基礎資料とする。○発掘調査の成果を遺跡保存のための整備に結びつける。○遺跡の整備(史跡公園化)を推進し,かつ出土品の収蔵・展示・公開のための資料館を建設する」とし、基本的には、その後の保存管理計画でもこれを踏襲している。

 また、国分寺尼寺と周辺でも、宅地開発が進んだことをうけ、1960年代後半からは発掘調査が行われ、2003(平成15)年に至り、寺域の大半を歴史公園として整備している。さらに2010(平成 22) 年には,国指定史跡武蔵国分寺跡に附として東山道の支道である武蔵路が追加指定され,官道の一部が歴史公園と開園している。

 さらに2012(平成24)年には保存管理計画が修正され、「武蔵国分寺跡の北側崖線縁辺部に残る自然環境,歴史的環境について,保全の危機に至った場合には積極的な保護の措置をとること」や「出土文化財および調査関連資料は,災害に強い恒久的な施設において、史跡と一体的に保存,活用」することなどこの史跡の保存管理と活用をより積極的な対応を行うことが定められている。そして整備計画の基本として「国分寺崖線の緑を借景とし,壮大な武蔵国分寺の伽藍をイメージした史跡公園の整備を行う」として市民に親しみをもって活用される公園を目指そうとしている。

 現地をみてみると、以上のように調査研究及び保存計画は一定の進捗はみているものの、整備、活用計画については、まだ、十分な状況には進んでいないようだ。最大の要因は用地確保ということだろう。周辺は宅地開発が進み、整備地域の公有化率74%(2023年段階)にとどまっていることだろう。また、国分寺関連資料を展示紹介する郷土博物館構想も財政面などの課題から実現できていない。

 これらの課題は一朝一夕に解決できないものであるので、長期的な取り組みはわかるが、現状の国分寺跡や歴史公園として整備されたという国分尼寺にしても、あまりにも貧弱な整備状況だと言わざるを得ない。例えば、国分寺跡では、たしかに発掘調査中の場所もあるものの、ベンチなどの休憩場所や遊歩道、トイレの整備、系統だった案内板の不足、現状で行っている出土品の展示場所への誘導ガイド、公道との境の生垣となど、大きな予算がなくても対応できるものも多いのではないだろうか。

 尼寺跡についても、住宅地が迫り、脇をJR武蔵野線が走るまさに都市郊外の景観に囲まれ、さらには、公園を横切る形で公道が走っている。大きな構造物は必要がないので、この公道の経路変更や植栽の工夫などにより、修景を図り、利用しやすい公園にする必要があろう。博物館についても、現在、なぜか、武蔵国分寺跡資料館と国分寺市文化財資料展示室に分かれており、しかもともに極めて小規模な展示となっている。大きな郷土博物館建設もよいが、すくなくともこれらを集約する場所を確保すべきだろう。近くには最近建設された巨大な市役所もあるのに残念でならない。

 武蔵国分寺跡は都市化された中で、江戸時代からその遺構が確認された貴重な存在で、これまで研究者や関係者の尽力によって一定の保存管理はなされたことを評価できるが、整備については、現状の課題を踏まえつつ、細かな施策の積み重ねを着実に進める必要があるのではないだろうか。そのことによって市民の関心を高め、活用が促進されるだろう。また、そのことが市外からの訪問客にとって有益だと思う。

参考文献・引用文献

「昭島市史 二武蔵国分寺の創建」

https://adeac.jp/akishima-arch/text-list/d400030/ht050170

「武蔵国分寺跡資料館解説シートNo.3 武蔵国分寺関連年表」

https://www.city.kokubunji.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/239/nenpyou2016.pdf

「国史大系:六国史 続日本後紀」大正2年 経済雑誌社 213/335 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/950690/1/213

「史料大成 第2 小右記」昭和10年 内外書籍 180/220 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1236605/1/180

「吾妻鏡 吉川本 第1-3 第1」1968年 名著刊行会 109・236/279 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2973906/1/109

「東京市史稿 宗教篇第一(武蔵国分寺・国分尼寺:国分寺縁起略)」昭和7年 国立国会図書館デジタルコレクション 81/461

https://dl.ndl.go.jp/pid/1915623/1/81

国分寺市「国指定史跡 武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡 保存管理計画(第2次)」

https://www.city.kokubunji.tokyo.jp/shisei/shiryou/bunka/1003381.html

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