馬籠峠石標
馬籠峠から馬籠宿への木曽路
馬籠峠から大妻籠
妻籠宿
大日坊
注連寺
湯殿山神社参道にある丹生水上神社
羽黒山・祓川と須賀の滝
〇出羽三山から神仏分離を考える②
まず、前回記述したような明治維新を出発点とする宗教政策あるいは統治政策の変遷が大衆にいかに影響を与えたか、その一例として島崎藤村の「夜明け前」の主人公青山半蔵を取り上げてみたい。
主人公の青山半蔵は中山道木曽路の南の玄関口にあたる馬籠宿本陣の当主である。確かに馬籠宿は木曽路の山中の宿場ではあるが、立地としては、馬籠峠への登り口の高台にあって美濃の平野部を見渡すことができ、江戸時代は尾張藩に属していたので、名古屋や京都、東海道筋などの地域外からの情報に接しやすい場所でもあるった。そうした環境にあって、主人公は明治維新という大きな社会変革への主体的参画を問われ、それを実現したいという思いと、本陣当主で宿役人という幕藩体制の支配機構の末端を担い、いわば地域における旧体制の守護役というしらがみのなかで自己矛盾に追い込まれる。さらには主人公が社会改革の理念と思い込んだ祭政一致の国体神道の思想は、近代化の論理に取り込まれ主人公は心身ともに生き所を失い、最後に自己崩壊するというストーリーだ。
主人公の青山半蔵は国体神道の理論的背景となった平田国学に傾倒し、まさに古代の祭政一致の実現と民衆の惟神の生活を新しい体制に求め、自分の職責、立場と矛盾を感じ、焦燥感にも囚われつつも、出来る限りの活動を行った。しかし、青山半蔵にとっては「ことに神仏分離の運動を起こして、この国の根本と枝葉 との関係を明らかにしたのは、国学者の力によることが多いのであり、宗教廓清の一新時代はそこから開けて来た」はずであったが、「彼の眼前にひらけつつあったものは、帰り来る古代でも なくて、実に思いがけない近つ代であった」という状況に直面することになったのだ。
明治半ばになると、廃仏毀釈の激流が落ち着き、古代の祭政一致の理念は、近代化にはそぐわず、社会変革の後景に下がって行った。そのなかで主人公は教部省に奉職したり、飛騨の水無神社の神職までに就いたりしたものの、近代国家と集権国家への社会体制の変遷によって結局夢を叶えることができなかった。その結果、旧体制の象徴である青山家の菩提寺に火を付けようとして座敷牢にとじ込められ、狂い死にする最後となる。
「夜明け前」のなかでは平田国学の同門の旧友に、半蔵の心情を思いやって「古代復帰の夢想を抱いて明治維新の成就を期した国学者仲間の動き―― 平田鉄胤翁をはじめ、篤胤没後の門人と言わるる多くの同門の人たちがなしたこと考えたことも、結局大きな失敗に終わったのであった。半蔵のような純情の人が狂いもするはずではなかろうかと」と語らせている。
こうした軋轢や時代の流れに翻弄されたのは、青山半蔵のような真摯な在野の「復古運動」の活動家だけではなく、神仏分離の対象となり、復飾を迫られた修験者や社僧、僧侶たちも青山半蔵以上に自分のアイデンティティに煩悶し、廃仏毀釈の先頭に立ってみたり、権力に抵抗したり、従順に復飾し帰農や教職に就いたり、表面的には復飾はするものの強かに面従腹背をしたり、様々な対処に苦悩した人々も多かったのだと推し計れる
以上のような神仏分離政策と廃仏毀釈運動の背景や人々の心情を確認したうえで、「羽黒山」や「出羽三山」での実際はどうであったかもう少し探ってみたい。これについては大正時代にまとめられた「明治維新神仏分離史料」に収載されている仏教史学者鷲尾順敬の「羽前出羽神社調査報告」を中心にしてみてみる。
この「報告」では江戸時代の出羽三山の年中行事は「仏教に関係ないものはなかった」とし、ことにもっとも重要な四季の行法の「春峯(一名座主会)、夏峯、秋峯、冬峯」(注:現在の出羽三山神社の松例祭は冬峯の満願祭事)は仏法に従う修験道の行事であったとしている。しかし、明治の初めになり神仏分離の諸布告が出され、羽黒山(羽黒権現)側としては、東京の東叡山寛永寺の末寺であったことから、寛永寺の命令を待とうとしたが、戊辰戦争の主戦場のひとつであったため、混乱の中その命令を請うこともできない状態だった。
こうしているうちに1870(明治3)年に「酒田の民政局は、羽黒権現を改めて出羽神社となし、別当寂光寺宝前院権僧正霊山院官田以下に復飾を厳命」するに至った。当時、羽黒権現における現地の最高位者は、寛永寺から派遣された権僧正だったので、僧侶・社僧、修験者全員が復飾を命じられたことになり、形式上はこれに従い、僧侶・社僧の寺坊18坊のうち、15坊は神職に鞍替えし寺坊を廃毀し、残り3坊に仏像仏具などを移転安置した(のちにこの3坊は火災に遭い、これらの仏像などは焼失)。神職に転じたとして神社には出仕したが、「内実は矢張り旧来の風儀に任せ」たという。一方、門前の手向村の修験者300人余りは、天台宗に帰入していた。
しかし、一転したのは1873(明治6)年、国学者であった西川須賀雄が宮司として赴任してきてからである。まず、境内に残されていた仏教系の石仏などを徹底的に排除し、行祭事も神式に切り換え、天台宗に帰入していた修験者を新たに作った講社に入れ、神道に奉戴するように仕向けた。しかし、これには強い抵抗があり、修験者たちからは「開山能除太子の神号申立、神祭執行に反対」の意思を表明していた。それでも西川は「開山堂を改め神社となし、神祭執行の事」を教部省に申請し、その結果、開山堂は蜂子神社とすることとなり、講社も設けられ、修験者たちは神社の下級神職である「祝」(はふり)に位置付けられることとなった。
その後、山内にあり、神社の社務所などに使われていた仏堂など仏教風の建築物を売却廃棄し、神社風の建築物に建て替えられようとしたが、地元の建築家や住民の反対に合い、本社殿(現:三神合合祭殿)など一部が保存され、現在も遺されている。なお、国宝の五重塔についても取り除く方針であったが、費用など面からそのまま残された。同塔はその後、出羽三山神社によって管理保全され、かつては聖観音、妙見菩薩などを安置していたが、これも現在では大国主命を祭神として祀っている。
出羽三山のなかでも湯殿山は、羽黒山や月山とは、信仰や宗教集団としての形成については異なるものがあり、そのこともあって、神仏分離についても羽黒山とは別の過程を辿っている。
まず、湯殿山はどんな山で、信仰の対象はなんなのか、簡単に触れておきたい。湯殿山は、森敦の「月山」では、「臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂きを特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所(かくしどころ)とみられるあたりを湯殿山」と位置関係を示しており、湯殿山の特異な存在感を表現している。すなわち月山からの稜線が庄内平野に落ち込む最後の高みで、湯殿山神社は、その高みの一角である薬師岳の山懐に渓谷を刻む梵字川河畔にある。
湯殿山神社には社殿はなく、標高1050mほどのところにあるご神体は温泉と黄褐色の湯の花におおわれた巨岩である。参拝に際しては、現在でも、皆、裸足になって直に温泉や地熱の温かさを感得しながら詣でることになっている。岩から温泉が湧き出るご神体は新しい命を産み出す女性の神秘と重ねられ、全てのものを産み出す山の神としての大山祗命(おおやまつみのみこと)、その本地仏としての大日如来を奉じ、古くから湯殿権現として多くの信仰を集めていた。開山については諸説あるが、真言宗系の山岳密教の影響下にあったため弘法大師説が前面に出されており、別当四ヵ寺(本道寺、大日寺、注連寺、大日坊)も真言宗系であった。
こうした歴史的背景から、羽黒山や月山よりさらに仏教色が強かったため、神仏分離についてもより抵抗感が強かった。そのため、四ヵ寺は、一旦は復飾を拒否し、所管の藩や県が分かれていたことがあって紛糾した。しかし、神祇官の裁定で湯殿山は神地だとして認定されたため、結局、本道寺と大日寺はこれを受け入れ、本道寺は口之宮湯殿山神社として、大日寺は大日寺跡湯殿山神社となったものの、注連寺と大日坊は最後まで拒否し独立した真言宗寺院として還俗をしなかった。
また、当初は、江戸時代に、出羽三所権現とは言われていたものの、羽黒山、月山とは天台系と真言系と宗派が異なっており、その別立てであることを幕府から裁許されていたことから、神仏分離の裁定でも一旦は単独の神社(現在の湯殿山神社本宮)となった。しかし、その後羽黒山(出羽神社)の宮司西川らによって、講社の設立や三山の登拝口に社務所の出張所を設けることなどの活動がなされ、湯殿山神社(本宮)も出羽三山神社の管理下となった。
以上のように、羽黒山では、「修験道」そのもの否定されるという「神仏分離」の苛烈さはあったものの、一方では、生活に根差した信仰については地元住民たちが最低限のものを守ろうと尽力した。そのため、限られたものではあるが伝統(例えば松例祭、手向の宿坊群)や仏像・経典の一部は保存・継承されたものは今も遺されはしている。しかし、山内の様相は一変しており、本来の修験道の面影を全くといってよいほど失っている。
別当寺であった寂光寺の本坊や別院の紫苑院をはじめ多くの仏教建築物も失い、今に遺れば、貴重な修験道、仏教関係の文化財となるべきものが、無理な移転や破壊によって数多く失われたこと事実だ。支配体制の急激な変化のなかで統治思想の構築を急いだとはいえ、一方的、かつ独善的に行われたため、神仏習合という日本の文化の重要な歴史過程をしるべき、文化遺産や文化景観を失ったのだ。また、現代において、このような歴史的な変遷・変質を経て現在の神社や寺院の姿になったことを前提にせず、あたかも、現状の神社仏閣の姿や年中行事が古代から継承された日本の伝統的宗教観あるいは習俗だと認識されることも多く、ことさらこれらの一部を「日本の伝統」と取り出し主張して、それを政治的にいまだに利用されていることも事実だ。
この明治期の神仏分離政策の徹底は、近代化への生みの苦しみとも言えるが、地域によって程度の差はあるものの全国的に行われ、国民的遺産が廃棄、破却あるいは海外に流失したことも見逃せない。一面的な「日本の伝統」ではなく、日本というこの国土に育まれてきた総体としての「伝統」の継承と文化遺産、文化景観を守るためには、二度とこのような事態に陥らないような社会体制を構築する必要がある。
さらには、遺されたものをどのように継承保全し、広く日本の文化遺産・文化景観を内外に広く理解してもらうために観光資源としてどのように活用していくのかについても考えていくべきだろう。観光資源として活用していく場合は、歴史的諸相を客観的に捉え、光も影も含め、その積み重ねが今の姿に成っていることを提示し、広く知らしめる役割を果たす必要があろう。それが日本の伝統や文化遺産を保全継承していく意味を明確にするだろうし、その意義を広く理解してもらえることにもなろう。
そこで、次回からは出羽三山以外の全国各地の神仏分離の傷痕を巡りながら、この点について考えみたい。
まず、サクラの名所と知られ、山岳信仰の歴史が古い吉野山において神仏分離によって惹き起こされた不可思議な神社仏閣の配置やその景観について整理してみるとともに、観光資源としてのあり方についても探ってみたい。
参考文献・引用文献
畑中章宏「廃仏毀釈―寺院・仏像破壊の真実」ちくま新書 Kindle 版
安丸良夫「神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈」岩波新書 Kindle 版
鵜飼秀徳「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」文春新書 Kindle 版
島崎藤村「夜明け前 第2部下」 『島崎藤村全集』Kindle 版