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​特集 三川三様(Ⅱ)富士川 2020年8月号

c.森林・高原・山15F11A5810山梨県北斗市大泉駅付近からの朝の富士山.J

八ヶ岳高原からの富士山

c.森林・高原・山15F11A5794山梨県北斗市大泉町八ヶ岳高原大橋からの八ヶ

八ヶ岳高原

IMG_2311 (2)甲府盆地越しに八ヶ岳と茅が岳.JPG

八ヶ岳と茅が岳

190069F11A0815昇仙峡仙娥滝.JPG

​釜無川支流荒川・昇仙峡仙娥滝

南アルプスと桜.JPG

​甲府盆地越しに南アルプス

190744IMG_2353富士川クラフトパークから富士川を望む.JPG

​富士川クラフトパークから富士川(早川との合流点付近)

190486IMG_7869富士川の眺望(身延山奥之院から).JPG

​身延山奥之院から波高島方面

190486F11A0708富士川の眺望(身延山奥之院から下流方向).JPG

​身延山奥之院から下流、静岡方面

190246F11A0717久遠寺奥之院東展望台から富士山を望む.JPG

身延山奥之院から天子山塊越しの富士山

 太宰治は甲府盆地あるいは甲府の町を「シルクハットを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた」と例えたが、富士川はその帽子の底に足の短いYの字を描いているといって良い。Yの字の右肩が釜無川で、その源は長野県との県境の南アルプスに発し、八ヶ岳の裾野に峡谷をつくり、左手に七里岩を見ながら甲府盆地に向かう。一方、Yの字の左肩の笛吹川は秩父山地を水源として、盆地に出ると流域の丘や野に果樹園を抱えつつ南西に下っていく。そして、鰍沢付近で合流し、富士川となる。その先は再び、山間渓谷部に入り、駿河湾に注ぐ。釜無川源流からの駿河湾の河口まで総延長128kmで、標高差は二千数百m、まさしく急流と言って良いだろう。それだけにいろいろなドラマを生む。そのいくつかを繙いてみたい。

 

〇七里岩

 甲州街道は、甲府から松本に向かうと、甲府盆地の付け根近くで、韮崎の町を右手に、釜無川を左手にして走るが、やがて、右手の街並みは、木々に覆われ、そこここに岩が剥き出しになった断崖が続く。これが七里岩である。ちなみに中央本線は、韮崎駅を出るとすぐに急こう配に入り、この七里岩の上に載ってしまう。甲州街道はしばらく七里岩を右手に釜無川に沿うように走り、穴山橋で渡り、徐々に高度を上げていく。その先が台ケ原の宿場となる。

 この七里岩は、今から20万~25万年前の八ヶ岳火山の活動期に起こった大規模な山体崩壊によって流れ出した韮崎岩屑流によってできた台地を釜無川とその支流の塩川が削り出した断崖である。高さは40mから150m、約30㎞も切り立った崖と奇岩が続く。

 ここでのみどころは、新府城跡や旧甲州街道の台ケ原宿などがあるが、もう一つあげるとすると、七里岩の上を走る中央本線や韮崎を起点に八ヶ岳に向かう県道「七里岩ライン」から見る山並みだろう。

 「七里岩ライン」の最初のみどころは、新府城跡の丸馬出(兵馬の出入口)から見える甲府盆地越しの富士山だろう。この新府城跡は、甲斐武田氏の最後の当主武田勝頼が織田徳川連合軍と家臣団の離反に遭い、最後の城として築き、甲府の館から本拠地を移したものの、在城68日で落ち延びることになった悲劇の城だ。現在は土塁などの遺構しかない。

 ここからの富士山は御坂山塊を前衛に挟むので、富士五湖や静岡県側からみるような裾野の広がり、雄大さには欠ける。しかし、前衛に山塊があることで、より高く秀麗に見え、北斜面をこちらに向けるので、秋から冬にかけての山肌の白さは際立つ。厳しい表情の富士山と言ってよいだろう。背後には八ヶ岳を望むことができ、南アルプス・八ガ岳・茅ガ岳などの展望がよく、春には城跡周辺では一面に桃畑が広がり、見事なピンクの花がじゅうたんを敷き詰めたように咲く。

 新府城跡から長坂付近に至れば、左手に一部しか見えなかった摩利支天がはっきり姿を見せ、甲斐駒ヶ岳の三角形の鋭い山容全体が徐々に大きくなっていく。また、正面あるいは右手前方に八ヶ岳を望む。また、釜無川の源流地となる鋸岳も全貌を見せてくれる。

「七里岩ライン」の終点となる小淵沢付近に至れば、甲斐駒ヶ岳の研ぎ澄まれた姿や雄大に裾野を広げて峰が連なる八ヶ岳が眼前に迫り、迫力満点である。とくに秋の紅葉と新雪、そして厳冬の真っ白な山並みは、それぞれの山々の特徴的な姿を際立たせるのでお勧めだ。

 ただ、もう1本、これらの山々を眺望するのに最適な道がある。釜無川の支流塩川は、右岸では韮崎岩屑流の北東面を浸蝕しているが、左岸では北に聳える茅ヶ岳によって形成された火砕流台地を削っている。その裾野台地は標高1000mほどの浅尾原などの広野を展開している。この裾野の広野を走り抜ける茅ヶ岳広域農道もお勧めだ。七里岩ラインは、街並みや林が続くところがあり、眺望が妨げられるところも多いが、この広域農道は、畑や自然林はあるが、眺望が開けるところも多く、標高も高いところを走るため、茅が岳はもちろん、富士、鳳凰三山、甲斐駒、そして八ヶ岳の眺望が次々に展開する。こちらもお勧めだ。

 

〇御勅使川と信玄堤

 甲府の中心街から西に向かう国道52号線は郊外に出ると、右に折れるが、南アルプスの登山口となる芦安方面にそのまま直進すると、釜無川に架る信玄橋に辿り着く。橋を渡る手前を右折すると、信玄堤公園が土手に沿って細長く続く。この公園は、戦国時代の武将武田信玄が甲府盆地を水害から守るために築いた堤で、いろいろな治水の仕掛けを目の当たりにできるところである。

 甲府盆地の南部は、富士川となる源流の釜無川や最大の支流笛吹川を中心に、周囲の急峻な山々から流れ出る数々の支流による氾濫原となっていた。古くから治水の試みは行われてきたが、戦国の武将、武田信玄による築堤や分流、還流などの土木工事、植樹、祖税免除などにより、生活の安定、氾濫原の利用などが進んだとされている。

 江戸後期の「甲斐国志」でも「本州処々ニテ信玄堤卜稱スルハ皆武田氏領國ノ時所築卜云就中此筋ハ古ヨリ水菑(災)多キガ故堤防完固ナリシニヤ 今二其形ヲ存シ其名ヲ傳ヘタル所少ナカラズ」としている。この地ののみならず、笛吹川、荒川など多くの支流でもこの治水対策が武田信玄の時代から、近世、近現代に至るまで、営々と続けられている。

 とくに鳳凰三山を源流とし、信玄堤公園のすぐ上流に合流点がある御勅使川は、普段は川の水は伏流するものが多いが、甲斐国志によれば「河灘ノ廣壹里餘ナルへシ常時ハ水至リテ少ナク跳テ越ユベケレドモ大雨ニハ暴漲シテ雨涘ノ間牛馬ヲ辨ゼザル程ナリ且ツ地形陵夷ニシテ水勢甚ダ迅急ナル故決水アル毎ニ砂石ヲ流下〆耕地ノ害ヲナスコト甚シ」と、一旦大雨が降ると、川筋は変化するし、激烈な水害ももたらし、釜無川との常に氾濫を起こしたという。このため、信玄堤をはじめ多くの治水対策が行われたといえよう。その様子が伺い知ることができる場所である。

 信玄堤のもうひとつの見どころは、山の景観が素晴らしさだ。前面に、右から甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山やその前衛、左手奥に農鳥岳、そしてさらに、その南には、櫛形山がその名の通りの姿をゆったりと見せてくれる。さらに信玄橋の橋上からは南東に、御坂山塊越しの富士山が、また、釜無川の上流方向、正面には八ヶ岳が雄姿を見せ、その右脇には、「ニセ八ッ」と呼ばれる茅ヶ岳がそれらしい姿で並ぶ。

 また、鳳凰三山の前衛が切れ、農鳥岳が覗く裾野あたりが御勅使川扇状地の要となり、大きく扇を開き、こちらに向かってくる景観も面白い。ただ、かつてはこの扇状地あるいはその裾辺りは、果樹園が少し広がっているだけで、典型的な扇状地の姿が遠望できたが、いまは、果樹園や工業団地、商業地、住宅が建ち並び、その形状は不分明となってしまった。

 私が子供の頃、遠足でこの地を訪れた時の印象は、まさに白っぽい大きな扇が南アルプスの裾から雄大に広がられている印象を持った。この印象は、荻生徂徠の「峡中紀行」で「三勅使之川(御勅使川)、川流雖不甚漲、獨長皐之彌望、白砂湧銀、夕陽映之、明月借之、此其奇観」と記しているところを見ると、それほど外した印象ではなかったということだろう。

 この公園は、春はサクラ、秋は紅葉も美しい。ただ、私の好みで言えば、びゅんびゅんと「八ヶ岳おろし」が吹く快晴の冬の日だ。風が痛いほど寒く長時間はいられないが、山の景観は殊更美しい。

 

〇身延詣と富士川舟運

 古典落語として知られている「鰍沢」は身延詣への途上の話で、オチでは「お題目」と「材木」を掛けている。また、「甲府ぃ」という落語でも、身延詣がオチに使われている。豆腐屋の売り声の「豆腐 胡麻入り がんもどき」に掛け、「甲府ぃ お参り 願ほどき」がオチになっている。

江戸期から明治にかけて江戸庶民にとっては、いかに身延詣でが当たり前のことであったことがわかる。この身延詣での道筋は、東海道側からは、興津宿(現・静岡市興津)から入り、現在の国道52号線に沿って、甲州側入り富士川沿いに身延山に向かう。甲府側からは、ひとつは、南に向かい市川大門(現・市川三郷町)経由で富士川の東岸を下り、西島(現・富士川町)というところで西岸に渡り、そのまま南下するコースであった。もうひとつは、甲府から、一旦南西に向かい旧・若草町(現・南アルプス市)あたりで、釜無川を西岸に渡り、そのまま南下するコースであった。これらの道は、甲斐国志では「古時傳遞ハ府中ヨリ三里半ニシテ市川大門宿又三里半ニシテ巖間宿 慶長以後富士川ノ通船開ケテ便道ナレハ西郡鰍澤宿へ遞送ス…中略…鰍澤、黒澤二村川ヲ夾ミ各々口留番所アリ」としてここが河内領との境であり、ここから先、富士川沿って、駿河まで南下するため河内路とも身延道ともいわれていた。

 甲斐国志にあるように、身延詣が盛んであった江戸期には、参詣客は鰍沢で舟に乗り、身延山を参詣し、身延からさらに舟で東海道の岩淵宿(吉原宿・蒲原宿の間の宿)まで下ったという。これは十返舎一九の「諸国道中金の草鞋 身延山道中之記」に記されている。鰍沢では「よきまちにてやどやもよし 此の所よりみのぶへののり合のふねあり」とし、「法花経をよむ鶯のまづさく梅ぞ かじかざハにハ」と「漕ぎつけて祖師のちかひをとなへばや 法(のり)の舟なる鰍沢とぞ」の狂歌も添えている。

 さらに「みのぶより東海どうのふじ川へいづる舟ぢあり…中略…ふねハさかおとしにて、こぐといふことなく、ながるるにしたがひてかぢをとり、一人のせんどう、さおをもちてふねのへさきにたち、川なかへさし出たる岩どもにさおをあててふねのあたらざるやうにいわをよけて、ふねをじゆうにまはす」ような巧みな操船のようだったが、それでも水の勢いは矢のようで、舟がひっくり返りそうな思いをしたと、その急流ぶりを描いている。こうした難路もめげずに、近世に入ると、10月13日のお会式を中心に多くの信者が訪れたという。明治に入り、東海道本線が1889(明治22)年に、中央本線が1903(明治36)年に開通し、そして身延線が大正期に入り順次延伸し、1928(昭和3)年に全線開通すると、富士川舟運はその役割が完全になくなった。

 そんな富士川舟運が通った川筋を一番見るのに良いのは、身延山久遠寺の奥之院にある東展望台だ。この奥の院からの眺望については、江戸中期に書かれた「身延鑑」には「大聖人毎日この峯にのぼり、天下の御きとう、佛法流布をいのりたもふ也、またこの峯より房州小みなとの浦見へ侍るゆへ両親の御はかをおがみたもふと也。まことにこの峯よりハ田子乃入海、三保の松バら、しづはた山、清見ヶせき、伊豆、駿河名所名所残りなく見へ侍り」とし、北には甲府の城下、新善光寺、天目山、塩の山、「さしでガ磯」(現在の山梨市)まで、見えると、大幅に誇張して記されているが、そのくらい眺望が良いことは事実である。ここではふれられていないが、真東には富士川の対岸に天子山塊が連なり、そのはるか上から富士山が大きく顔を出している。

 「身延鑑」が示している眺望の良さは、富士川の川筋が切り込んだ谷が生み出しているといえよう。とくに南に向けては大きな蛇行はないが、ジグザクと山々を遥か彼方まで浸蝕する姿を見せる。南には、波木井川が静岡県境方面から北流し合する谷あいも眺望できるので、

2方向へ向け、空が開けるように感じる。一方、東側の足下は、対岸に波高島、波木井の集落が見えるが、「波」のつく地名は、すぐ上流で南アルプスの最高峰北岳付近から一挙に流れ降りてくる早川の合流点があり、富士川がよく暴れる場所であったことを示し、その対岸を心細そうに単線の身延線が走っているのが見える。ここはまさに富士川の荒々しさをそしてダイナミズムを見渡すことができる場所だ。

 

次回は四万十川を取り上げてみたい。

 

参考・引用文献

「徂徠集. 第5 巻之13-15」荻生徂徠 

  国立国会図書館デジタルコンテンツ

「甲斐国志」

  国立国会図書館デジタルコンテンツ

「諸国道中金の草鞋十二編 身延道中之記」

  国立国会図書館デジタルコンテンツ

 (*読み下しについては、「屋根のない博物館『資料 詩情高瀬船は行く』」を

     一部参照しました)   http://yanenonaihakubutukan.net/2/ayu.html

「身延鑑」宝暦12(1762)年版 国立国会図書館デジタルコンテンツ

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