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​特集 2月号​ 私選味わい深い観光資源(3)
〇秋田県編③ 大湯環状列石群

大湯環状列石群

(全国観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/050011- )


  奥羽山脈の山懐、大湯川河畔の大湯温泉から南西方向に大湯川に沿って突き出した高みである中通台地にのぼり、3㎞ほど緑豊かな田園風景を行くと、やがて、左右にまさに平坦な牧場にでたような雰囲気のところに着く。これが大湯環状列石群である。ただ、道路からは芝生の広場という感じで、列石群があるという認識はもてない。それは列石群というと、おそらくイギリスのストーンヘンジのよう巨大な石の遺跡をイメージするからかもしれない。
大湯温泉方面から来ると道路の左手に万座環状列石、右手に野中堂環状列石があり、左手前の疎林の中には資料館が建つ位置関係になっている。万座環状列石の周辺には、数軒の掘立柱の建物が復元され、さらに奥には五本柱の建物跡を示す木柱が立てられている。大湯環状列石群のなかには環状列石以外の列石も見られ、素人目にはどれが人工的な列石かは分からず、よく発掘できたと感心するばかりである。
  環状列石ですら、列石というより礫が無造作に配置されているように見えるが、よくみると、全体としては真円ではないものの、環状に並べられていることは事実なのだ。そして2つの環状列石中央部には日時計と思われる大きめの石が立てられているのも意識された形状であることが理解できる。しかも、野中堂と万座の中心点(へそ)を結ぶ延長上に冬至の日の出と夏至の日の入りのポイントがあるというから、人の思念が込められた石の配列だという。野中堂の列石群は、道路側から入って右手は、疎林を背景に土手のように若干の高くなっており、そこに座ると野中堂環状列石の全体像をつかむことができる。
 この列石群は縄文後期に作られたもので、この頃は縄文人の定住成熟期前半にあたり、環状列石を中心とした祭祀遺跡だったとされている。土器などの出土品も多く、解明が進んでないと言われる縄文時代について多くの検討材料を与えてくれている。この列石群の重要性、意義は資料館でじっくり見学するとよいが、環状列石群を巡りながら、また、土手の高みから眺めていると、この遺跡を遺した縄文人たちの息吹に触れたような気にさせる。
 このような情景と雰囲気に浸ると、ここで暮らしを営み、人生を送っていた縄文人はどこから来て、なぜ環状すなわち円状の祭祀の場を作って、どこへの消えていったのかなど、まさに時の無常を思ってしまう。
 そこで、この地において列石群が造形された歴史について、最近の研究から分かったことを少しばかり調べてみることにした。
この遺跡はもとより、三内丸山遺跡などの発見前に歴史を学習した70代の私たちは、縄文時代は1万年の長きにわたり、主に狩猟で生活を営み、そのうち農耕を会得している弥生人が渡来して駆逐・吸収され、古墳時代以降には大陸から来た僧侶や技術者たちがその先進文化を運んで、一部が帰化人となっていったと学んだと思う。
 しかし、最近の研究では、縄文時代にもすでに原初的な農耕がなされ、かなりの規模の集落の形態が見られたたいうのである。しかも弥生時代から古墳時代にも継続的に東北アジアや東アジアからの渡来が続き、混住、混血もあって、徐々に統合されていったというのだ。かつての年表では時代区分がかなりくっきりひかれていたが、どうもそうでもないらしい。
 現代の日本人を形成してきた基点となるのが、縄文時代から弥生時代にかけてあることは間違いないようだが、最近のゲノム(全遺伝情報)解析によって、一定程度そのプロセスにが解明されてきたという。
 内城喜貴によると、理研の共同研究グループが7地域の「医療機関に登録された日本人3256人分のDNAの全配列を詳細に分析してゲノムの特徴」を分析した結果、「日本人の祖先は主に、沖縄県に多い『縄文系』、関西に多い『関西系』、そして東北に多い『東北系』の3つに分けられることが分かった」という。また、「縄文人と沖縄の人々の間に高い遺伝的親和性があるとの以前の研究とも一致し、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになった」としている。
 さらに、内城によると金沢大学の研究グループは「縄文、弥生、古墳時代の遺跡から出土した人骨のゲノム解析した」結果、「縄文人の祖先集団は、2万~1万5000年前に大陸の集団(基層集団)から分かれて渡来して1000人ほどの小集団を形成していたことが分かった。そして弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が、また古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ渡来してその度に混血があったと推定できた」とレポートしている。また、これに5世紀以降、北海道や東北のアイヌの集団では、南ロシアのオホーツク文化人との接触もゲノムの解析からわかっているという。
 つまり、縄文人の後に弥生人が入って来て、入れ替わるようにして現代の日本人の基点が形成されたのではなく、縄文、弥生、古墳にアジア各地から渡来した人々で、いわば、「三重構造」などかなり複雑に形成されたというのである。
 それではこの環状列石を作った、もともとの縄文人は大陸からどのようなルートで日本へ来たのかということになるが、シベリア・樺太、朝鮮半島・対馬ルート、沖縄ルートなど多様であったとみられている。これは氷河期が終わり、温暖化が進んだことに深い関係があるとされ、動物の獲物や採集する植物の北への移動によりそれを追う形で渡来してきたと考えられている。また、「縄文海進」による海岸線の移動による狩猟・採集の変化や独自の進化、文化、社会も生まれてきたとも考えられるよう。
 おそらく環状列石もこのような環境の中で、墓制、自然信仰が生まれ、集団の社会的組織が形成されてきたことで、祭祀の場が必要となったのだろう。それでは、なぜ、環状、円形という形状に拘ったのか、となると思念レベルのことである以上、解明は難しい。
 ひとつの解釈として、小林達雄によると、縄文人には「円」へのこだわりと「円」を基層とする世界観を有していたと指摘している。それは竪穴式住居の「イエ」の空間も食料の廃棄場所でるとともに死者の葬送の場ともなった貝塚にもあらわれているとし、また、日時計に象徴される天体の動きなどから常に円を意識し、列石はその縄文人の「石でもって世界観をカタチ」にしたものだと推論している。
 さて、こうした日本が置かれた環境条件のなかで、独特な世界観を形作りながら、縄文人は現代日本人の基層の一つになったが、縄文人以降、重層的な混住、混血を繰り返していくことになる。
 以上のような観点から言えば、「日本人」というものをどう定義するかは、複層的で難しいものかもしれない。歴史時代に入っても量的には減少するものの、渡来人による文化的、人種的影響は受け続け、古代中世は僧侶、技術者の渡来は続き、戦国期の薩摩焼、有田焼の技術者などにいたるまで、現代日本の文化の基盤作りの力となってきた。その意味では渡来人の数的流入が抑えられた江戸時代が特殊だったかもしれない。それでも朱子学などの学問的な影響や蘭学や西洋の科学技術の取り込みは一定の社会的波及力は保持していた。
 日本人は多くの時代で、量的にも質的にも外部の人、文化、科学技術を取り入れながら、日本社会、文化を形成し、創造してきた。それゆえ、今語られる「日本の伝統」というものは、固定されていたものではなく、日本の国が形成される以前も以後も、時代、時代に試されながら継承されつつも、内部での変化や外部からの影響を受け、それまでの「伝統」が塗り替えられたり、新しく形成されたり、蓄積されたり、していくものだともいえよう。
それは現代においても同様で、外部からの人や文化を摩擦が生じながらも受け入れしていく寛容さが新しい伝統と文化を生んでいく。こうした歴史をみてみると、日本社会は自らが考える以上に柔軟で消化能力が高く、受容性がある国柄なのかもしれない。
 このことは産業に必要な自然資源の少ない日本にとっては生き残っていくための重要な要素だと言ってもよいだろう。そんなことを大湯環状列石の礫石の連なりを眺めながら感じ入っ
た。

参考・引用文献
内城喜貴「日本人祖先の『3系統説』、従来の定説に修正迫る ゲノム解析で進化人類学は『人類、日本人の本質』を探究」 サイエンスポータル2024年07月24日 科学技術振興機構 
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240724_e01/
宮澤光「研究員ブログ177  秋田の世界遺産へ!①:縄文人は人生を楽しんでいた!?」世界遺産検定HP https://www.sekaken.jp/whinfo/blog/k177/
小林達雄 講演「ストーンサークルは、なぜ丸い?」国民文化祭あきた2014 JOMON ART フェスタ

 


 

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