
特集 1月号 神仏分離の爪跡(Ⅷ)
〇立山信仰と御師集落の崩壊②
立山という霊山においては、「衆徒」と称する山岳修行者たちが中心となって、立山(雄山)山頂に社を設け、芦峅寺・岩峅寺に住み着き、寺坊を整備し、さらなる広布のため、全国各地に檀那場を設け、それを中心として講を組織した。寺坊の数は時代によって変わるが、江戸時代後期には岩峅寺に24坊、芦峅寺に33坊5社人が存在したという。
こうして一定の力をもった衆徒たちは中世末期には芦峅寺を中心に当地の守護職や支配層と結びつき、この地域において影響力を発揮し始めた。一方、同地を含む新川郡は1587(天正15)年から前田家が豊臣家蔵入地として預かり、その後、加賀藩に組み込まれていった。福江充によると加賀藩は、この地域に影響力を有する衆徒集団を江戸幕府成立後も「中央の規制宗教集団との関係を持たせず、徳川幕府の本末制度にもとづく寺院支配が届かない」ように芦峅寺の一山を藩の支配体制に組み込んだという。さらに「山中ゲリラ的な要素を取りのぞくため、修験道における山中修行を抑制し」、国家安泰や前田家の無事安息を祈願する、いわば「加賀藩の公的寺院」の性格を強めたとしている。
とくに山宮である芦峅寺に対し、加賀藩は立山の山自体に関わる宗教的な権利のほとんどを認めず、公認された藩内及び藩外における廻壇配札活動に力を注がざるを得ず、「御師」の活動の中心とせざるを得ないようにした。この結果、芦峅寺の衆徒は峰入りなどの山林修行の修験集団というよりも「御師型修験」に色合いを強めることになった。しかも、一方では、里宮にあたる岩峅寺に対しては立山の山自体の宗教的権利の大半を与え、分断支配を図ったため、両衆徒間において配札活動の地域、納経帳の配布権や表記方など互いの権利、主張がぶつかり合って争論は1818(文政元)年の加賀藩による裁定まで続くことになる。
なお、立山は江戸時代には女人禁制であったため、芦峅寺には、女人救済のために「現世」と「来世」を結ぶ「布橋」が設けられ、秋の彼岸に「布橋灌頂会」が開かれていた。この「灌頂会」は、閻魔大王の前で、懺悔し、「生まれ変わり」の儀式を行うことによって、極楽浄土への道が立山に入山できない女人でも救済されるというものであった。この儀式は、神仏分離政策により廃されたが、近年、観光的な意味合いも含め復活をしている。
こうした体制の変遷はあったものの、近世末まで確立、発展してきた立山信仰、立山権現は、明治に入り、神仏分離の荒波に直面することになる。
明治に改元される直前の1868(慶應4)年3月17日と同月28日に新政府によって、いわゆる神仏判然令が出され、同年10月には神仏混淆が禁止され、修験道が否定されたことに対し、11月には早くも芦峅寺、岩峅寺の衆徒たちは、配札活動や峰別当としての役割、宿坊経営が成り立なくなり死活問題であるとして加賀藩に嘆願書を出している。
しかし、無情にも翌年3月には加賀藩から「神佛混淆之義者被廃候旨被仰渡候ニ付、立山権現之称号被廃、雄山神社与相唱、芦峅寺・岩峅寺之衆徒共不残復飾神勤被 仰付候條、双方打込可致策配候。尤佛体ハ不残取除、岩峅之方梺前立社檀者、雄山神社遙拝所与相改、本社拝殿御 建物是迄之通被建置、芦峅之方大宮・若宮両本社之外、堂等御建物取拂」と申し渡された。すなわち、神仏混淆を廃し、「立山権現」の称号も廃して「雄山神社」と号すること、衆徒は復飾して神職となること、仏像、仏具などを取り除き、岩峅寺は雄山神社遥拝所とし、本社拝殿はそのまま利用すること、芦峅寺は大宮・若宮以外の堂宇(布橋、うば堂、閻魔堂含む)を取り払うことなどが申し渡された。
これに対する経済的な処置として、雄山神社に対し、芦峅寺・岩峅寺にあった寄進地それぞれ50石が保証された。また、両寺の衆徒は神職となって、雄山神社に帰属し、芦峅寺は東社人、岩峅寺は西社人として仏教色を一掃して神勤することになった。神祭事、峰本社の管理は合同または交互に行い、登拝者の賽銭や両社人ともに認められた各地への配札活動の収益は当分に分配されるよう指示された。これにより仏教色は一掃され、芦峅寺、岩峅寺にあった貴重な仏像仏具はほとんどものが散逸することになってしまった。
しかし、その後、葬儀が仏式で行えない集落からの要望があって、社人の一部は、これから離脱した。さらには廃藩置県で寄進地などが廃止されたため、社人の多くが神職からとして勤仕できなくなり窮乏が進むこととなった。このため、旧神職たちは室堂での宿泊や登拝者の山案内で生計を立てざるを得なくなり、1874(明治7)年に至り、室堂(宿泊所)の建て替えと払い下げが認められ、やっと経済的な基盤が確保されるようになったという。このようの経緯を経ていくうちに立山信仰は往時の勢いをなくし、観光、スポーツ登山に移行していくことになった。
立山信仰への神仏分離の影響を確認するため、岩峅寺と芦峅寺の現在をしるために同地を訪ねてみた。
岩峅寺は、日本海に向け流れる常願寺川がちょうど山間から富山平野にでたところにあり、富山地方鉄道の立山線がここから常願寺川に寄り添いながら渓谷沿いを走り、終点の立山駅に向かい上っていく起点にもなっている。また、南富山方面から常願寺川を渡ってくる富山地方鉄道の不二越上滝線の終点ともなっている。いわば、立山登拝の麓の拠点とし格好な場所である。
岩峅寺の駅自体は乗換駅とは言っても、鄙びたホームと小さな駅舎があるだけのまさにローカル線の駅といった風情で、駅前に商店があるわけでもなく、寂れた街並みが少しだけ続いている。それでも案内標識に従って、閉店している商店や住宅が並ぶ小道を進むと、なにやらしめ縄などを飾る普通の住宅とは異なる雰囲気の建物が散見されるようになる。おそらく、これがかつての坊院あるいは宿坊であったのだろう。最盛期には24坊あったとされるが、いまは残念ながら、それを想像することは難しい。
岩峅寺にある雄山神社は立山山頂にある峰本社に対する前立社壇という位置づけの神社で、江戸時代は山上霊域の管理や神祭事を仕切る別当寺(立山寺)の役割を果たしていた。しかし、現在は明治の神仏分離によって、まったくといって、寺院の面影を遺すものはない。あるとすれば、神社の南、少し離れたところにある宮路仏事会館周辺に神仏分離の際に石仏群が移され、点在していることだけだ。
現在の境内は常願寺川に沿って縦長で、その中央に常願寺川を向いて拝殿があり、その奥に幣殿、本殿と建ち並んでいる。本殿は12世紀末の建造といわれ、その後、何回かの修復を重ねたものの、室町後期の様式はよく残されている神社建築だとされている。しかし、境内から屋根、壁の一部はみられるものの、全体を拝観することはできない。ただ、境内は緑豊かな社叢に覆われ、わずかに常願寺川の川音がするだけで、静寂さが際立つ。
正直なところ、観るべきものは少ないが、かつてここで信者たちが登拝の安全を祈願し、また、下山に登拝が無事終えたことを報告する姿を想像するのには格好の場所であろう。しかし、それにしても本来の修験道としての活動拠点の面影が拭い去られ、近世以前の庶民たちの信仰の場を見出すことができないのは誠に残念である。伝統の切断で失ったものも多いと感じざるを得ない。
駅に戻り、次は富山地方鉄道立山線で芦峅寺に向かう。芦峅寺には、車では快適なドライブコースであるが、公共交通機関の利用では少しばかり上り坂を歩かなければならない。最寄りの鉄道駅は、富山地方鉄道の岩峅寺駅から立山方面に向かい2つ目の千垣駅か、その先の有峰口駅となる。千垣駅からは町営バスがあるが、本数が少ないので、事前に確認していくとよい。有峰口駅からは常願寺川を渡ると千垣駅から芦峅寺を経て立山に向かう道と出会う。ともに約2㎞ちょっとの道のりである。有峰口駅の一つ先の本宮駅は、芦峅寺の常願寺川の対岸に当り、地図上ではもっとも近いが橋はない。
なお、千垣という地名は平安末の「伊呂波字類聚」には、立山の開山慈興聖人(佐伯有若)が建立したとして「安楽寺、又高禅寺、又上巌山之頂禅光寺 千柿(垣)ナリ」として記載がみられる。ちなみに本宮の地名は、かつて立山信仰の本宮があったところという伝承があるものの、現在は立蔵社という小さな社祠しかなく、詳しいことは分かっていないが、立山信仰の拠点になっていたのだろう。
芦峅寺の集落は、現在の雄山神社中宮祈願所を真ん中にして立山に向かう道筋「立山道」に沿った集落で、集落の立山寄りのはずれから常願寺川の方へ少し下がったところには、かつての「布橋」が再現されている。
江戸時代までは「葦(芦)峅寺根本中宮」として岩峅寺より多い33坊5社人の宿坊があったとされ、全国から立山講の信者を集めていたという。ただ、今は、うっそうとした木立の中に「立山大権現祈願殿」と称する中宮祈願所の小さな社殿があるのみで、大きな社殿はなく、小さな社祠と石碑石塔が立ち並ぶ程度だ。目立つのは隣接して立山博物館とその別館の近代的な建物と、さらにその先にある、かつての宿坊「教算坊」(旧佐伯邸)があるくらいで、全体としては日本各地にある山間の静かな集落の鎮守といった趣である。
それでも、集落を歩いてみると、家の造作などが宿坊であった面影を遺すものもある。再現された「布橋」は、行事の時以外は、さして特色のある風景ではない。まさに徹底して神仏分離によって修験者や衆徒たちの活動が停止され、立山登山や観光の担い手に転換していったことを示しているともいえよう。
観光面からみると、現在の立山黒部アルペンルートへの入込数は年間70万人ほどで、かつての100万人よりは少ないものの、インバウンド重要も増え、回復傾向にあり、国内でも有数な観光地である。しかし、その信仰空間あるいは霊山として位置づけは弱まっており、芦峅寺では「布橋灌頂会」などの行事復活などを試みているものの、神仏分離によって失ったものがあまりに多い。現在は岩峅寺、芦峅寺とも立山観光の単なる通過地に過ぎず、訪れる人も少ない。立山博物館の入館者数は年間6万人程度にとどまっており、観光資源としては、高い評価を受けているとは言いがたい。
しかし、翻ってみれば、いくらかつて立山信仰の基地となり、日本の宗教史、文化史的にも意義ある場所だったとしても、一時期の潮流とはいえ、失ったものはもう戻らない。となればこの場所、地域の観光資源として光を当てるとするのならば、立山博物館などを中心として、立山の自然、風土、信仰、歴史を伝える拠点として研究・展示機能をより一層充実させ、行事復活や散逸した仏具・仏像の収集、信仰遺跡、事績の発掘なども含めフィールドミュージアムを確立していくといったような地道な活動を行うことによって、この地域の価値を高めていくしかないだろう。単なる観光客の数を指標にするのではなく、内外の観光客がこの地に一定時間滞留して、日本の文化や信仰心とじっくり向き合うことができる文化的な環境づくりがソフト、ハード両面で必要なのではないだろうか。
参考文献・引用文献
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丸山二郎校訂「今昔物語集 第2 (本朝篇 第2) 」岩波文庫 1953年 14/120 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1356908/1/14
「立山町 下巻」 1984年 98/973 国立国会図書館デジタルコレクション
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福江充「立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 ―加賀藩支配によって特色が生まれた江戸時代の立山信仰―」富山博物館協会 デジタル展覧会電子紀要
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森山義和「加賀藩と富山藩の神仏分離に関する一考察」 富山県立山博物館研究紀要第25号
https://tatehaku.jp/wp-content/themes/tatehaku/common/images/pdf/bulletin/2018/25_2018_02.pdf