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​特集 10月号​ 国分寺を訪ねる(Ⅵ)
〇公園化が進む国分寺②

​ 前回は、郊外にあり、ほとんど開発がなされなかった下野国分寺跡の公園化について、レポートしたが、今回は、城下町として宿場町として中世以降も栄え、現在も地方の中核的な都市である茨城県石岡市の市街地に遺る常陸国分寺跡と国分尼寺跡を訪ねみたい。

 

 常陸国分寺跡は、JR常磐線石岡駅から北へ約900mのところにあり、金堂跡や講堂跡は後継寺院である浄瑠璃山国分寺の境内にある。とくに基壇の模造もなく、それぞれの跡地に目印のように石碑が建つのみである。現国分寺の裏手は幼稚園の園庭、園舎になっており、周辺は住宅街が迫っていて、おそらくかつての寺域より大幅に縮小しており、せせこましい感じを受ける境内となっている。国分尼寺跡は、現国分寺から北西に約900mの府中小学校に隣接してあり、都市公園として整備はされ、現在は、金堂、講堂の基壇が模造され、金堂跡には植栽やガイド板が立てられている。

 国分寺と深い関係がある国府の跡は、JR石岡駅から西に約1㎞の石岡小学校の敷地内、国分寺跡へは北へ約1.1㎞という位置関係になる。また、この石岡小学校は府中城跡の本丸のあったところで、小さな「ふるさと歴史館」が併設され、南側には常陸国総社宮もある。

 歴史の古い街ではあるが、とくに歴史的な建造物はほとんど遺されておらず、陣屋門など一部復元している程度で、観光資源として評価できるものは少ない。そのようなこともあってか、石岡市としては国分尼寺跡を都市公園として進めているものの、観光の中心は、江戸末から昭和初期に形成された町並みを観光の中心にすえ、それ以前の城跡、国府跡など史跡については観光資源としては大きくは打ち出していない。そのような状況の中、国分寺跡や国分尼寺の歴史的価値を確認したうえで、史跡の都市公園化への課題を考えてみたい。

 まず、常陸国分寺はどのような歴史をたどったのか、簡単に確認してみる。

 常陸国分寺の創建については、関東の各国分寺と同様、建立された年については不明であるが、国分寺は国府に近い勝地を前提するように詔は出されるので、常陸国では国府の北東側の隣接地に国分寺を、さらに国分寺から北西のところに国分尼寺が建立された。

 なお、石岡の最初の国衙(国庁)は、律令制導入前からで、最初は現在の中心街より東、恋瀬川下流の高浜寄り(現・石岡市茨城)にあったとされる。また、国衙の隣接には国分寺に先行して地方への仏教信仰の浸透を示す「茨城寺」も存在したとされる。この地は、その後、現在の国府跡される石岡市の中心街近くより霞ケ浦に面した高浜の港に近いところにあったという。

 この高浜は東北地方や常陸国の物産の集積地であり、東夷と向き合う軍事的に重要な港であったとされる。このことは8世紀前半に編纂された「常陸風土記」にも「芳菲の嘉辰、揺落の凉候、駕を命じて向ひ、舟に乗りて游ぶ(花の春、紅葉落葉の秋になると、乗り物を命じて出向き、また舟を漕ぎ出して遊ぶ)」などと、景勝の地として、また、交通の要衝の地として、多くの人々が訪れ、集まっている様子を記している。

 このような港の後背地として、国衙が生まれ、律令制の整備とともに、当初あった国衙から8世紀前半、養老年間には現在の石岡市の中心街の地(現・石岡市総社 石岡小学校付近)に条坊制による国府が造営され、移転したといわれている。

 741(天平13)年の国分寺建立の詔を受けて、常陸国でも国分寺の造営を進めたと思われるが、756(天平勝宝8)年に体制の整った26ヵ国の国分寺には「潅頂幡一具、道塲幡四十九首、緋の綱二條頒下」されたなかには常陸国分寺は入っていないので、それ以降の造立と考えられる。

 ただ、発掘調査などから先行した茨城廃寺は国分寺と同規模だったと推測されていることから、8世紀半ばには、大寺を造立する力は同国にはあったとみられるので、26か国にそれほど遅れずに建立されたのではないかとされる。「石岡市史」では「常陸府中鏡」に743(天平13)年に起工し、752(天平勝宝4)年に成就したという記事がることを紹介したうえで、758(天平宝宇2)年に、後に東大寺造営使に転任する佐伯宿祢今毛人が常陸守になったことからこの人事からみて、この時期に竣工したのではないかと推測している。

 その後の常陸国分寺の消息は、正史などには全国の国分寺にたいする詔勅や動静から同寺の状況を多少窺えるものがある。

例えば、同寺の運営、造営修繕の費用を支えるために、741(天平13)年の国分寺建立の詔勅の中にも「国毎に僧寺に封戸五十戸・水田一十町、尼寺には必ず水田十町を施せ」として国分寺の経営基盤が整えられていることがわかる。

 さらに744(天平16)年には「四畿内七道の諸国告別に正税四万束を割き取りて以て僧尼の両寺に入るること、各二万束、毎年に出挙して其の息利を以て造寺のように支へしむ」としている。要するに当初の基本収入にプラスし、国分寺、国分尼寺のためにそれぞれ正税2万束を貸し出して、その利息で、伽藍堂宇の造営や修繕の費用にあてるように指示している。これについては810(弘仁元)年の弘仁式の主税式には常陸国の部分は欠落しており、確認できないものの、927(延長5)年に完成した延喜式の主税式では、常陸国の国分寺料は6万束となっている。国分寺料がどのように決められたか分からないが、大国として分類されていた常陸国は、上国の周防国分寺が2万束であったから、かなり多くなの国分寺料が設定されていたことがわかる。

 もっとも周防国分寺などは東大寺との関係が深く、畿内、西日本においては、中央支配層からの寄進もあったので、これが寺院運営の財政規模全体にどの程度の影響があったかのは、調べてみたものの、よくわからなかった。

 このほか、9世紀、10世紀の正史にも、各国分寺に対し朝廷から国家の安泰 や五穀豊穣などを祈願の詔、堂宇修繕の詔や寄進などの記事が盛んに掲載さている。そのなかで、当時の常陸国分寺を比較的信頼のおける正史などに取り上げられて例は少ない。

 それでも、「三代実録」の866(貞観8)年5月」の条に「常陸国久慈郡人椿戸(橘氏の一族)門主。嘉祥三(850)年出家。度補国分寺僧。今自修解文称。親父宮成。任久慈郡権主政。貞観六年死。弟妹多数。無人育養。望請返付本貫。以継家業。詔許之。」とあり、久慈郡の椿戸一族の長で、郡司の副「主政」(四等官)の子息「門主」が国分寺僧になったが、父親の「宮成」が死亡したので、一族の長として、還俗し久慈の地元に戻ることを上申し、これが認められたという記事がある。これを見ると地方の有力氏族から国分寺僧を朝廷が選び補任しており、その地位の高さが分かる。

 次に常陸国分寺が文献上で直接的に確認できるのは、「扶桑略記」に薬恒本の「本朝法華験記」からの引用として「仁和四(888)年、常陸国書生飛鳥貞成、その宅巨富にして、財貨豊贍なり。もとより篤信にして仏法を崇敬す。一般に百人の能書を金光明王寺に請列し、百部の法華経を写す。十度におよびて千部を書し了れり。毎日、衣冠して経を礼すること三遍なり。四日の法会を設け、八座の講経を演じ、国分寺に於いて開講供養す」と紹介している。飛鳥貞成は地方公務員の立場ながら、実家が有力者で豊かな財産があったので、国分寺にて法華経を写したり、拝礼したりして、法華経八巻の講経を国分寺おいて開催したということである。このあと真成の信仰譚が続く。飛鳥貞成については子や孫が、貞成の功績に応じ、地方官僚として重要な役割に就いていることも記録されている。

 また、常陸国府で税収納を役割としていた一族が遺した「税所文書」によると、常陸国分寺へ766(天平神護2)年と805(延暦24)年に太政官符による施入があったと記録されているという。

 正史ではないが、「石岡市史」では、「『府中平邑巡覧記』によれば創建後、『八十年程過て兵火の為に炎上し』た伝えられる。弘仁十一年(820)ごろのことであろう。その後、常陸国分寺は荒廃したままであったらしい」と紹介している。ただ、これが史実なら前述のように888(仁和4)年には飛鳥貞成が講経などを開催しているので、それまでには再建されたことになる。さらに、「石岡市史」は『府中平邑巡覧記』から引いて「弘仁からおよそ100年ばかりの後、木間塚将監という者が、常陸国分寺を再興したと伝えている。延喜二年(920)のことであろう」と記している。これに従えば、この建物は939(天慶2)に平将門の乱によって、再び焼失したことになる。

 ただ、木間塚将監の再建については気になる点があって、「石岡市史」が引いている「府中平邑巡覧記」とは異なり、1843(天保14)年の「常陸府中古略録」では「貞応年中(1222~1224年)焼亡す、その後樹(木?)間の将監長者建立す」とのあり、時代的なずれは大きい。

 この平将門の乱による国府の混乱・荒廃ぶりについては「将門記」にも939(天慶2)年11月、将門が常陸国府に攻め入り、国府の「三百余の宅は、烟滅して、一旦の煙となる。屏風の西施は、忽に裸形の媿(はじ)をとり、府中の道俗は酷くも、害せらるる危きに当たれり。…中略…定額の僧尼は頓命を夫兵に請い、僅かにのこれる士女は酷媿を生前にみる」という惨状だったという。国府趾の発掘調査からも10世紀以降に国衙の建物の存続が確認されていないとされているおり、将門の乱による影響は極めて大きかったとみてよいだろう。

 なお、ここでは「定額の僧尼」とあって、直接的に国分寺、国分尼寺と出てきていないが、「定額」は私寺の中でとくに朝廷から準官寺の扱いを受けた寺院を指すものの、常陸府中には定額寺(常陸国では鹿島神宮寺のみ)はないので、官寺である国分寺、国分尼寺を指すと考えてよいのではないだろうか。

 これ以降、関東では律令制の崩壊が表面化し、同時に国分寺や国分尼寺の役割機能が低下していく。常陸国でも同様の状態となっていったのは想像に難くない。なお、1186(文治2)年5月の「吾妻鏡」には、「且於東海道者。仰守護人等。被注其国惣社並国分寺破壊及同尼寺傾倒事等」として「修造」すべきと指示をだしている。常陸国分寺には直接触れていないが、当時は東海道の終点が常陸国府とされていたから、これに含まれていると考えてよいのではなかろうか。「常陸府中古略録」の伝承を信じれば、この指示のあと、「貞応年中(1222~1224)」には薬師堂など一部の堂宇が再建はされていたことになる。

 この時代以降の戦火としては、1337(建武4)年に南北朝の争乱に巻き込まれ、北朝側の佐竹氏等が国府に迫り、南朝側の小田氏・大掾氏と国府原で合戦があったとされ、国分寺の被害について直接的な記録は見当たらないものの、なんらかの被害を受けたことは推測できる。

 この時期の国分寺の財政面では1279(弘安2)年、1306(嘉文4)の田文(いわゆる田籍簿)によれば、「13丁」の常陸国分寺の寺領が記載されていることを紹介している。ただ、周防国分寺は1535(天文4)年時点でも756石余りを寺領として保有してという記録(正徳4年「防州国分寺記録」)があるというので、面積に75~80町歩ほど有していたとされることからすれば、決して恵まれた状況ではなかったと、考えられる。周防国分寺が同地を支配していた全国的にも有力武将であった大内氏や毛利氏の支援やその根源には西大寺の影響力もあったと推測でき、石岡においては、大掾氏が支援はしていたと思われるが、周防国分寺をバックアップしたほどの勢力は、必ずしも存在しなかったことによるとも推測できる。

 その後の常陸国分寺の消息については、「石岡市史」では地誌や古文書から、嘉吉年間(1441~1444年)に太田道灌の参詣、国家鎮護の為の太政官符による施入があったという、伝承や記録があるとしており、当時のこの支配者であった大掾氏や税収納官の税所氏の支援を受けていたのではないかとしている。

 ただ、太田道灌の参詣は嘉吉年間だとすると道灌が10歳くらいの年頃なので、疑問が残り、税所文書の「施入」には施入先に「国分寺」または「金光明王寺」の直接的な表現はあるわけではなく、私の推測では、勢力が強まっていた惣社や鹿島神宮寺(定額寺)が国家鎮護の祈願を主導した可能性があるのではないかとも思われる。このことは常陸国だけの状況ではなく、全国各地の国分寺は多くは衰微が進み、その代替に各国の一宮の神宮寺が強まっていたからである。

 「石岡市史」では「平安初期以降、仏教と神祇信仰を融合調和する神仏混淆の風潮が一般化し、やがて本地仏をあてることとなり、神社の人的構成の上で供僧の存在が重き」を押すようになったとする。そのことは国家安泰を祈願する最勝会にも「惣社最勝講衆」が14世紀に入ると国衙機能の中に位置付けられ、惣社・国分寺・神宮寺や薬王院などの有力社寺の管理監督にあたるようになったという。これにより「国分寺の本来的機能はほとんど崩壊したと思われる」としている。おそらく常陸国分寺も中世の後半には、薬師信仰の「薬師堂」を中心とした、小寺となっており、本来の国分寺の機能を失っていたとみてよいだろう。

 古代から荒廃、再建を来る返し、実態を失いつつある歴史的背景の中で、曲りなりもの法灯を繋げてきた国分寺が壊滅的な被害を受けるのは、石岡市史は「常陸国分寺文書」よると、1585(天正13)年の大掾氏と佐竹氏の戦火によるとしている。

なお、天保年間の「常陸府中古略録」では「天正十八(1590)稔庚寅十一月落城の砌りに神社仏閣農家に至る迄一統兵火の為に類焼す」ともしているが、この中に国分寺が含まれているかどうか、不明である。

 いずれにせよ、この天正期に焼失した伽藍のうち、天保年間の「常陸府中古略録」にある1534(天文3)年に建立したと伝えられている「薬師堂」も1570(元亀元)年に造営を開始し、1574(天正2)年に竣工した仁王門も含まれていたと思われる。国分寺が壊滅的な被災にあったあと、「石岡市史」では「常陸国分寺資料」から引用して「天正十八(1590)年に至り国分寺、千手院両寺の争論」が起ったとしている。

 この千手院は、818(弘仁9)年に行基の法弟である行円が開基だされるが、1252年(建長4)から長らく法灯が途絶え、1573(天正元)年に東寺系の僧侶朝賀によって再興されたという。再興間もない千手院が国分寺と争論し、そのあと主導権を握って、国分寺の再建を行ったということだとすると、それをバックアップする勢力があったとみられる。

 ここからは推測する以外はないが、「石岡の地誌」に所載されている年代不明の山戸家の所蔵古文書「平村之事」のなかに「千手院ハ鹿島之社僧也ト云」という記載がみられることから考えると、「鹿島之社僧」は鹿島神宮寺か、国府近くあった鹿島神社かはわからないが、いずれにせよ鹿島神宮系の社僧あるいは常陸国惣社の「惣社最勝講衆」は関わっていた可能性があるのではないだろうか。これは前述した国家鎮護祈願機能が完全に常陸では惣社や神宮寺に移ったことを示していると推測でき、再興間もない千手院が主導できた背景かもしれない。千手院と国分寺の力関係は江戸時代に入ると完全に逆転しており、国分寺はこの千手院の末寺となっており、布施米も30石に大幅に施入も縮小している。

 常陸国分寺は江戸時代には「国分寺薬師」として、近隣の崇敬をうけていたが、その伽藍は江戸時代にも焼失しており、千手院によって再建され、明治を迎えた。天保年間の「府中絵図」をみると、千手院が南側にある行政の中心である陣屋に向かって、正対する形で配置され、国分寺の本堂とみられる建物は、西側に小さく描かれ、その北側に雑木林に囲まれて国分寺薬師の建物がある配置で、主体が千手院であることを示している。また、千手院、国分寺の境内に田畑が迫っていることも示している。

 この絵図には国分尼寺は描かれていないが、明治後期に出版された「石岡誌」では「維新前迄方二町許りの地に七堂伽藍の基礎、廻廊、鐘楼、食堂等の趾歴然として存在せしが、年を追ふて開墾し、悉く田畑となりしなり」と当時の状況を記しており、国分寺以上に早くから田畑化や荒れ地化してと考えられる。

 常陸国分寺は1908(明治41)年にも火災にあっており、現在の薬師堂は、「筑波四面薬師」のものを移築したものだという。さらに千手院は1919(大正8)年に末寺の国分寺と合併し、現在の寺号浄瑠璃山常陸国分寺になったという。江戸時代における千手院は、府中の街では重要な位置を占めており、筑波大学の高橋伸夫等の地域調査報告でも「1585年(天正13)に国分寺が焼失し,後に千手院によって再興されたことからも,1919年(大正8)に国分寺と千手院が合併するまで,千手院は城下町石岡の都市プランを構成する上で重要な位置を占めていた」としている。

 こうした国府があった石岡の街のなかで、古代、中世前期においては国分寺、近世以降において千手院が宗教、文化施設として重要な都市機能の一部を担っていたといえよう。しかし、国分尼寺は中世後期には、廃墟化し、国分寺も中世後期には、本来の機能を失い、どこまで伽藍を維持できたか別として小寺となっていたと思われる。古代の国分寺の寺域については、一部は近世寺院の境内となり、一部は耕作地化、住宅地化した。国分尼寺跡は、耕作地や荒廃地となった。

 いずれも国の特別史跡指定に伴い、発掘調査を進めてはいるが、現在の国分寺周辺は都市化が進んでいるため、塔跡など重要な遺構も発掘できていない状況である一方、国分尼寺は中心街から外れていたため、遺構の大半を史跡公園化することができた。

 常陸国分寺跡は1922(大正11)年に国の史跡の指定を受け、1952(昭和27年)には国の特別史跡に指定されている。これは、常陸国分寺の金堂、講堂のなどの主要伽藍の遺構が現在の国分寺の境内にあり、伽藍配置などが発掘調査によって貴重な考古資料を提供したことによる。国分尼寺の方は大半が畑地や荒れ地であったため、同様に発掘調査が可能であり、歴史公園化の整備を進めることができた。しかし、国分寺跡は、周辺の都市化が進み、塔跡などの重要遺構の発掘調査が進めず、保存も難しい部分もある。

 行政も保存計画や活用計画を継続して策案し、一定の成果は上げているものの、「指定地は常陸国分寺の伽藍全体を含めたものではなく,今後,指定地やその周辺に開発計画等が持ち上がり,文化財保護の観点から様々な課題が生じる恐れ」があり、「現状変更等や周辺環境の変化によってその価値が損なわれることの無いよう,恒久的かつ確実に保存していかなければならず,そのためには当史跡の価値を広く社会と共有し,特性に基づく活用を図ることも必要であることから,それを実現するために具体的な方法や取組みなどに関する指針の策定が急務」だとしており、課題も多くのこされているようだ。

 観光資源としての活用についても実際に訪ねてみても物足りなさも感じた。確かに歴史的、考古学的見地から言えば、重要な史跡だが、現在の遺構の在り方からみれば、観光資源としては必ずしも価値が高いものではない。しかしながら、遠くから観光客を集めるという資源より、地元、近県の訪問客、利用者を増やす工夫はあるのではないか。

 活用計画には盛り込まれてはいるものの、史跡に関する案内板、解説板が圧倒的に少ないこと、観光マップ上では散策コースがあるが、駐車場案内や石岡駅から安全に歩け、目的地に誘導する歩道整備やコースガイド表示が不十分ことは間違いない。さらには資料館、展示館や発掘などの研究成果を開設展示する施設も既存の設備を利用しつつ、集約化、高度化すべきだろう。また、国分尼寺公園は、地元民の活用度をための植栽の充実、トイレやベンチなど都市公園として設備の充実も図るべきであろう。

 貴重な史跡だけにその価値をより一層知らしめる活用計画にも留意してもらいたいと思う。

参考・引用文献

「常陸国風土記」岩波書店「風土記」昭和12年 国立国会図書館デジタルコレクション 

「石岡市史 上巻」1979年139・265/597 国立国会図書館デジタルコレクション 

「石岡市史 下巻」1985年204・416・688/710 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/9643487/1/688

「石岡の地誌」1986年 67・68・82・146/222 国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/9643874/1/68

「延喜式 : 校訂 下巻」昭和6年 87/356 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/1442231/1/87

「六国史 : 国史大系  日本三代実録」大正3年 126/430 国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/pid/950691/1/126

「将門記  真福寺本評釈」サンケイ新聞出版局 1964年 82/164 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1361754/1/82

「防府史料 第22集 周防国分寺文書一」26ページ 

https://www.library.hofu.yamaguchi.jp/dbook/dbook_hofu/dbook_hofu_22_kaitei.pdf

高橋伸夫・小野寺淳・松村公明・舩杉刀修。芳賀博文「筑波大学地球科学系人文地理学研究グループ地域調査報告『石岡市中心部における都市空間の特性』16 1-23」1994年

 https://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/16/00.pdf

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