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浅草寺雷門
浅草寺仲見世
浅草寺宝蔵門
浅草寺本堂
〇三社祭と神仏分離
毎年5月の第3土曜日を中心として3日間行われる三社祭は、延べ180万人の見物客が集まり、山王祭、神田祭や深川八幡祭などと並ぶ江戸の大祭のひとつである。
この祭りは浅草神社の例祭であるが、テレビなどの紹介画像をみると、浅草寺の境内、あるいは仲見世などの浅草寺の参詣路での神輿の巡行渡御が映し出されることが多い。確かに浅草神社の鎮座するローケーションは、雷門から仲見世を通る、もっとも参詣者の多い参道の正面には浅草寺が建ち、浅草神社は、その右手奥に比較的こぢんまりとした石の鳥居の先に拝殿・幣殿・本殿がある。この本殿・幣殿・拝殿は1649(慶安2)年頃の建立であり、都内の神社としては、歴史のある建物で、国指定重要文化財に指定されている。ただ、どうも、東京で最大級の大祭、三社祭を例祭とする大社というよりも、その配置から浅草寺の付きもの感は免れない。 現に、明治期に定められた社格においても「郷社」にすぎない。
こうした印象や位置付けは、浅草寺と浅草神社における創建からの信仰の有り様の移り変わりと明治期の神仏分離が大きな影響を与えているようだ。そこで、今回はその点を探ってみたい。
まず、この地に創建されたのは浅草寺で、都内最古の寺といわれ、「浅草の観音様」として崇敬を集めてきた。同寺の縁起では628(推古天皇36)年に聖観世音菩薩像を祀った小堂を建てたのが始まりとされ、その後小堂は荒廃したものの、645(大化元)年勝海上人がこの堂を再建したことから、同寺の開基は勝海としている。
鎌倉時代にはすでに大寺であったことは「吾妻鏡」では、1192(建久3)年5月8日の条に「(後白河)法皇四十九日の御佛事、南御堂においてこれを修せられる。百僧供あり」と記され、その僧のなかにわざわざ遠距離にある浅草寺の僧侶3人が参加していると記録していることからもわかる。さらに江戸時代には寛永寺(天台宗)の傘下に入るものの、徳川家康の本尊聖観世音菩薩像に対する信仰が篤く、寺領の寄進を行っており、その後も「寛永十九(1642)年二月十九日、回禄(火災)の後も、慶安三(1650)年庚寅六月三日、手釿はじめ(ておのはじめ:着工)ありて、堂塔建立ありしよりこのかた、公(おおやけ)より修理を加えられ、誠に無雙(双)の靈(霊)場となれり」(江戸名所図会)としていることから、徳川幕府からの庇護が続いたことが分かる。
このように浅草寺は江戸を代表とする大寺として栄えたが、浅草神社との関係の原点は、同寺の本尊である聖観世音菩薩像にある。この聖観世音菩薩像は寺伝では、628(推古天皇36)年3月18日の朝早く、隅田川(当時は宮戸川)の岸辺に住む漁師檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(又は武成、たけなり)兄弟が漁をしていたところ、魚は獲れずに投網の中にあったのは一躰の像だけだった。何の像か分からなかったので兄弟は、像を水中に戻し、何度も場所を変えて網を打ったが、その都度、この像が網にかかったため、これを持ち帰った兄弟は土師真中知(はじのまなとも・名前には諸説あり)という村長(むらおさ)に見てもらうと、それは聖観世音菩薩の像であると知った。
そして翌日の朝、この観音像に豊漁を祈念したところ、大漁となったという。一方、真中知は、自宅を寺に改め、観音像を奉安供養したとされている。なお、浅草寺の縁起には、観音像が現れた日、この地に一夜にして千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されており、これが後に山号の「金龍山」の由来となったとしている。1966(昭和41)年の「台東区史」によると、7世紀頃に観音像が示現したというこの説話については、浅草寺の創建と結びつけるのには時期は早すぎるものの、奈良・平安期とみられる浅草寺境内から出土した屋根材などから推論すれば、創建の時期は「草堂的結構に甘んじながらも、庶民的信仰が古くから創生、維持された」と8世紀以前にさかのぼれるとみている。
この浅草寺の創建説話が浅草神社の由緒とどのように関係するかというと、神仏習合の権現思想の高まりに起因すると考えられている。そのため、神社の創建は浅草寺の創建からは遅れ、権現思想が広まった平安末から鎌倉初期と見られている。
社伝によれば、浅草寺開創後、聖観世音菩薩像の発見に関わった土師氏の末裔に夢告があり、浅草寺観音堂の傍らに観音像の発見した檜前浜成・竹成と土師真中知を鎮守し、「三社権現」として祀れば、子孫繁栄、郷土の安堵などが約束されるとされ、それを受けて三社権現社が創建されたというのだ。要するに浅草寺草創に関わった3人を仏あるいは菩薩の化身として現れた「権現」として祀ったというのが始まりだとされ、このため祭神三神はそれぞれ本地仏は、「真中知命」が阿弥陀如来、「浜成命」が観音菩薩、「竹成命」が勢至菩薩だとされている。
こうした経緯から江戸時代には浅草神社は三社大権現社と称され、浅草寺の鎮守あるいは浅草郷の総鎮守として寺社一体として運営がなされていた。このことは江戸後期の「江戸名所図会」には、浅草寺の境内にある「三社大権現社」として「本堂より艮(うしとら)にあり。土師臣中知、ならび家人檜前浜成・武(竹)成の霊を配せ祟祠(まつ)る。即当寺の護法神とす。世に三処(所)の護法ともいへり」と紹介している。
江戸の大祭となった三社祭の起源については、縁起によると、1312(正和元)年に神託があり、祭神三神が自らの本地仏は「我は是阿弥陀三尊」としており、「神託によりて神輿をかざり奉り、船遊の祭禮をいとなみ、天下の安寧を祈り奉るもの也」としたということから、当初は船遊(渡御)が行われ、山車の巡幸が中心だったみられ、まさに神仏習合の祭りだったという。
江戸期においても「江戸名所図会」では「隔年三月十八日なり。この祭礼は往古正和元(1312)年の神託に依てこれをはじむ。十七日に三社の神輿を本堂へうつし、拍板(びんささざら、田楽の一種)・獅子舞あり。当日は神輿を浅草の大通を渡し、浅草橋に至る。それより船に乗じ、帰輿は駒形より上らせらる。此日旧例として、武州六郷・大森等の海村より猟(漁)船を出し、かしこより魚人来りてこれに供奉す。往古此地の猟(漁)師を大森の辺へ移しけるより、今も祭礼にこの儀ありといへり」としており、寺社一体で祭神事が行われている。また、祭神の2人が漁師であったことから、漁師などが供奉し船渡御も行われていたことを記載している。江戸末期においても、天保年間の「東都歳時記」によると「産子(うぶこ・鎮守の地縁的な集団)の町々よりは出し(山車)邌(練)物朩(など)に善美を尽くし一時の壮観をなす」として産子20ヶ町が参加していることを記しており、宮神輿3基のほかは町神輿ではなく、山車が中心であったことが分かる。
これが明治期の神仏分離以降は、旧暦の3月17日、18日に行っていたものを浅草神社の浅草郷の総鎮守としての祭として5月の開催となり、「船遊」(渡御)が廃止され、現在のように神輿の氏子町内の巡幸、渡御が中心となった。
現在の三社祭りは5月の中旬の金曜日の初日には、御囃子屋台や鳶頭木遣り、芸子連の手古舞・組踊などが練り歩く、祭の名物「大行列」があり、古式豊かな神事「びんざさら舞」が奉納される。二日目の土曜日は、神事として「例大祭式典」が行われ、そのあとに氏子44ヶ町の「町内神輿連合神輿」100基余りが御祓いを受けるため、境内に集合し、各町内へ巡幸渡御する。最終日の日曜日早朝には祭神である「一之宮」「二之宮」「三之宮」(真中知命・浜成命・竹成命)の宮神輿3基の宮出しが行われ、氏子町内を三方に分かれ練り歩き、日没後には「宮入り」するというのが、大きな流れであり、宮神輿、町神輿の練り歩きがメインとなり、祭事が中心でイベント性が高まっている。
なお、浅草寺の方でも、この本来の神祭事として、現在は3月17日と18日の両日に「本尊示現会」という法要が催されている。当日は、僧侶たちが伝法院から参道の仲見世を通り、本堂まで練行列を行ない「金龍の舞」が奉納される。なお、この法要の中で2000(平成12)年からは古式にのっとって浅草寺・浅草神社の合同の行事として「船遊」も復活させ、もともとのこの祭りの原点を見直そうという動きもある。
こうしてみると、明治の神仏分離により浅草寺から浅草神社として切り離され、郷社として格付けをされたことにより、三社祭の運営、実施形態も本来の姿から大きく変化した例とだといえよう。もちろん、時代の変化、社会生活の変化に伴い、神祭事が大きく変化していくことは当然のことである。例えば、竿灯やねぶたのような祭りは、江戸中期以降の和蝋燭や和紙の普及、一般化がなければ、現在のような形態への発展はない。
しかし、われわれが注意をしなければいけないのは、神仏分離のように国家権力によって、それまでの信仰、神祭事の在り方を弾圧、強制的に変更し、本来の神祭事の意義すら捻じ曲げてしまうことだろう。各地の祭りの中には、こうした弾圧や強制に強かに抵抗し、信者や氏子たちが、形を変えながらも神祭事を継承した事例も数多くみられる。さらに、三社祭りのように本来の神事を復活しようとする動きも見られることも歓迎したい。
祭りを見る側も、現在の姿を楽しむだけではなく、祭りの本来の意義や形態に思いを馳せる必要もある。それこそが、明治以降の表層的な伝統ではなく、日本文化や伝統の本質だからである。
参考文献・引用文献
浅草神社HP https://www.asakusajinja.jp/
浅草寺HP https://www.senso-ji.jp/
「大日本名所図会第2輯第6編 江戸名所図会第4巻」大正9‐11年 17・31/290 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959919/1/17
「東都歳事記 春下巻」57/177 天保九刊(1838)国文学研究資料館国書データベース
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100334962/57?ln=ja
浅草神社拝殿
浅草神社
江戸名所図会の浅草寺・三社権現社境内図
東都歳時記三社権現祭礼図(旧暦3月)
江戸名所図会の三社権現の祭礼図(旧暦6月)
浅草寺五重塔とスカイツリー
「江戸名所図会」及び「東都歳時記」の絵図:国立国会図書館デジタルコレクションによる
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