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​特集 4月号​   関東の式内社(Ⅱ)

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​玉敷神社石鳥居・参道

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​玉敷神社参道

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​玉敷神社拝殿

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​玉敷神社本殿

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​玉敷神社神楽殿

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​玉敷神社神楽殿の屋根

a.花11F11A5473-1埼玉県加須市玉敷神社の梅.JPG

​玉敷神社の白梅

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​金鑚神社多宝塔

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​金鑚神社中門から神楽殿

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​金鑚神社拝殿

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​金鑚神社神垣

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​御嶽山

 前回は関東でももっとも格式が高く、歴史的背景が明確な名神大社を巡ってみたが、今回は、一定の歴史的背景はあるが、変遷が大きく式内社であると推定あるいはその候補、いわゆる「論社」である3社について巡ってみたい。いずれも式内社であったのではないかと論じられる候補の社で、他にも「論社」はあるものの、相対的に有力な説であり、地域においても明治以降戦前においては郷社、県社として、一定の官制の格式が与えられていた社だ。
 ただ、歴史的には盛衰・遷座などが見られ、かつての面影が薄れているといってもよいかもしれない。しかし一方では現在も地域に愛され、その地の鎮守として崇敬を集め、地域コミュニティの中心となり、神祭事の中心となっているところでもある。武蔵国のそんな式内社論社を2社、取り上げてみたい。

〇玉敷神社(埼玉県加須市)
 埼玉県の北東部にある加須市。その中心駅にあたる伊勢崎線の加須駅から南東に3㎞ほど広大な水田地帯を走り抜けると、根古屋の集落に入る。市町村合併前は騎西町の中心であったところで、集落に入りしばらくすると、違和感のあるこぶりな天守閣が突如現れる。これが騎西城跡に建てられた郷土資料館だ。

 聞くところによるとこの騎西城は中世には武蔵七党のひとつもいわれる郷地頭の武士集団私市(きさいち)党の本拠であったところだ。その後、15世紀の半ばからは、上杉=古河公方、北条=反北条の最前線となり城砦化され、やがて徳川幕府によって、2万石の大名の所領となったが、天守閣は建造されたことはなかったという。そして17世紀前半には、廃藩・廃城となり川越領の一部に吸収され、その後は市場町として栄えた集落だという。こうした歴史的背景がこの新しい天守閣への唐突感、違和感につながっているのかもしれない。
 この城跡から北へ1.5㎞ほどのところに玉敷神社がある。付近は現在、住宅地がつづいており、それを抜けたところに石の鳥居が現れ、細長い参道となる。参道の両サイドは、町工場と住宅地が続く。やがて、正面にこぢんまりとした拝殿・本殿、その裏手には宮目神社のなどの境内社(社祠)、左手には神楽殿が建っており、社殿の背後・左手はこんもりとした鎮守の森が広がる。右手は玉敷公園になっており、樹齢450年という藤などの藤棚が数基並び、初夏には近隣の住民を集めている。鎮守の森を含めれば境内としては、その格式通り広いが、全体の印象としては、大きな集落の鎮守という風情以上ではない。
 この玉敷神社は古社の系譜をたどっていることは間違いないが、創建から中世にかけては、文献的には明確なものはなく創建時の場所から三度ほど遷座しているとも言われている。社伝では「第四十二代文武天皇の大宝三年(七〇三)、東山道鎮撫使〈多治比真人三宅麿に創建された」とし、さらに2世紀前半までさかのぼる説があるとしているが、江戸後期の「新編武蔵風土記稿」では、「久伊豆明神」として紹介し、「当社は騎西領中の総鎮守にして古社なり」と規定しつつも、「延喜式神名帳に載る所埼玉郡四座の内玉敷神社祭神大己貴命とありて今何れの社たるを伝えず…中略…(延喜)式に見え東鑑にも沙汰あるは当社ならんが、されど千百年の古えを後の世より論ずれば如何にともいひがたし」として、意外と客観的に記述されており、玉敷神社として式内社にあたるかどうかは消極的支持といった表現に終始している。
 玉敷神社は、おそらく古くは当初鎮座していたという騎西(私市)城跡のある根古屋の地主神・産土神であり、中世に入ればその上に私市党など郷党一族の氏神でもあったのだろう。現在も「久伊豆明神」があったされる古墳が城跡の南側にある。おそらく、もともとは地主神の玉敷神社もそこにあっただろう。
 私市党と「久伊豆明神」の関係の密接性は、この一派の勢力圏であった埼玉県の東部を中心に「久伊豆明神(神社)」が現在も広範に点在していることからわかる。このことについて「新編武蔵風土記稿」では「宣化天皇八代の後胤従五位上木工頭丹治貞成の霊社なり。貞成の子峰成私市党の始祖なり。後畧して私の党と唱ふ。此人の弟を貞峯と云。丹治党の始祖なり。丹の党と云。此二党の子孫分れて武州に多し。その子孫の居所多く此神社を祭れり」と推測している。
 なお、この「久伊豆」の名称は近世以前には「ひさいず」あるいは「くいず」とも呼ばれていたが、その理由は、一説では「私市(きさいち)」が訛ったといい、一方では出雲族の大己貴命を祭神としていることから「いずくも」から転訛したともあるが、正直なところ、いずれもどうもしっくりこない。
しかし、こうしてみたとしても式内社として格式のある玉敷神社と私市党の氏神である「久伊豆明神」がどのように統融合されたのか、その関係は良く分からない。確かに延喜式には玉敷神社の社号が記載されているが、中世・近世になると「久伊豆大明神」が常に前面にたっているので、その変遷については不明のままである。そこにはおそらく統治における支配構造の変化が関わっていると思われるので興味深いものある。なお、現在の玉敷神社の社号は明治初期の神仏分離で「明神」の名称が否定されたので、延喜式の社名に戻した形になっている。
 もうひとつ、わからないのは現在、玉敷神社の境内社である「宮目神社」である。こちらも式内社の論社に挙げられているが、出自も由緒も不明だ。商工省の官僚で郷土史家の菱沼勇の「武蔵国式内社の歴史地理」では、もともと玉敷神社があった根古屋に対し、現在地(住所は騎西)の地主神ではないかと推論している。しかし、2㎞ほどの範囲に式内社という格式を有した社がなぜあったかは不明だ。推測の域はでないが、この付近にも古墳などが見られるので、私市党以前の有力氏族の本拠がこちらにもあったのかもしれない。
 玉敷神社では、現在も江戸神楽の源流となる神楽が演じられているが、こちらは一時期玉敷神社が遷座していたという正能集落の氏子によって継承されてきており、江戸初期の面が遺っていることから、それ以前から連綿と受け継がれてきたものであろう。
 こうしてみると玉敷神社は延喜式の官制的な国家鎮護の格式というより、地域の氏神、鎮守の性格が強く、より庶民に寄り添った神社として、地域の中での役割の方が大きく崇敬されてきたのではないかと、推測できる。実際、現在の佇まいもそれに近く、深い鎮守の森に囲まれた拝殿の前に立つと、庶民が神楽殿のまえに集まり、笛太皷や踊りを楽しむ光景が相応しいと思ってしまう。観光資源としては、それほど役割は大きくないかもしれないが、地域の信仰・文化の歴史を振り返るには重要な場所と言えよう。

〇金鑚(佐奈)神社(埼玉県神川町)
 金鑚神社は、JR高崎線本庄駅から南西へ約14㎞、秩父山地の北東端、標高300mほどの御室山をご神体とする神社ある。境内にはどこの神社にもみられる本殿はなく、ご神体となる御室山の山頂から山腹を囲むように神垣と中門祝詞舎とが巡らされ、その前に拝殿と神楽殿があるだけである。
 この金鑚神社は、神流川が群馬県と埼玉県の県境に沿い秩父山地を切り裂いて北流し、ちょうど関東平野の西北端に流れ出した右岸の山の端に御嶽山(標高354m)があってその尾根先の平野部に面したところに御室山がある。
 本庄側の東側の平野部から来ると、麓にはまず、もともとの遥拝の宮(現・元森神社)があり、さらに御室山と御嶽山の間の小さな沢の出口付近には、江戸時代まで神仏習合していた霊場であったので、別当寺であった天台宗の金鑽大師・普照寺の甍が今も目に付く。沢伝いに200mほど登ると、右手の山腹に二層の多宝塔が建つが、これは1534(天文3)年に別当寺の檀那(金鑚神社の氏子)であった阿保郷丹荘の豪族阿保(安保)全隆が寄進したもので、塔婆建築の遺構が少ない埼玉県では貴重なものとされ、現在国の重要文化財に指定されている。この阿保(安保)氏はこの地域で古代から中世まで勢力を保った児玉党の一角で丹党と称され、鎌倉政権時には御家人としても活躍していた。児玉党が金鑚神社を氏神としていたことは、武蔵国東部で私市党の氏神とした久伊豆神社が広く崇敬されたとの同様の様相だったのだろう。
 さらに進み右手の石段を登り、左に曲がると小さな石鳥居があり、その先に神楽殿が見え、右手の一段高い所に拝殿が建つ。その裏手には、中門祝詞舎と神垣があり、その先はご神体の御室山が迫っている。「新編武蔵風土記稿」ではこのご神体を「金山彦尊」としており、「或いは」として、創建伝承に合わせ「素戔嗚命」も祭神として加えている。
 神楽殿の裏手からは鏡岩を経て、御嶽山と御室山の鞍部近くまでの山道が続く。神仏習合の霊場、回峰行場であったところだ。その鞍部近くには国の特別天然記念物である鏡岩がある。この鏡岩は御嶽山の山腹に約1億年前にできた赤鉄石英片岩の岩質の断層のすべり面で、上下4m、左右9mに及び、摩擦によって表面は鏡のように磨かれている。とくに金鑽神社の縁起には関係はないが、御嶽山と合わせ修験者にとっては神秘的なものとしてとらえられていたのだろう。なお、この御嶽山は阿保(安保)氏の山城があったところで、豊臣秀吉の北条攻めの際に落城し、そのまま廃城になったという。
 さて、秩父山地の北東端で関東平野の北西端が出合う場所で、しかも、標高も低く、山容も特段に目立つ山をご神体とするこの神社は、じつは延喜式神名帳では名神大社として重視されており、武蔵国では一之宮の氷川神社に次ぐ二之宮であったというのだ。なぜこのような辺地で目立たぬところが、名神大社として古代から崇敬を受けたのか、また、「金鑚(佐奈)」の社号も珍しいものだ。
 この疑問の解は、おそらく立地と地質地形に関わっているのであろう。
立地としては古代・中世においては京から見れば辺地ではあることには違いないものの、京から信州を通って関東を抜け東北に至る東山(中山)道やその南側を通る脇街道の藤岡道がすぐ近くにあり、さらには東海道及び鎌倉から関東平野の西の縁を経て東山道と結ぶ往還筋(いわゆる鎌倉街道)も目の前を通っている。
 近くの本庄宿では、東山道と藤岡道が分岐し、藤岡道は金鑚神社の北側で神流川を渡る。また、鎌倉街道の道筋の方は、神社の元宮があった辺りを南に下っていったのである。それゆえ、北条氏と武田氏との領地争奪の最前線になったともいえよう。まさに交通の要衝に近接してこの神社はあったと言って良い。
 また、同社の創建伝承として「金鑚神社鎮座之由来記」によると「景行天皇四十一年皇子日本武尊東征の日東国鎮護の為伊勢神宮に於て倭姫命より賜りて常に草薙釼に副ひ佩ひ給ひる火打金を御霊代(みたましろ)として、天照皇太神素盞烏の両神(ふたはしら)を斎き祭り関り金鑚神社と称奉らせ給ふて関東総鎮守と崇敬す」(日本武尊が東征の折、伊勢神宮で草薙剣と一緒に火打金を御霊の代わりとしてもらったが、これを金鑚神社に天照大神と須佐之男命と一緒に祀り、関東の総鎮守として崇敬した)としている。これもこの東征では千葉に上陸後、東北(夷)地方から関東、甲州と巡って、雁坂峠から秩父に入って上野から信州に抜けており、この際にこの地に立ち寄ったことになる。ただ、ここに立ち寄ったことについては「日本書紀」には直接的な記述はなく、この地域での神話伝承に過ぎないが、大和朝廷の関東制圧の仕上げとして、その後の鎮護を祈願する場所としてこの地に意味があったとは考えられる。さらにこの地に奉斎されたとされる「火打金」については社号の「金鑚」に深く関係しているのではないだろうか。
 菱沼勇は、同社の創始の経緯について、神社のある沢(金鑚川)が平野部に出たところにある金鑚集落の山の恵みに対する信仰からはじまったのではないかと推測している。確かに全国に見られる端(葉)山信仰と同系と考えられ、ご神体となっている御室山を端山として、その南側につながっていて回峰修行の霊験場になっている御嶽山やそれに連なる秩父の連山が崇敬の対象になったのだろう。
 さらに、菱沼勇は、この御室山を取り囲むように各集落には、数多くの古墳群がみられるとし、その墳墓の型式が渡来人のものであり、大型の円墳もみられることから、古墳時代にはかなり裕福な集落が点在していたのではないかとも指摘し、もとからの居住民とともにこの山体の信仰をしていたのではないかとしている。これらの渡来人が一定程度豊かで、山岳信仰を取り入れたのは彼らの役割にも関係していたとも考えられる。
 この御室山から御嶽山に掛けての地層は、三波川層といわれ海底火山由来の変成岩で「鏡岩」の成因ともなっているとともに鉄、マンガンなどの鉱物も含有している。菱沼勇は「鉄に対する需要が、当時の鉄製農具の出現・普及及び武器の改革などのために急増したので、鉄鉱の採取ならびに鉄鋼の生産加工が盛んに行われ、そしてこの付近に在住した帰化人系の人たちは、主としてその採鉱・精錬に従事していた」のではないかとし、「鏡岩」にも鉄分が含まれており採鉱の跡があるという。同社の社号「金鑚」は「金佐奈」とも記されることもあり、これは「金砂」すなわち金属類の砂を意味することだと、菱沼は推測している。さらに金鑚集落から東に少し行ったところに現在も「金屋」という地名が遺り、付近には古墳も多いという。
 こうしたことから渡来人の氏族にとっても御室山や御嶽山が崇敬の対象となることは当然であり、氏族の氏神として、産土神として崇敬するのは当然であったろう。それが「新編武蔵風土記稿」がいう「金山彦尊」という祭神がつながり、日本武尊の「剱」「火打金」は
格好の権威付けの材料として取り込んだのだろう。

 

 観光資源としては全体の規模感、ビューポイントの少なさから歴史的には興味深いが、観光の視点からは広がりはない。周辺の山々や平野部を歩くトレッキングには適するものの、低山でありながら比較的険しい地形で山道・遊歩道の整備管理が難しいことから多くの人を誘致するのは難しいだろう。それゆえ、観光資源の開発活用というよりは、周辺の自然・歴史環境の維持保全が中心となってしまうが、それでも行政・地元住民の相応の不断の努力が必要となろう。これだけの歴史的背景があり多宝塔や石仏群、鏡岩などの文化・自然遺産があることから、なんとか関係者の多くのコンセンサスを得ながら、現在の状況が保全されることを願うばかりだ。

 

 次回は、武蔵国一之宮として知れる大宮氷川神社と国府に隣接し鎮座し六所宮と言われた府中の大國魂神社を訪ねてみたいと思う。

 

参考・引用文献
 

「明治神社誌料  府県郷社 上」 明治45年 492/981 国立国会図書館デジタルコレクション 

「新編武蔵風土記稿」埼玉郡巻九之巻十二 六十八

菱沼勇「武蔵国式内社の歴史地理」1966年 177~182/198 国立国会図書館デジタルコレクション

「新編武蔵風土記稿 児玉郡四」55/71 国立公文書館

「日本の城がわかる事典 御嶽城」講談社

「埼玉叢書 第6 新訂増補 『金鑚神社鎮座之由来記』」1972年 92/295

 国立国会図書館デジタルコレクション 

菱沼勇「武蔵国式内社の歴史地理」1966年 118~122/198 国立国会図書館デジタルコレクション

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