
Ⅰ.はじめに
公益財団法人日本交通公社は全国の観光資源をリストアップし評価した「全国観光資源台帳」を作成しており、現在、HPでも公開(https://tabi.jtb.or.jp/)をしている。
この「全国観光資源台帳」の大本は、1968年に「観光資源調査の手法」という同財団の自主研究にあり、1971~1973年度に行われた当時の建設省「観光交通資源調査・観光行動調査」にその成果が活用され、その評価結果として台帳が作成したのが始まりである。この調査研究結果は、資源の保全、活用に関する諸施策の参考資料として利用された。その後、1999年に見直しが行なわれ、その成果物として写真集「美しき日本~いちどは訪れたい観光資源」を出版した。その際、評価結果を特A・A・B級に限定してリストとして開示された。これにより、旅行者、消費者の観光資源の理解を深めてもらい、活用してもらおうという意図があった。
さらに2014年には、観光活動の多様化やインバウンドの増加などの観点から観光資源に対する評価が大きく変化する中で、「台帳」の見直しが必要であるということから、評価の枠組みの再構築に着手した。その成果物としては、同年にまず、写真集「美しき日本~旅の風光」を出版した後、B級以上に評価した観光資源(約3000件)について、資源の概要や評価のポイントの解説文を付することとし、およそ9年の歳月を経てようやく2025年10月に公益財団法人日本交通公社のHPにて公開された。
私は同財団に在任していたこともあって、2014年以降のこのプロジェクトの関りを持ち、退任後も観光資源評価や解説文の執筆などで協力を行ってきた。その過程で、調査取材のため、700件を超える観光資源を訪問し、600件余りの観光資源について解説文を執筆してきた。この作業を通じ、改めて日本の観光資源の豊かさを再認識したものである。
そこで、今回からしばらく、私がとくに味わい深い観光資源だと思った資源を取り上げ、「観光資源台帳」には書ききれなかったことを書き綴ってみたい。なお、台帳のなかで、私がほぼ全面的に執筆したのは8府県で、4都府県では一部地域や特定の分類について執筆し、そのほか数件の補筆を行ったため、ここで取り上げる観光資源はこの範囲に限られている。
まず、私が味わい深い観光資源と思った秋田県の3件から取り上げてみたい。
Ⅱ.秋田県編①
〇強首温泉樅峰苑
(観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/050053-)
雄物川は横手盆地を北流するが、盆地の北辺の大曲で南流してきた玉川と合流すると日本海に向けまさに大きく曲がり、南北に河岸段丘を控えさせながら西流し、これを抜けると秋田平野となる。強首は、この横手盆地と秋田平野の間、雄物川が大きな蛇行を繰り返す、段丘の間に造られた小平野にあり、ちょうど大きな蛇行の首根っこに段丘崖に向かい突き出したような場所にある。当然この地は沖積地で肥沃ではあるが、常に水害に見舞われてきたところであり、現在も大きな堤防に囲まれた地区である。
強首温泉樅峰苑は、雄物川へ突き出し所の集落の中心にある。この宿の概要は観光資源台帳を参照していただきたいが、宿の建物は甚大な被害があった1914(大正3)年の秋田仙北地震の後の1917(大正6)年に建築した本邸であり、宿として1966(昭和41)年から利用している。
宿は雄物川の大きく高い堤防を背に、広大な敷地は樹齢約380年と推定される「モミの木群」に覆われ、正面の門をくぐると、豪壮な木造のしっかりとした建物が迎えてくれ、左手には屋敷林のなかには温泉を引いている浴室棟がひっそりと建っている。ここにはヒノキの内湯と木立を見通せる露天風呂がある。
玄関を入ると、16mほどの1枚板の天然秋田杉で通した廊下が続き、屋内は屋根裏までつながる太い柱や、梁と柱を結ぶ木組みや欄間、障子などの装飾がこの建物の重厚さを際立たせている。建物の右手奥の別棟には小山田家に関するちょっとした資料館もある。
宿泊する部屋は2階になり7室、かつての住居を宿にしていることから、多少の使い勝手の悪さと不便さはあるものの、豪農の本邸としての味わいは十分に楽しめ、建築当時の建具などをそのまま残した部屋もある。食事処は1階の40畳に及ぶ大広間だが、ここは細かい組子の細工が施された欄間、磨き上げられた貴重な木材を使った柱などまさに豪農本邸の豪華さを体現している。朝食時などに障子から洩れる軟らかな光も心を豊かにしてくれる。
この宿の建物を建て、現在も経営する小山田家は江戸時代初期からこの地で田を開き、代々豪農として村の中心的存在であった。この歴史的背景がこの宿の味わいをより深くさせてくれる。
となれば、この地の「強首」の地名の由来やこの宿を経営する小山田家の出自が気になる。
まず、この地名の由来については、1801(享和元)年にこの地に入った紀行家菅江真澄の説を引いて観光資源台帳でも触れているが、要するに雄物川のこの辺りの逆巻く様子を表現したもので「強巻」が「強首」に転訛したと言い、付近の地名に同様に「逆巻」「石巻」というのもあるとしている。菅江は地名に絡めてこの地の肥沃さをここで採れる稲について「強首」とも呼ばれているとしている。
おそらく、この地名は雄物川が横手盆地から秋田平野に抜け流れが北から西に向かう際に丘陵に阻まれ段丘崖が生まれ、激流となった様を表したものなのだろう。地形と地味の豊かさを表現するのみ見合った地名ともいえるだろう。
一方、宿を経営する小山田家の出自だが、16代当主の小山田明氏のエッセイによると、「慶長7年(1602)に秋田藩初代の藩主佐竹義宣公が、国替えによって常陸国水戸(茨城県)から出羽国秋田に移封された当時、旧藩主を慕って秋田に来たといわれ、最初は、西木村の小山田部落(西明寺村を親郷とする寄郷小山田村)に住居を構え住んでいましたが、その後、開田と水運の便を考えて強首村に移住し定着した」と伝えられているとしている。 さらに移住時期は1650年頃と推定されるとし、1672(寛文12)年には拠人(藩境の村々を管理・統治に関わった人)になり、入植約20年で村の指導者的な立場となっている。
常陸から出羽に移住者が、いわばとんとん拍子に村の指導者になった背景が気になったので、当時の強首村と小山田村の状況をもう少しばかり調べてみた。
江戸期に入る頃までの強首村は、菅江によると、永禄、元亀、天正(1558~1591年)には4在家しかなく「古は此あたり谷地古川ようの地」だったとしている。もっとも4在家といっても一族で小集落を形成していたとおもわれるので、総家数はわからない。また、4在家の内、佐々木家はこの頃に丹波から流れてきた佐々木丹波守高重だと紹介しており、江戸期を通じ小田山家とともに村の指導層をなしていた。
なお、「西仙北町史」によると、この時期には4在家以外にも入植していた家があったのではないか、としているが、いずれにせよ、一定の水田があり小集落が点在するものの、雄物川が暴れる未開発地域が大きく広がっていたことは、確かなようだ。
それが大きく変化するのが、1602(慶長7)年の佐竹氏が常陸から出羽へ転封されたことだ。関ヶ原の戦いで中立的な立場をとったことから、54万石から20万石への大幅な減封であった。このため佐竹氏は、藩内の林業振興、鉱山開発を進めるとともに、新田開発を積極的に行った。この強首の新田開発もそれにあたる。
「西仙北町史」によると、小山田家が強首に入った頃の同村の石高は、1647(正保4)年の「出羽一国絵図」ではすでに509石あったとされ、さらに「小山田文書」によると、強首村の開田状況は1671(寛文11)~1673(寛文13)年までに23町2反(約7万坪、約23ha)ほど開発したと記録している。小山田家もこの時期に豪農としての地位を築き、村役や他領との境界を守る拠人などを務めた。同村の「高帳」の推移をみると、天明の飢饉などの時期を除けば、1700年代はおよそ570~580石だとされる。
ただ、この時期も開田は続いており、より生産実態を示す、1717(享保2)年の「御打ち直し新高覚」では、同村は本田約384石、古くからの開発したとみられる田が約210石、最近開田したとみられる約275石あり、合計では約869石となっている。最近開田したもののうち、小山田家の当主治右衛門が担っている田が約132石あるとしている。
さらに、「西仙北町史」では、その後小山田家は酒造業にも進出し、天保年間(1830~1844)以降は地主としての集積度をより一層高め、明治中期には同村の耕地40%を保有していたという。
ただ、とは言っても常陸の国からの移住者が、数十年の間に村の中心的な役割を果たすようになるのだから、やはり、その出自が気になる。前述したとおり、16代当主の小山田明氏は、常陸から佐竹氏を慕って、一旦、西木村の小山田に移住し、さらに強首に移転したとあるが、そのあたりの経緯をもう少し探ってみたい。
小山田家の出自について、菅江は強首の小山寺(十一面観音堂の別当寺)の草創に触れた際「此強首村の里正小山田氏に創る、また此仙北ノ郡に小山田村あり、小山田氏の祖は其村にゆえよしあらむ」として、同じ仙北郡の小山田村(現仙北市、その前は西木村)に出自を求めており、特段、常陸からの転入者とはしておらず、「西仙北町史」でも小山田を支配していた戸沢氏が佐竹氏とは逆に常陸へ移封(のちに出羽新庄)した際に一族郎党の中に同地に残ったものがいたことを示唆している。また、菅江は、仙北郡内の戸沢氏所領の高関で戸沢氏が転封後、「残り候御家人みな土民と成り候」という事例も紹介しており、戸沢氏の末族が小山田に残った可能性も十分にありうる。
一方、「西木村郷土誌」によると、その戸沢氏は13世紀初めに奥州から出羽に入り、一時この小山田にも本拠を置いた時期があったという。しかも奥州から出羽に入る際、戸沢氏は主従18騎だとし、そのなかに「小山田小平太」という名の人物が入っているとしている。地名が先か、氏が先なのは不明だが、いずれにせよ、「小山田」の名が存在していることは史実のようである。
また、「新庄市史」に掲載されている「戸沢藩系図書」に「仙北以来ノ衆」が記載されており、中下級家臣団ではあるが、常陸松岡、新庄と転封に従ったグループの中に「小山田長蔵」の名があり、仙北から松岡には行かず、新庄で再度召し抱えられた家臣のなかに「小山田外記」の名があることから小山田の係累もいろいろな身の対処の仕方をしたことが分かる。
あるいは氏のある身分でなく、進出後苗字を許された際に出身地の地名からとったのかもしれないが、短期間に村の指導者になったことを考えると、推測の域はでないが、仙北郡あたりでもともと一定の影響力があったのか、あるいは常陸から移ってきた佐竹氏と結びつきのある集団と縁戚関係などによって力を得たのかもしれない。
その小山田村だが、角館の街の北、桧木内川の上流にあたるところにあり、いわゆる中山間地から山間への入り口と言ってよく、村域の大半を山地が占めている。ただ、古くから銀や鉛の鉱山開発もなされ、田畑も開かれていたとされるものの、近世に入ってからの新田開発の拡張性は限られていたおり、支配者が戸沢氏から佐竹系の芦名氏、佐竹北家と変わっていったことから新天地を求めた可能性を否定してしえない。こうした経緯は小山田明氏の推測とは異なっている点もあるかもしれない。
出自の歴史的背景は激動の時代のなか、どのようの経緯があった多くの物語が潜んでおり、奥深く興味が尽きない。ただ、いずれにせよ、17世紀から現代まで、小山田家は一貫してこの地域の指導者として地域の開発発展に寄与した功績は多大である。
樅峰苑は単に豪農の邸宅に宿泊したり、温泉を楽しんだり、するだけではなく、長い小田和家の歴史や物語の一端を肌で感じることができる。
参考文献・引用文献
公益財団法人日本交通公社HP強首温泉樅峰苑
(観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/050053-)
菅江真澄 「月の出羽路 仙北郡(一)」秋田叢書 第8巻 秋田叢書刊行会 昭和3至8年 159-161/291 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1174121/1/159
小山田明「樅の木は残った」秋田大学医学部HP
https://www.med.akita-u.ac.jp/~eisei/momi.pdf
「西仙北町史 先史~近世編」1995年 127・237・244・256・269・335・354・356/570 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13197525/1/354
「西木村郷土誌」西木村郷土史編纂会編 1980年 57/270 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570507/1/57
「新庄市史 第2巻 (近世 上)」新庄市 1992年 281/509
https://dl.ndl.go.jp/pid/13199523/1/281









