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​特集 2月号​   日本の橋(Ⅲ)

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​静岡県島田市蓬莱橋

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​静岡県島田市蓬莱橋

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​静岡県島田市蓬莱橋

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​静岡県島田市蓬莱橋

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​山口県岩国市錦帯橋

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​山口県岩国市錦帯橋

350019_2-6周辺の都市化が進む錦帯橋F11A8512.JPG

​山口県岩国市錦帯橋と錦川・市街

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​山口県岩国市錦帯橋

F11A8603-1山口県岩国市錦帯橋から岩国城を望む.JPG

(5)蓬莱橋(大井川)

 静岡県の中部を流れる大井川は、南アルプスを源流部としており、上流部ではリニアモーターの工事での環境や水量への影響についてひと悶着がおきているところだ。その下流部、島田市の中心部の西側には、江戸時代には、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」という「大井川の川越え」があり、東海道の最大の難所のひとつであった。その渡しを管理する川会所もあり、現在はその場所にそれなりの街並みが再現されている。かつては、江戸防衛のためとか、あるいは、急流のために技術的に橋を造れなかったともいわれるが、とにかくも架橋はなされずに川越え人足によって人も物も川を渡されていた。

 もちろん、現在は新幹線、国道など様々な橋が架かっているが、この川会所跡から3㎞ほど下流には、全長897.4m、通行幅2.4mの木造歩道橋の蓬莱橋も架かっている。この橋は、1997(平成9)年には「世界一の長さの木造歩道橋」としてギネスに認定されたほどで川幅が広い大井川の下流部を延々と横断する。

 この橋は、現在は観光が主だが、架橋されたもともとの理由がはなはだ興味深い。

 1869年(明治2)年に江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜が、徳川家康も隠居したという静岡へ移住することになった。多くの旧幕臣が付き従ってきたものの、当然ながら食録を失うことになり、その生計をどうたてるかが大きな問題となった。その解決策のひとつとして、大井川右岸の牧之原での茶畑造成のための開拓を行うことになった。

 「静岡県茶業史」によると「藩主徳川家達公(慶喜の次の徳川家宗家)に牧野原開墾を願ひ出て許されて開墾方となり、中条景昭、大草高重其他十八名を幹事となし、二百二十五戸此處に移住」し、徳川家や新政府の援助のもと「專ら開墾に従事」したという。さらに、大井川での渡船開始に伴い、「川越人足百餘戸糊口を失して官に哀願」し旧幕臣たちの開墾地の南側に入植した。彼らには川越人足救助金が与えられ、茶の栽培を始めたという。これにより「年に弛張ありしも、牧野原茶園は年を逐ふて拓け、漸次來住者の數を加ふる」に至ったとも記されている。

 1878(明治11)年には、当時茶葉の輸出も盛んとなり日本の有数の大産地となった牧之原には明治天皇の巡幸もあった。しかし、それまでの労苦は大変なものだったようで、 この事業の後押しをした勝海舟は回顧談「海舟座談」で、金谷の開墾地に「茶を植へた所が、大相よくできた…中略…横濱へもつて來て、貿易をするようになった。實に赳々たる武夫が白髪になって、日にやけて居るのなど、夫は實に哀れなものだ」と、旧幕臣が開墾、開拓に携わった労苦を思いやっている。

 さて、ここで蓬莱橋の話に戻るのだが、この開拓によって、まだ、何もない牧之原台地と島田の市街との往来を確保する必要が生じ、1879(明治12)年に地元の有志達が出資し、この橋が築造されたことになった。しかし、急流の大井川に架かる蓬莱橋は、つねに流失損壊を繰り返し、そのたびに復旧するまでの間は本流にロープを渡し、人や物を運んでいたという。

 1937(昭和12)年に崩落した際に、それまで地元有志の出資し、この橋を維持保全してきた「蓬莱橋仲間出資組合」は財政難から解散せざるを得なくなり、なかなか復旧できず仮橋状態がつづくことになった。このため、改めて1939(昭和14)年に「蓬莱橋利用組合」が結成されて、復旧したものの、その後も、蓬莱橋は水害による流失損壊が続き、運営に困難をきわめたため、第二次世界大戦後、公的支援をえられるようになった。1965(昭和40)年からは「蓬莱橋土地改良区」が生まれ、現在も同橋の維持管理にあたっている。地元の住民の尽力により、農事での必要性もあるものの、困難な状況も乗り越えて、この橋は維持されてきた。

 その後も、水害による損傷は続いたが橋脚のコンクリート化や杭の長さ、橋の高さの変更などによって、被災リスクを下げてきている。しかし、急流のなかの橋であるが故に、異常気象が続くなかでは、今後もこれを維持していく努力は大変なものであろう。いまや、農事や地元民が利用することもあるが、島田の重要な観光資源として、どのように活用していくか、その維持管理の在り方も問われ続けるだろう。

この橋を渡ってみると、大井川の流れを間近にみることができ、よく晴れた日には、橋の途中で富士山を眺望できるポイントもあり、2003(平成15)年からは日没とともに緑色の光が橋の輪郭を浮かび上がらせる照明が設置され、幻想的な光景をみせる。橋を渡り切り、牧ノ原台地へと登り切れば、時代の流れに翻弄されながらも旧幕臣や川越人足などが労苦を積み重ねて造成した茶畑へと導かれる。見渡す限りの茶畑が大きくうねる丘陵を覆い、場所によってはその先に雄大な富士が姿をみせている。

 いまや、この橋は景観の素晴らしさとともに先人たちの労苦を知る縁となる記念碑的存在といってもよく、まさに近現代の物語として継承すべきだろう。現在この橋の渡橋は有料だが、観光として訪れる我々も、この橋の管理維持、修復について協力を惜しむべくではないだろう。

6)錦帯橋(錦川)

 日本においてこの橋ほど名が知られた橋はないだろう。江戸時代から、すでに全国的な名所として知られ、広重の「六十余州名所図会 周防岩国錦帯橋」をはじめ、多くの浮世絵の題材になり、山陽路を行く旅人とは必ずと言って良いほど、立ち寄ったところだという。たとえば、江戸後期の文人大田南畝(蜀山人)も長崎に帰り道にこの錦帯橋に立ち寄り「橋臺(台)の石をくみ(組)たる所かど(角)ありて、十露盤(そろばん)のたまに似たれば、俗にそろばん橋ともいへり…中略…河原におりたちて橋の下より仰ぎ見れば、橋の上の人馬のかよう(通)さま雲のかけはし(懸け橋)かとうたが(疑)ふ」と記している。

もっとも錦帯橋の名は、当初は「岩国大橋」と称されたともいわれ、その後も「凌雲橋」、「五竜橋」、「帯雲橋」、「算盤橋」など、複数の呼称があったという。「錦帯橋」という呼び名が一般的になったのは、安永年間(1772~1780)とされ、公式名称として認定されたのは、明治維新後であった。

 この橋が造られることになったのは、 江戸時代を通じこの地を支配した吉川家が慶長5(1600)年に入部したことに始まる。初代藩主吉川広家は錦川がちょうど巻き付くように流れる城山の山上に築城し、右岸の横山地区に居館・家臣団の屋敷を設け、左岸の岩国地区に町人町を整備することにした。2代藩主広正はこの横山地区と町人町の間の錦川に架橋を試みたが、地形的に大きく屈曲している錦川がたびたび氾濫し、数度にわたり流失したという。

 3代広嘉は、藩主の座に就く前から、洪水に耐え、流失しない橋をなんとか架けられないか、検討を進め、甲州の猿橋を見聞し木組みを参考にしたり、また、中国の西湖に島々を渡す石製のアーチ橋などをヒントにしたりして架橋の準備を進めた。藩主となると木造でのアーチ橋の架橋を指示し1673(延宝元)年に竣工させたが、その橋も翌年の洪水で流失の憂き目にあってしまう。

 川幅の広い錦川に架橋し、どうしても橋脚が必要となり、この流失を防ぐためには、この流失により橋脚の基礎部分の形状、構造の強度が重要となることがわかり、この部分の形状・構造に工夫を加えて、翌年に再建した。

 その後は流失したことはなく、20年ごとに各反り橋を架け替えながら架橋技術は継承された。しかし、1950(昭和25)年の台風で、276年ぶりに流失してしまったものの、架橋技術が伝承されていたため、1953(昭和28)年、正確に復元され、さらに2004(平成16)年に全面的に架け替えも行われた。現在の錦帯橋は、全長193.3m、幅5m(有効幅員4.2m)で使用部材はヒノキ、ケヤキ、マツ、ヒバ、クリ、カシという。

 錦帯橋は、 5連のアーチ型木橋で、5連橋のうち、両端の2橋は柱橋で、中央部の3連橋が反橋、いわゆる太鼓橋となっている。橋は釘を1本も使われておらず、木と木の組み合せによって支えられ、しかも中央部の3橋の反り橋には橋脚もないが、圧力が加わるとかえって橋全体が引きしまるという特殊構造になっている。木造でこれだけ巨大なアーチの橋は世界的にも珍しい。そのため、少し離れた岸から、川の中央部に見事な3連のアーチが立ち上がり、見事な造形美を生み出している。また、河原に降りて、橋の下から橋桁を見上げるとモザイク模様のような幾何学的な連続文様の木組みが芸術的であるほど美しい。

 この橋の重要な点は、造形美・機能美はもちろんのこと、それを現代まで伝えた架橋技術の継承が途切れなく行われてきたことに価値がある。また、そのことによって、この橋の歴史的な真実性を裏付けている。ただ、今後は時代の変化によって、人的確保も含め、高度な木組みの架橋技術の継承を着実に行っていく、努力が引き続き官民にあげて必要となってくるだろう。

 こうした美しい錦帯橋であり、名橋には違いないが、景観として、少し残念なのは城山の山上にある岩国城跡の模擬天守である。たしかに、武家町と町人町をつなぐ名橋を俯瞰している天守閣が山上にあるというのは、物語性があったよいかもしれない。しかし、この物語には錦帯橋と異なり真実性に欠けるのである。

 岩国城は1608(慶長13)年に築城され、1615(元和元)年には徳川幕府の 一国一城令に引っ掛かり、取り潰ししているのだ。じつはここにも物語があり、岩国藩は萩藩からは支藩として認められるようになるのは、幕末で、それまでは、萩藩の家臣扱いである一方、参勤交代を必要とする3万石、のちに6万石の大名扱いであったという二重性がある藩だったのだ。そのため、城が認められなかったという。

 このため歴史的事実からいうと、錦帯橋と岩国城の天守閣が同時代に存在したことはなかったのだ。しかも1961(昭和36)年に本丸を復元する際に、かつて本丸があった場所から50mほど移動させ、錦帯橋から見える位置に築造したのだ。確かに観光的な新しい景観を造ろうとしたのだろうが、これは余りに歴史的真実性に欠け、折角に錦帯橋の真正な真実性を傷つけているようだと思えて仕方がない。まさに捻じ曲げた物語を作ってしまったのだ。現在の天守閣は資料館機能もあるようだが、まったく不十分なもので、麓の岩国徴古館と連携して、せめて郷土の歴史をもっと豊かに展示解説をしてほしいものだ。

 また、横山側の吉香公園を歴史公園として、もっと真実性を求めた整備を行えば、錦帯橋の価値は間違いなく、もっと高いものになると思う。物語もやはり一定の真実は重要なのだと思う。

 今回の3回シリーズで取り上げた橋は、現代に造成されたものは、角島大橋だけで、あとは一定の歴史性のある橋について、現代にどう活きているか?存在意義やそこにあるそれぞれの物語について考えてみた。

近現代の橋には、機能美・造形美しかなく、日本人独特の心情、美意識をことよせることなかなかできないし、物語も環境保全など新しい時代なりのものがこれから生まれてくるだろう。一方、古くからの橋では、現代的活用として観光資源という役割のなかで、その日本人独特の心情・美意識あるいは物語とそれを支える架橋技術を次の世代にどう伝えてのか、我々自身が考えて行かなければならないことでもある。

建設コンサルタンツ協会誌 「第87回土木遺産の香 長生きの『蓬莱橋』 本田悠稀実」

静岡県茶業組合聯合会議所 編「静岡県茶業史」大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション 

勝海舟他「海舟座談」岩波書店 昭和5年 国立国会図書館デジタルコレクション(48/116コマ) 

「錦帯橋国際シンポジウム 木造文化の粋-錦帯橋の真実性を問う-」報告書 平成20年

岩国市「錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観」

岩国市史 上」1970年 428~439/594 国立国会図書館デジタルコレクション

岩国市「名勝錦帯橋保存活用計画」令和3年

大田南畝「蜀山人全集 巻1 小春紀行」明治40年 吉川弘文館 117/278 国立国会図書館デジタルコレクション 

​山口県岩国市錦帯橋から岩国城方面を望む

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