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​特集 12月号​   神仏分離の爪跡(Ⅶ)

​岩峅寺雄山神社前立社壇

​岩峅寺雄山神社前立社壇拝殿

​岩峅寺雄山神社前立社壇本殿

​岩峅寺雄山神社前立社壇 湯立の釜

​芦峅寺雄山神社(中宮)

​芦峅寺雄山神社(中宮祈願殿)

​芦峅寺雄山神社(中宮祈願殿)

​芦峅寺雄山神社(中宮・立山大宮)

​芦峅寺雄山神社(中宮・立山大宮石碑)

立山信仰と御師集落の崩壊①

 立山信仰は、名山「立山」の山体そのものを信仰する山岳信仰だが、これも明治期の神仏分離によって修験道排除のなかで壊滅的な打撃を受けた。現在は、立山は信仰の山というより、黒部立山アルペンルートの山岳観光や登山のメッカとして立山黒部アルペンルートだけで70万人以上の観光客が訪れている。一方、信仰登山や関連社寺に訪れ人は盛時に比べれば激減している。立山登山の入口にあたり、かつては立山信仰の御師集落でもあった芦峅寺にある立山博物館の入館者数はこのところ数万人に止まる。
 立山信仰は、神仏分離政策によって、修験道を中心にした霊域のなかでも、もっとも壊滅的影響を受けたと言ってよいが、そうした状況となった背景について考える前に、そもそも立山信仰とはなにか、また、その歴史的経緯はいかなるものだったかについて、簡単にまとみたい。

 立山が神の山として信仰の対象であったことは、大伴家持が越中守として赴任していた折に詠み、万葉集に収録されている「立山の賦」からもわかる。747(天平19)年4月27日に「山はしも繁(しじ)にあれども かわ(川)はしも多(さわ)に行けども、皇神(すめがみ)の 領(うしわ)き坐(いま)す新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて」と詠み、翌日の28日には「立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ」とも記している。万葉仮名では「立山」を「多知夜麻」と表記している。
 これからみると、すでに8世紀中盤までには山岳信仰の対象として崇敬されていたことがわかる。その信仰は28日の歌にも「朝日さし 背向(そがい)に見ゆる 神ながら 御名に帯(お)ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山」と自然、山体そのものへの崇敬であったことが窺い知れる。
 こうした自然信仰へ仏教の法理が組み込まれていくが、この時期については、福江充は「仏教的な痕跡を示す最古の史料は、明治時代に剱岳や大日岳で発見された、奈良時代末期から平安時代初期の制作と推測される銅錫杖頭である」として、諸説はあるものの仏教の教理を受けた立山開山の時期については「概ね 9 世紀半ばから 10 世紀初頭までに開山されたと考えられている」としている。もちろん、これ以前から仏教の「山林修行」の考えが広まりつつあった時期でもあるので、開山以前からも修行者たちが立山連峰に入山していたことは推測できる。
 こうした動きを素地として、当然のことながら立山においても開山伝説が生まれる。後年、とくに江戸期などに広布のために作られた、立山信仰の世界観を示す「立山曼荼羅」においてもその開山伝説は語り継がれている。
 その開山伝説について立山博物館の「絵解き解説」を要約すると、「越中の国司佐伯有若の嫡男有頼は、701(大宝元)年に家来を従え、鷹狩りに出かけたところ、鷹狩用の白鷹が獲物を追わず飛び去った。このため、岩峅寺辺りまで追いかけ、白鷹を確保しようとしたが、大きな熊が現れ、再び取り逃がしてしまう。このため、有頼は熊に矢を放ち、胸に命中させたものの、熊は白鷹が飛び去った同じ方角に逃げ去った。有頼は熊の血をたどりながら室堂平まで登り、『玉殿の岩屋』という洞窟に追いつめ近寄ると、岩屋の中にはさん然と光に包まれ、高貴な香りが漂い、そこには阿弥陀如来と不動明王が立っていたという。しかも阿弥陀如来の胸には矢が突き刺さっていた。そこで白鷹と熊は仏様の化身だったことに気づき、有頼が懺悔して切腹しようとしたが、阿弥陀如来は『立山を開山し、衆生済度の霊場として人々を救え』と告げという。これを受けて有頼は出家し慈興と名を改め、芦峅寺に居を構えて立山信仰の広布に尽くした」というのが立山開山伝説の一般的なものである。
 山岳信仰では開山伝説では、動物の導きで出会う、あるいは、動物が神仏の化身として現れるという事例は、数多く見られる。それは異界としての山への恐れと畏敬により、異界に棲息する動物を狩猟する古代人にとって、恐怖から逃れる代償行為、あるいは恵として与えられることへの感謝の気持ちから、こうした開山伝説のなかでは動物が重要な役割を果たすのは当然のことなのだろう。
 ただ、立山における開山伝説で興味深いのは、有頼開山説は近世からだと言われ、立山開山伝説の現在遺されている文献として初出だとされる平安末の「伊呂波字類聚」では、父親の佐伯有若が開山したされており、しかもその有若の実在については、905(延喜5)年7月11日の「佐伯院付属状」(随心院文書)、によって証明されていることだ。
「伊呂波字類聚」では、「立山大菩薩」の条に佐伯有若について「弓ヲ切リ髪ヲ切リ、沙弥ト成リ、慈興ヲ法号トス。其ノ師ハ薬勢聖人。大河ヨリ南ㇵ薬勢ノ建立ニシテ三所、上ハ本宮、中ハ光明山、下ハ報恩寺。慈興聖人ノ建立ハ、大河ヨリ北三所、上ハ葦(芦)峅寺根本中宮、横ハ安楽寺、又高禅寺、又上巌山之頂禅光寺千柿(垣)ナリ、下ハ岩峅寺 今泉ナリ」と紹介している。
 この記事については開山者が誰かはともかくも、開山時期については前述の伝承とは200年ほどのずれがある。ただ、10世紀初頭に有若が実在していたことが実証されている以上、「伊呂波字類聚」の記事の方に一定の説得力はあろう。また、日本全体が密教からの山岳信仰が影響を受け、修験道の教理が確立された、すなわち神仏習合が定まってきた時期を考えると、大宝年間(701~704年)の開山というのは、かなり早過ぎるのではないだろうか。もちろん、自然宗教としての山岳信仰は、それ以上に古くから地元住民に根付いたのは間違いない。この開山伝説については、諸説があり、修験道の歴史と相俟って、今後も多くの史料、考古資料の発掘によっては、見方も変わってくるだろう。
 なお、立山信仰の中心である現在の雄山神社(前立・中宮・峰本社)については平安中期の延喜式の式内社だとされており、その社号は、確かに延喜式の神名帳には「新川郡 雄山神社」との記載がある。ただ、「立山権現」あるいは現在の「雄山神社」と式内社に記載さている「雄山神社」が同定できるかどうかは、必ずしも確定していないわけではないという。立山権現であった現在の岩峅寺の雄山神社と延喜式記載の雄山神社を同定している史料は、1653(承応2)年の「越中国式内等旧社記」にある「雄山神社 式内一座 岩峅村鎮座 所謂立山之神霊也 今謂小山明神 或云立山権現」とあるのが最も古いとされ、それ以上は、現在のところ遡れていないということなのだ。さらに、この「旧社記」には「立山中宮神社」の記載もあり「芦峅村鎮座、有三社稱大宮、若宮、佐伯宮、別當所號立山中宮寺、或云芦峅寺」とし、岩峅寺とは一線を画している。また、延喜式記載以降この時期まで雄山神に触れた文献もないとうされる。
 これらからみると、「立山権現」と「雄山神」が同一視されるようになったのは江戸中期以降ではないか、とも考えられる。「日本地名歴史体系」では「岩峅寺多賀坊に保管されている峰本社棟札のうち天明三年(一七八三)のものには『北国之鎮守越中国立山雄山宮』と明記され、立山を雄山神とすることを加賀藩も承認していた」としているものの、一方では「山名は江戸時代の絵図などに『立山』『立山御前』あるいは『峯本社』などと記され、『雄山』と記したものは皆無である」とも論じている。さらに、この加賀藩が同一神と承認したことを受けて、「明治初年の神仏分離に際し立山権現は雄山神社に改称された」と解説している。
 要するに、雄山神と立山権現ともに、山岳信仰に関連していたことは間違いないところだが、同一神であったかどうか、また、その信仰が雄山単独なのか、それとも立山連山総体として神としたのかなど、信仰形態の変化もあり、明らかになっていないということなのだろう。いわんや、雄山神の社祠が新川郡のどこにあったかまでは確定できないという説になるのだろう。
 いずれにせよ、福江の指摘にあるように「概ね9世紀半ばから 10 世紀初頭までに開山され」ていたことには間違いはないようだ。その頃には、天台宗の密教思想と結びついた山岳修行者たちが「立山山中地獄谷の火山活動の影響による荒れ果てた特異な景観が、まさに仏教の説く地獄の世界のように見え、それを後に諸国の霊山を巡って修行していくなかで喧伝したものと考えられる。…中略…折しも平安時代中期以降の末法思想の流行や、比叡山横川の学僧源信が著した『往生要集』の流行、地獄絵画の発展などは、そのような立山地獄の流布にも影響を与えたと考えられる」としている。
 こうして立山信仰は「立山権現」として崇敬を集めるようになったが、立山について中世社会では、どのようにみられていたかを示す典型的な事例が平安末期に成立したとされる「今昔物語集」の説話にある。
 「今昔物語集」巻14・7話の「修行僧至越中立山会小女語」においては「今昔、越中の国□□の郡に立山と云ふ所有り。昔より彼の山に地獄有りと云ひ伝へたり。其の所の様は原の遥に広き野山也。其の谷に百千の出湯有り。深き穴の中より涌出づ。巌を以て穴を覆へるに、湯荒く涌て、巌の辺より涌出るに、大なる巌動ぐ。熱気満て人近付き見るに極めて恐し。亦其の原の奥の方に大なる火の柱有り。常に焼けて燃ゆ。亦其の所に大なる峰有り。帝釋の嶽と名付たり。此れ天帝釋(帝釈天)冥官(地獄の役人)の集会ひ給て、衆生の善悪の業を勘へ定むる所也と云へり」とし、「日本国の人罪を造て多く此の立山の地獄に堕つ」としている。まさに山岳信仰の異界としての山と仏教思想の地獄が習合し、それが集約されていた霊山であるとみなしていたことがわかる。

 次回は、中世以降崇敬を集めた立山信仰の江戸期における広布活動に触れたあと、明治期の神仏分離にどのように扱われ、衰退、崩壊に向かったかをみてみたい。



参考文献・引用文献
佐々木信綱・武田祐吉「定本万葉集第5巻(巻17‐20)」 昭和23年 25・26/125 
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1127422/1/25
福江 充「立山山麓芦峅寺における 尊信仰の研究―新たに発見した 尊像の紹介も含めて―」北陸大学紀要 第55号(2023年度)
富山県立山博物館「立山曼荼羅絵解き解説」 https://tatehaku.jp/history/etoki/
正宗敦夫編「日本古典全集 伊呂波字類抄 第四・第五」日本古典全集刊行会 昭和5年 49/189 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1912557/1/49
福江充「立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 ―加賀藩支配によって特色が生まれた江戸時代の立山信仰―」富山博物館協会デジタル展覧会・電子紀要  
http://museums.toyamaken.jp/documents/documents005/
日本歴史地名体系「立山」平凡社 
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=666
「神祇全書 第5輯『越中国式内等旧社記』」思文閣 1971年 91/378 国立国会図書館デジタルコレクション   https://dl.ndl.go.jp/pid/12265607/1/91
丸山二郎校訂「今昔物語集 第2 (本朝篇 第2) 」岩波文庫 1953年 14/120 国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/pid/1356908/1/14

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