
国分寺は、離島の諸国、隠岐、対馬、壱岐、佐渡にも置かれた。淡路もそれに加える必要があるかもしれないが、他の諸国が本州より相応の距離の海路をたどる必要があり、対外的な前線ともなりうるのとは違い、畿内に近いことから必ずしも同列に語れないだろう。
そこで、このなかから今回は私が訪ねたことのある佐渡の国分寺について、その離島ならではの歴史的背景と現在の状況を紹介し、観光資源としての意義についても考えてみたい。
佐渡島は300万年ほど前に北西側に現在の大佐渡山地となる島と南東側に小佐渡山地となる島が隆起し、その2つの島から流れ出た土砂と海流と波の作用によって2島がつながり、現在の国中平野が生成されたという。その国中平野の西南部、小佐渡山地の台地の先端部に8世紀の前半に北陸道の終点として国府が置かれ、一時は越後国に併合されたものの、752(天平勝4)年に再度分離し、国府の整備が本格化した。そのなかで、国中平野での条里制導入とともに国分寺も国府を見下ろす高台に造営された。
なぜ、この時期に再度佐渡国を分離し、支配体制を整えたかというのは、その大きな要因は、同年に渤海使が漂着したこともあろう。それ以前は出羽への漂着であったが、佐渡への漂着となり、対外防衛や蝦夷支配の関係から「辺要地」として重要な意味を持った国境の島と大和政権は認識していたということだろう。
現在の国分寺跡は、緑豊かな丘陵の高みに発掘調査後に広場が整備され、石碑が建つのみだが、その東側に隣接して、法灯を継承しているといわれる現在の佐渡国分寺がある。仁王門を入ると正面に本堂があり、左手奥に、平安初期の造仏といわれる薬師如来像が置かれていたという茅葺の瑠璃堂が建っている(現在は収蔵庫に安置)。寺院としては決して広い境内ではないが、周囲は鬱蒼とした木々に囲まれ茅葺の庫裏などもあり、落ち着いた心休まる空間になっている。
もともとの佐渡国分寺の造営時期は、越後国との統合分離という歴史的背景から741(天平13)年の国分寺建立の詔よりかなり遅れて、国府や国中平野の条里制の整備と同時期の759(天平宝寺3)年以降ではないかと推測されている。
一方、同時に造営とされた思われる国分尼寺については、その時期と場所については現在、特定できていない。しかし、類聚三代格に遺された、844(承和11)年の記事には佐渡国司より「応納国庫国分二寺僧尼度縁戒牒事」が出され、それに対応する太政官符が下されたとあるので、その存在は確認されている。場所の推定地としては、真西に1㎞ほどのところに吉岡薬師堂(隣接する吉岡諏訪神社)付近、北東へ約1.5㎞の妙宣寺、東へ約1㎞の太運寺などが候補に挙げられているが、決め手になるような遺構や出土品は発見されていない。
佐渡国分寺は、他国の多くの国分寺が、律令制の崩壊、荘園制の浸透などによって国家鎮護の役割機能を果たすことができなくなり、13世紀以降には荒廃し、法灯が断絶しているところが多いなか、寺院としての実態が近世まで継承された珍しい事例のひとつであった。 この経緯については、1529(享禄2)年の火災で多くの古文書を失っているものの、その他の正史、古文書などの文献によってある程度、推測できる。
それでは、なぜ、佐渡国分寺は、寺勢の盛衰はあるものの、法灯が継承できたのだろうか。
理由としていくつか挙げられるが、その一つとしては、古代、中世前半においては、前述のとおり、佐渡島は国境として、また蝦夷との対峙の最前線として認識されていたため、国分寺も国家鎮護としての機能、役割が重視されていたと考えられよう。
また、二つ目として、こうした佐渡国分寺の機能、役割との関係からか、早い段階から現在も遺されている平安前期の作といわれる薬師如来坐像が本尊として安置されたこにより、薬師信仰が広まったことも起因するかもしれない。この薬師如来坐像の存在については、延喜式の主税式の佐渡国の条に正税以外にも「国分寺料1万束、同寺新造薬師仏燈分料五百束」とあることからこの時期にはすでに薬師如来坐像が安置されていたことが分かる。
現在の全国各地の国分寺でも薬師如来像が本尊とするところも多い。これについて皿井舞は平安前期の薬師信仰については「薬師如来が、病気平癒のみならず、怨霊調伏や疫神防御など、実に多岐に渡る役割を期待されていた」という認識を示したうえで、国家鎮護という役割との連関によって各地の国分寺に薬師如来像が安置されたのではないかと指摘している。とりわけ佐渡国分寺の薬師如来像の存在意義については「九世紀後半頃、佐渡国において、護国の拠点である国分寺に薬師如来像が造られたのも理解しやすいものとなろう…中略…『兵疫』などの厄災を鎮める攘災の機能を期待」したものだったのではないかという。
さらに、この薬師信仰は、佐渡においては、平安期に入ると熊野修験が浸透したことにより、元来あった自然信仰の神々と習合していった過程で、薬師如来を守る十二神将が取り込まれ、現世的ご利益としての薬師信仰が広まることになり、国分寺はその中心的存在となったと思われる。これが佐渡国分寺の寺院としての継承性を強固にしたとも考える。
この佐渡国分寺の薬師信仰については、江戸初期の「佐渡志」では1276(建治2)年のこととして、雑太郡沢田村の国分十郎末俊が母の病の平伏を祈り、竹田村にある滝ツボで身を打たせ、国分寺の薬師如来に祈願したという説話を記録しており、また、江戸中期の「佐渡寺社帳」によれば、同寺の島内における末寺は4坊48寺あったとされ、その末寺の開基が13~14世紀だとするものも多い点からも、中世、近世を通じ、その影響力は強かったことがうかがえる。
しかし、そう言っても律令制の崩壊によって朝廷の国家鎮護としての寺院機能が衰微しいいき、荒廃廃絶していく中、佐渡国分寺が生き残れたかは薬師信仰や辺要地としての機能だけでは説明できないだろう。また、11世紀から12世紀にかけての同寺の消息を知る史料も多くない。
この時期は、すでに752(天平勝宝4)年から封戸100戸(国府や国分寺に程近い現在の畑野・栗野江)があった東大寺はじめ、石清水八幡宮、北野天満宮、羽黒山などの有力寺社の寺社領の拡大期であった。また、在地の弘仁寺、蓮華法寺なども山間において新田開発を行っていたとされている。なかでも東大寺は建武年間には周防のように佐渡を知行国化しようとする動きもあり、東大寺との関係が深い国分寺として一定の経営基盤を確保することができたとも推測でき、法灯継承の背景になったことも付け加えておくべきだろう。
法灯の継承が維持された三番目としては、13世紀以降の継承された要因に順徳上皇の配流が挙げられるかもしれない。
承久の乱は1221(承久3)年に荘園の統治に関する武家と朝廷、貴族集団の権力争いに起因した、後鳥羽上皇による鎌倉幕府への決起だったが、幕府によって制圧され、武家政権の基盤が確立した事件として知られる。その後始末として加担した順徳上皇は同年、佐渡に配流となり、在島は1241(仁治3)年に崩御するまで21年間に及んだという。
「佐渡志」によれば、国分寺の項に「順徳上皇遷幸のはじめ此寺を仮の御坐とさせ給ひき後真野の山陵のことをもうけたまわり末寺真輪寺をしてこれを守らしむ」としている。また、1678(延宝6)年には江戸幕府に順徳天皇の御廟所として除け地も認められている。順徳上皇の配流された頃の佐渡国分寺の伽藍は、この時期よりに後の1301(正安3)年に七重塔が落雷により焼失した記録が残っているので、一定規模の伽藍配置が維持できいたことも分かっており、上皇を受け入れることができる寺勢も相応に維持さていたと考えてよいだろう。
その後、中世においては、佐渡は順徳天皇の監視役も兼ねて鎌倉幕府から佐渡守護として派遣された相模国を本拠とする本間氏を中心に統治支配され、本間氏一族が島の各地に土着化し、一族内の争闘はあったものの、1589(天正17)年の上杉景勝による佐渡攻略まで、影響力を保った。この間、「境内四至免除」や寄進など本間氏から保護を受けていた。
ただ、前述したとおり、11世紀から12世紀にかけては、同寺の動向を記した直接的文献が遺されていないことや、1301(正安3)年の落雷、薬師如来坐像を持ち出すことはできたものの大半の堂宇が焼失した1529(亨禄2)年の火災、さらには、江戸中期の「子山佐渡志」には「元禄記」から引いて「国分寺年久しく廃荒中絶せしに、寛文年間住寺法印賢教なる者智力を以て奉行へ愁訴」した記録していることなどからみると、戦国期も含め何度かは荒廃した可能性はある。1679(延宝7)年には旧に復したとされているが、旧地での復活はなく、伽藍配置も徐々に現在の規模に落ち着いて行ったのだろう。一方、国分寺に遺された文書では14世紀半ば以降の住職の系譜については分っており、法燈の完全な廃絶はなかったと考えてよいだろう。
いずれにせよ、多くの国分寺が中世後期、戦国で一旦途絶したが、佐渡国分寺のように古代、中世、近世を通じ法燈の継承がある程度明確な国分寺は、珍しいといってよい。もちろん、中世後期から近世には、国家鎮護という役割から俗世的な薬師信仰に傾斜していったことも事実だろう。
このような創建から長い歴史を有する佐渡国分寺は、離島がゆえに法燈が守られてきたという、歴史的文化的に貴重な存在である。一方で観光資源にとしては、史跡として特徴的なものはなく、かつての国分寺を思い起こすものも少ないことは事実だが、小規模とはいえ瑠璃堂をはじめとする現在地の境内の雰囲気は森厳とした古刹の趣があり、佐渡を訪ねる歴史好きなら、ぜひ立ち寄りたいところだ。もっとも古代の国分寺らしい薬師如来坐像が特別公開時以外は拝観できないことは残念である。
佐渡において、歴史観光の視点からいえば、たしかに世界文化遺産に登録された佐渡金山関連の資料館、展示館は充実してきたものの、そのほかの民俗資料館、博物館に対する手当は残念ながら、不十分だと言わざるをえない。佐渡市が合併する前の市町村単位の資料館や博物館がそのまま残された感じで、資料整理や展示解説が必ずしも適切でないところも多く、施設の老朽化も目立つ。集約化して、専門家による資料整理を尽くし、この奥深い佐渡の歴史をどう見せていくのか、コンセプトを明確にした資料館、博物館を必要としている。この国分寺関連もそのひとつだろう。
また、佐渡には、金山以外にも宿根木、真野御陵、能舞台など歴史的な観光資源としては小規模だが、数多い。なんとか、エリアごとに歩いて楽しめる環境を作りに努めてほしい。現在も国分寺から妙宣寺まで史跡遊歩道はあるものの、いずこの遊歩道と同様によほど、地元、行政が力を合わせて行かないと、良好な状況で維持できないという実態もあるので、多くは望めないものの地道な努力を続けてほしい。そのなかで佐渡国分寺の長い歴史を現地で振り返ってもらいたいものである。
参考文献・引用文献
真野町史上巻73・78・103/390
皿井舞「醍醐寺薬師三尊像と平安前期の造寺組織(下)」美術研究398号(2009年)
佐藤利夫「佐渡における伝統文化の形成と継承」平成 20 年度 佐渡伝統文化研究所年報 https://www.city.sado.niigata.jp/uploaded/attachment/20238.pdf
「佐渡志」佐渡叢書 第2巻 1973年 74・102/176 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/9536877/1/102
「佐渡國寺社帳」『日本古典籍データセット』(国文学研究資料館蔵)
https://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=200018344&pos=22&lang=ja
新潟県佐渡郡役所編「佐渡国誌」大正11年1973年復刻 名著出版 154/302 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/9536305/1/154
福島金治「建武政権期東大寺の東国所領獲得交渉」
国立歴史民俗博物館研究報告 第104集2003年3月
佐渡市 歴史的風致維持向上計画(2020年3月 策定)21~22頁
https://www.city.sado.niigata.jp/uploaded/attachment/15263.pdf










