
〇本山慈恩寺
(全国観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/060013-)
本山慈恩寺は、最上川に沿って開ける山形盆地(村山盆地)の中央部、盆地東縁にある芭蕉の句で知られる立石寺(山寺)と相対するように、最上川を挟んだ盆地西縁、葉山の山裾に建つ。月山の山並みから水を集め葉山の山裾を巡って盆地に流れ出す寒河江川を見下ろすように位置にある。そして、同寺の伽藍は寒河江川に潤され古代から開かれた寒河江荘を睥睨しているかのようである。
境内に入ると、最初に目を惹くのは、やはり国の重要文化財にも指定されている本堂だ。とくに本堂を支える66本の柱が、がっちりと固め、建物の力強さが良く表れている。本堂左手に薬師堂、阿弥陀堂などの堂宇が並び、その奥には宝蔵院、華蔵院などの院坊があり、本堂左手には、大師堂、釈迦堂、三重塔などが建ち、いずれも寒河江川、最上川の流れに対置するように建ち並んでいる。
同寺は、薬師如来及び脇侍像、十二神将像などの仏像や仏具、中世末から近世の文書類も良く遺されており、中世近世の地方寺院の実像に迫る格好の研究対象にもなっている。しかし、同寺の創建から明治の神仏分離までの間、多くの宗派が入れ子のように組み込まれ、同地域で盛んであった葉山信仰の宗徒も絡み、複雑な歴史をたどり、いまだ解明すべきことも多いという。
それゆえ、関連資料を読んでいると、奥行きのある歴史を有する観光資源だが、一方では歴史の迷路に入り込んだようで、古代からのこの地方の信仰のあり様と中央、地元の権力抗争の影がいつもついて纏う。今回は、あまりに迷路にはまり込まないように注意しながらも、同寺の創建伝承と、根強かった地元の葉山信仰と同寺の関わりについて、私なりに整理をしておきたい。
本山慈恩寺の創建は、江戸初期に成立したとみられる「出羽国最上慈恩寺略縁起」によると、「神亀元甲子年(724)行基法師国々ノ勝地ヲ択天奉之後、天平十八丙戌歳(746)南印度婆羅門種、釈菩提来朝之後当山令開基玉う所也」とし、聖武天皇の勅願だったとしている。つまり、行基が立地を選定し、聖武天皇の勅願のもと渡来僧の菩提僊那が開山したというのである。
しかし、この「略縁起」について 「寒河江市史」では開山をこの時期にするのには無理があるとして、麻木脩平の説から2点、とりあげている。
ひとつめ1298(永仁6)年の紀年銘が同寺の本尊である弥勒菩薩坐像の「胎内経写経奥書」には鳥羽天皇の勅願寺であることは記されているが、聖武天皇に触れていないことから、鎌倉期には聖武天皇勅願の伝承が成立していなかったと推察されるとしている。二つ目としては同寺の立地が8世紀前半の創建であれば、山岳宗教的な山すその高台ではなく、「平地に七堂伽藍を構える」ことが妥当ではないかとしている。
それでは、いつ創建されたかということになる。「寒河江市史」では、さらに麻木の説を援用し、山号が「寒江山、雷雲山、瑞宝山」と3回変ったものの寺号は「慈恩寺」と一貫しており、本尊も弥勒菩薩であることなどから、法相宗の影響下で開創されたと考えられるとしている。このことから弥勒菩薩を本尊とする寺院の多くは、平安初期だったとされ、現存する本尊は13世紀末に再彫成されたものの、創建当初に建立した赤栴檀像の本尊に似せたと考えられる栴檀風の素木像である点からみると、平安初期のものと推察できるとしている。
法相宗など南都諸宗が出羽まで教線を拡大しようとしていたのは、会津での法相宗の徳一などの事例から見ても平安初期の9世紀ではないかと、「寒河江市史」は結論づけている。ただ、当時、慈恩寺は定額寺としての記録はないことから、さほど、大きな寺院ではなかったとも考えられるともしている。
それではなぜ、行基と菩提僊那を開基開山に結びつけているかというと、ともに法相宗のスターであり、さらに行基は渡来僧としての菩提僊那を平城京での身元を引き受けていたという関係性もあったのだろう。行基は各地で社会事業を展開し、貧民対策などで民衆の崇敬を集めていた僧であり、その足跡も広汎なことから行基を開祖とする伝承を有する寺院は全国各地に多い。一方の菩提僊那は、大安寺に在住して、東大寺大仏開眼の大導師を務めたことで知られている。この二人が関わった実例では、奈良の霊山寺は創建当初法相宗であったとされ、大堂落慶や寺号選定にあたったという記録もある。おそらく、創建伝承の権威付けには極めて有力なものであったのだろう。
慈恩寺は9世紀、平安初期には創建されていたと見られる根拠となる記録は前述した、1298(永仁6)年の紀年銘が同寺の本尊である弥勒菩薩坐像の「胎内経写経奥書」である。そこでは鳥羽天皇の勅願寺であることを記しているが、その経緯を詳しく記述しているのが、先に挙げた「出羽国最上慈恩寺略縁起」がそのひとつである。
その「略縁起」では「来至天仁元(1108年)、人皇七十四代鳥羽院依勅宣、本願主願西上人下向シ給フ有テ、修営山中仏閣造営在之」としている。これによれば、すでに一定の伽藍堂宇があり、それを鳥羽天皇の勅願により、願西上人が下向して、修復し再興したことになっている。
これは収蔵されている平安後期の仏像群や慈恩寺一切経からも裏付けられると「寒河江市史」は記している。また、創建時の同寺の宗旨は法相宗であったが、平安、鎌倉期を通じて法相宗と関連が深く山岳密教とも密接な関係がある天台宗や真言宗の教えも流入し、「八宗兼学の道場」であったとみられる。これは後ほど触れる「葉山信仰」との関係性に重要な意味を有するという。
同寺が平安初期に創建され、12世紀初頭に勅願寺となり、さらにその後、近世初期には3ヶ寺48坊の大きな一山組織が形成にされるに至った背景には、当初は、宗教思想の基盤、あるいは、その経済基盤として寒河江荘が中央貴族の藤原氏や皇族の荘園であったことが大きな意味を有していたといえよう。
さらに、その後は豊かな寒河江荘を中心とするこの地域の支配者であった大江氏、最上氏や江戸幕府が篤く庇護したことによる。中世、近世を通じ、この地域の支配者が同寺を庇護したのは、経済的な理由だけでなく、後述するが当時民衆の圧倒的な崇敬を受けていた葉山信仰や羽黒山信仰とも慈恩寺が関係深かったことによるとも言われている。
この宗教的・経済的基盤となった寒河江荘とは、この地域ではどんな存在であったのだろうか。寒河江荘は現在の行政区域では寒河江市と西村山郡にあたる。この地域は最上川の流れが緩く、村山盆地(山形盆地の中部)の平野部形成しており、古代から稲作が行なわれ、豊かな穀倉地帯であり、金の産出や馬の供給地でもあったという。8世紀以降、この地域は関東方面からの移民が続き、一定の地域の支配者がいたとされ、それが平安期の荘園制に伴い、有力貴族(摂関家など)、皇族(上皇など)、寺院など中央の権力者の保護を受けながら、在地領主は自らの利権を確保する動きの中で寒河江荘も藤原氏に寄進されたのではないかとされる。「寒河江市史」では、同荘園は11世紀中ごろに成立し、12世紀初頭にはすでに藤原氏(忠実)の傘下に入っているという。
この時期に符合するように藤原家の氏寺であった興福寺と同じ法相宗の慈恩寺が庇護、再興され、経済的支援を篤く行ったことになる。これが、慈恩寺が大きく発展する契機になったことは間違いないだろう。
次に前述したように、慈恩寺との関係が深かったという葉山信仰とは何であったのか、また、その関係はどのようなもので、慈恩寺の寺勢拡大にいかに影響したかについて、触れてみたい。
まず、葉山信仰とは、月山のように奥山ではなく、里に近い「端山」「羽山」に対する信仰で、農作物の豊作を祈る農耕の神として古代から崇敬を集めてきた。とくに山形の内陸部では盛んであったとされる。葉山は慈恩寺の北にある標高1467mの山で、村山盆地から見るとゆったりとした稜線を有し、大山の風格があり、当然、自然信仰の対象となりうる山容である。
葉山信仰は極めて古くから原初的な形態の自然信仰であったことは間違いないが、中世以降、天台宗や真言宗の「山林修行」の対象ともなり、修験道としての組織化がなされていく。それでは、いつ開山したかとなると不明な点が多い。現在山頂には白磐神の祠があるが、これは「三代実録」の870(貞観12)年8月28日「出羽国白磐神、須波神並従五位下」が授けられたとしており、これに比定をする説から来ている。
しかし、これに対し、1975年の「出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山 : 総合学術調査報告」では、これ以外の役行者や慈覚大師などに関連する伝承を含め「葉山の開山についての資料は歴史的事実とは認めがたい」としている。「寒河江市史」においても「白磐神」の比定について「須波神」とともに改めて「検討され直すことは必要である」としている。ただ、一方ではこの課題とは関係なく葉山は「農耕と水利をつかさどる農業神」として、村上・最上地方一円の農民の厚い信仰」があったことについては肯定している。
それでは、慈恩寺と葉山信仰はどのような関係性であったおだろうか。「出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山 : 総合学術調査報告」では2つの説を取り上げている。ひとつは、葉山は「中世以降修験道の発達とともに羽山峯入りの山伏として一派を形成し、慈恩寺は葉山の前建、礼拝所の好適地として、葉山と密接な関連のもとに発達してきた」という説、もうひとつは「鎌倉時代以降慈恩寺に修験道が興隆し、その結果葉山との関係が新たに生まれ、奥の院と前建ての関係も、そのような名で新たに作り上げられた」として、「別々に発展してきたものが、後に関連しあうようになってきた」としている説を挙げている。
自然神としての葉山と山林修行の修験僧とのかかわりは、おそらく、会津での徳一の「山林修行」の事例から見ても、平安初期には、何らかの形で接触があったのでは間違いないだろう。ただ、その時に葉山側に組織だったものがあったかは不明であり、慈恩寺が葉山をどの程度修業の場としての葉山を意識していたかは定かではないようだ。
しかしながら、藤原家の庇護のもと、法相宗、天台宗の法理を中心として慈恩寺の体制が整備された後、1185(文治元)年に同寺へ来山して別当となった弘俊が真言密教を持ち込み「実践的修法的修験色を強め」たと「寒河江市史」と分析している。すなわち天台、真言の両勢力が拮抗していた「羽黒修験の膝下に熊野修験(真言系)の勢力が入った」とも指摘している。おそらくこの頃から系統立って、葉山は修法の場として位置付けたのはないかと考えられるということも間違いないだろう。前述の慈恩寺と葉山の発展過程に関する二説のいずれかは判断できないが、慈恩寺と葉山が密接になって組織化されたのは、12世紀後半となると考えてよいだろう。
慈恩寺と葉山山中の院坊の多くとが信者、行者の受け入れを協働しており、修験僧と清僧との連携がなされていたとみられる。隣接する月山、羽黒山とも密接な関係を保ち、中世の後半においては、羽黒三山のひとつとして現在は湯殿山とされているが、当時は葉山とされていた(日本海側の地域では葉山でなく鳥海山とするところもあったが)。
この状況を「寒河江市史」は「中世末期以降、葉山が三山登拝の道者で賑わうようになるにつれて、本来葉山大院坊支配下の鳥居崎坊・円乗(城)坊だけでは収容しきれず、慈恩寺の坊が夏期における葉山登山者の先達・宿坊」として先達・宿坊として機能したのではないかとも指摘している。
しかし、そうした関係も「出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山 : 総合学術調査報告」によると、「天正年間(1573~1591)に何らかの理由で分離し、慈恩寺が独立」したものの、「慶長16年(1611)の慈恩寺衆徒地知行帳によると、すでに橋本坊、金輪坊、林泉坊、川口坊、大乗坊は慈恩寺の配下になっている」としている。その後も慈恩寺の配下になる院坊はあったが、同時に葉山側(葉山権現)の大円院との関係を維持したところもあったようだ。
いずれにせよ、慈恩寺との関係が薄れ近世に入り、急激に信仰を集めるようになった、羽黒三山の奥の院といわれた湯殿山にとって代わられることなったため、葉山は羽黒三山の一山とは称されなくなり、葉山修験は衰えた。慈恩寺側は葉山を、修験の場、登拝の場として同寺の奥の院として位置づけた。
それではなぜ天正年間(1573~1591)に慈恩寺と葉山修験の亀裂が入ったのか、その原因は定かではないようだが、「寒河江市史」では慈恩寺に真言系の修験の色が濃くなり「慈恩寺一山の妻帯衆徒は漸次この影響を受け真言化し、葉山と峰を分かつようになるのも、葉山一山の支配職は天台系だったからではなかろうか」と推測している。
以上のように、慈恩寺は、藤原氏の荘園内の氏寺から、平安末期から鎌倉時代以降には、天台、真言の影響下にあった山岳仏教と修験道を通じ、葉山信仰なども包摂しながら寺勢を拡大したと思われる。その結果、慶長検地の際に確認されている寺領の規模については、当時、支配者であった最上氏は2,889石と認識しており、「寒河江市史」は大江氏の所領であった頃からの寺領が最上氏の願文などから「そのまま最上氏時代にも安堵されたらしいことは推察される」としている。ただ大江氏入部以前の寺領の規模となると、現段階では不分明ではあるが、平安後期、藤原氏や院(皇族)領時代においても一定の経営基盤は与えられていたと考えてよいだろう。
近世初めのこの寺領規模は、「山寺」と称される立石寺が当時1,300石、羽黒山が1,336石ほどであったことから、いかに強大な一山組織だったことがわかる。近世に入り最上氏が改易され、寒河江領(荘)の大半は天領となったが、その後もほぼ同規模(2812石余)の寺領が安堵されたとされる。
一方、天正年間(1573~1591)に分かれた葉山修験は衰退したが、葉山への登拝道のメインは現在の村山市の千座川沿いに登る道であったため、中世から法灯が続く医王山金剛日寺の学頭大円院(寺領137石余り 12坊)を中心に葉山大権現として本地仏を薬師如来とする一山組織は維持されていた。地元民からの崇敬は篤く、元禄期には一定の興隆をみせ、明治期の神仏分離まで続いたと言われている。これを庇護したのが葉山の東側を支配していた新庄藩(戸沢氏)で、藩主が登拝することもあったという。
慈恩寺と葉山修験は、天台、真言密教と日本の自然崇拝から生まれた山岳信仰との出会いによって育てられ発展し、中世後期、近世にはすそ野の広い一山組織が生まれた。しかし、宗派間の利害などから分離され、葉山修験の影響力は低下したものの、地元民の農業神としての葉山への信仰は変わらず、慈恩寺も分離した葉山修験も引き続き崇敬を受けた。
いま、明治期の神仏分離策によって修験道は否定され、葉山においても修験道的な宗教活動が衰微したが、純粋な仏教寺院として生き残った本山慈恩寺には、仏教と山岳信仰の出会いの歴史の面影を随所に遺している。ぜひ、慈恩寺の境内に立って、村山盆地を眺望しながらその面影を探れば、きっとこの観光資源の奥行きの深さを感じ取ることが出できることだろう。
参考文献・引用文献
「山形県史 資料篇 第14 (慈恩寺資料)」1974 16/549 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3007839/1/16
「寒河江市史 上巻 (原始・古代・中世編)」1994 154・177・252・254/531 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13206423/1/154
「出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山 : 総合学術調査報告」1975 165/282 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12591921/1/165











