
〇白水阿弥陀堂
(全国観光資源台帳 hthttps://tabi.jtb.or.jp/res/070061-)
白水阿弥陀堂の立地について全国資源台帳では「JR常磐線内郷駅の西へ約2km、経塚山に三方を囲まれ、南に白水川を望んで建つ。阿弥陀堂の前と左右には大きな池が囲い、浄土庭園が広がる。浄土庭園の中島には北岸の阿弥陀堂に渡るため、南北二本の橋が架けられている」としている。これにさらに付け加えるとすれば、内郷方面から入ってくると、阿弥陀堂を囲む東側の小山の迫り出しが穏やかなせいか、さほど狭隘さは感じないが、常磐道いわき湯本インターチェンジ方面から湯の岳の山裾を回り込み、白水川を渡り隧道をくぐってくると、急に隠れ家の小天地が現れたようになり、三方の緑が迫ってくる感じがする立地だ。
この立地は、樋口忠雄が提起した日本人にもっとも愛されてきたまさに「蔵風得水」型景観ではないかと思い当たる。この景観は「背後に山を負い、左右は丘陵に限られ、前方にのみ開いてる」ものだとし、いわゆる「山の辺」と呼ばれる地なのだ。
この景観が日本人に愛されたのは、島国、温和な気候、森林、山国という日本の自然条件にあり、「この母性的な自然が、古代人の原体験や童や女のような感受性を温存させてきた」からだと指摘している。こうした景観は「『小野』、『小国』あるいは『かくれ里』」と呼ばれて平家落人伝説や桃源郷思想に結びついていくともしており、白水阿弥陀堂の所在するこの地が「内郷」と称されていることからも、この小規模版ともいえよう。
白水阿弥陀堂は浄土思想に基づく建立であることからも、この景観から選択されたことは間違いないだろう。
白水阿弥陀堂は願成寺という寺院の主要伽藍であるが、この寺院がいつ、どのような理由でこの地に建立されたかについては、当時の中央政府の蝦夷征討後のこの地における支配体制の構築とそれに前後してあるいはそれに伴って招来された法相・天台(浄土思想)の東北進出が関係している。中央朝廷からみての辺境地において仏教文化が平泉とともにこの地で開かれたという、大変興味深い観光資源である。
白水阿弥陀堂は、1160(永暦元)年に海道平氏岩城氏の祖と言われる則道(成衡とも)の菩提を弔うため、夫人である藤原清衡の養女徳姫(のちに徳尼)が建立したといわれている。中央から遠く離れ、まさに奥州の南端のこの地で、平泉の仏教文化の片鱗をみせている阿弥陀堂にまつわるこの二人は、前述の歴史的状況のなかでどのような立場にあったのか、少しばかり調べてみることにした。
中尊寺の金色堂は1124(天治元)年に奥州藤原氏初代清衡によって建立されたのであるから、まさに奥州の大乱、「後三年の役」(1083〔永保3〕〜1087〔寛治1〕年)を経て、奥州における支配構造が定まった時期であり、その影響下にあった磐城国で白水阿弥陀堂が建立された1160年頃は3代秀衡の治世で、奥州平泉文化の絶頂期といってよいだろう。
こうした歴史的背景のもと、海道平家岩城氏とはどんな存在だったのだろうか。ただ、その系譜は、これがなかなか一筋縄ではいかないのだ。「いわき市史」によると、奈良時代にこの地を支配していたとみられる「阿部磐城臣一族」が衰亡し、奥州藤原氏の影響下の氏族が侵攻し、新たな支配者となり、これが「岩城氏」の祖源になったのではないと推測しているが異説も多い。
なお、岩城氏の祖については、鎌倉時代に岩城氏の庶流、国魂氏が作成した「国魂系図」は「忠衡」としているが、他の多くの系図では「則道」または「成衡」としているともしている。しかし、これらについては、系譜、史料の間で辻褄が合わず、さらには「則道」と「成衡」が同一人物かどうかも定まっているわけではない。
「後三年の役」のきっかけが、この則道(成衡とも)と徳姫の成婚にあったと伝えられているものの、白水阿弥陀堂が建立された時期との間に70年以上の差の期ずれがあることなどから「いわき市史」では「成衡を岩城氏の祖とするには慎重にならざるを得ない」としている。それではそもそもなぜ岩城氏が「海道平氏」と称され、則道(成衡とも)「海道小太郎」と称されたのかということであるが、「いわき市史」では「海道」は「古代・中世の東北地方では亘理、相馬、いわき浜通り一帯」の地域名称だとしている。
また、平氏との関係については、岩城氏が「平将門の乱」で将門と対立した常陸大掾の平国香の流れとされる一方、衰亡した国造磐城氏の末裔とする説もあってこれも定かではない。ただ「国造磐城氏末裔」説を取ったとしても、「いわき」という立地から考え、婚姻・養子など常陸大掾だった平氏との間に血縁的交流があっても不思議ではないないだろう。残念ながら、残された系図、史料などでは歴史的史料の間の異動が多く、則道が岩城氏の祖であったことも含め、現段階では断定できないようである。
「後三年の役」のきっかけが則道(成衡とも)と徳姫の成婚であったという話の出所は、14世紀に書かれた「奥州後三年記」によるものだ。これによると、前九年の役で朝廷から派遣された源頼義と組んで出羽清原武則は、出羽のみならず奥六郡(奥州北部)を傘下に治め、孫のあたる真衡の時代にはさらに支配力を高めた。ただ、真衡に継嗣がおらず、海道小太郎とよばれた則道(成衡とも)を養子として迎えたという。
しかし、岩城氏と清原氏の血縁的な関係は現在見出せないようだが、清原氏にとって奥州の南部に展開する岩城氏との同盟強化の一環だったのかもしれない。さらに「前九年の役」の際に陸奥国国司だった源頼義が常陸大掾多気権守の娘との間の落とし子で真衡の義弟清衡の養女にしていた徳姫と則道(成衡とも)と結婚させ、いわきの地に居住させたというもいわれている。
これらの経緯について、「出羽清原氏」と「海道平氏」の関係を丹念に系図、諸本を突き合せ研究を進めた佐々木紀一によると、「清原一族を排して海道成衡を後継者、多気致幹孫女をその室に迎へた真衡の意志こそ、後三年の役の歴史的背景となる政治的課題であり、出羽清原氏と海道氏が縁戚に至る関係についても、辺境支配を担ふ事になつた鎮守府将軍・秋田城介等を含む国司系、或は貴種の土着武士と清原氏が提携したとするのが歴史的な位置付けにならう」としたうえで、「出羽清原氏は前九年の役後、東北最南に土着した海道氏と重縁を結んだ事になる」
この歴史的経緯を前提とすると、この則道(成衡)と徳姫の成婚が「奥州後三年記」では、真衡の縁戚者がこの結婚祝いに訪ねた際の対応に不満に思い、異母弟の家衡や義弟の清衡と通じ、一族の権力争いとなり、「後三年の役」に繋がったというのだ。
結局、真衡は内紛の途中で亡くなり、一旦は清衡と家衡で奥六郡を分け合ったが、さらに今度はこの両者で内紛となり、結局は源義家の支援を受けた清衡が勝利し奥六郡の支配者となった。これが奥州藤原氏(清衡は母方の藤原姓を名乗った)の栄華の始まりとなった。
注目すべきは真衡の養子であった岩城則道はそのまま、海道を支配したということだ。これは、岩城氏の独自性、自律性が高かいたためだったのか、あるいは、徳姫が清衡の養女であったことも影響したためだったのか、興味深いところだ。
ただ、この「奥州後三年忌」の記述が正しいとすると、前述したように白水阿弥陀堂との時期のずれの問題が浮かび上がる。「後三年の役」がはじまるのが1083年で、白水阿弥陀堂が建立されたが、1160年とされているので、則道と徳姫の成婚が「後三年の役」がきっかけなったとすると、建立は70年以上後となる。二人の生年ははっきりしないが、どうみても100歳前後となってしまうため、まったく不可能ではないが、どうみても時期的なずれが生じる。
則道が別人であったのか、実在しなかったのか、いまだ確証をえるものは見つかっていない。ただ、言えることは、前九年、後三年のという東北の大動乱の中、岩城一族は、有力であった清原氏や奥州の覇者となった奥州藤原氏と緊密な関係を保ち、南の常陸とは常陸大掾であった常陸へ血縁的にも政略的にも良好な関係を築きつつ、それらの諸家を介し中央朝廷とのつながりを確保したことにより、海道地域の支配を強めることができたという見方はできよう。
また、奥州藤原家の平泉文化が強く反映され、文化・宗教面でも一定の水準を獲得した。それは白水阿弥陀堂を誰が建立したかというより、いまも厳然として、いわきに遺されているということで証明されていると言ってよい。
それでは、最後に、この地に平泉文化の影響かとはいえ12世紀中盤に白水阿弥陀堂が建立されたか、その背景にある古代、中世前半の東北地方で仏教思想の浸透はどのようなものであったか、について簡単に触れてみたい。
東北のへの仏教思想の浸透は、大きく2つの流れがあり、それが連動しつつも一方では、深く土着信仰を取り込んでいくという動きだったのではないかとも思う。ひとつは、律令体制の確立とともに、須賀井新人は「東北地方へ仏教が初めて波及したことを示す文献資料は、『日本書紀』持統天皇 3 年(689 年)正月の記事が最初である。東北地方においては、蝦夷を教化・善導し、辺境の順調な経営と国家護持という役割を担って普及されたものであった」とし、「辺境の安穏、怨敵の降伏を祈ると共に、たえず蝦夷と接して不安な日々を送らなければならない律令官人たちの心の支えと、平安を祈る依りどころとしての役割を果たしたのである」としている。
つまり、鎮護国家と蝦夷の教導という位置づけだったことがわかる。こうした支配層にとって必要な仏教思想が、その後の中世に入り、とくに前九年、後三年の役など東北での大乱が収まった時期には重要な意味を持ったのだろう。それは奥州藤原氏の支配体制が固まると、中央でもそうであったように鎮護国家とともに末法思想に伴う浄土思想やその文化に繋がっていった要因だと思われる。
一方、もう一つの流れは、8世紀末になると最澄と空海が中国から天台・真言の両宗を伝え、教理主義的な南都六宗に対 して実践的な修行を重視する密教を推進し、山林修行を通じ全国各地の霊山信仰などの山岳信仰と結びつき崇敬を集めたことである。密教は神仏習合(本地垂迩)思想を発展させて、地域の自然信仰である山岳信仰などを糾合して修験道という在家型の宗教活動を進展させ、東北地方へも浸透した。8世紀に会津などを拠点に、山林修行の修行を基本とする寺院を開いたという、法相宗の徳一などはその立役者であったが、その後天台、真言の両宗の密教勢力が力を増し、一山組織を確立して勢力を伸長させた。これが羽黒修験であり、葉山修験、鳥海修験などであった。
12世紀に至ると、こうした両面から仏教思想が東北で力を持つようになり、山形の羽黒修験やこの特集でも取り上げた寒河江の慈恩寺などの活動が活発化した。支配層にとっては、平泉文化のような浄土思想を全面展開した宗教活動を行うとともに、修験道など、土着性の強い宗教活動にも民心の鎮撫の意味からも保護を与えていたということだろう。
このような仏教の東北での位置付けなかで、伝承が事実とすれば、中央貴族の血脈と清原氏あるいは奥州藤原氏という地元の有力支配者の庇護にあった徳姫がこの白水阿弥陀堂を建立する意味は極めて重要なのだろう。つまり、東北最南の地で奥州藤原氏の影響力を誇示できる意味もあったのではないだろうか。
そんなことを考えると,幽玄な環境の中にのびやかな立ち姿を見せる阿弥陀堂も背景には現世の政治状況が映し出されているとも思われる。その意味でも興味深い観光資源である。この環境と貴重な建造物が今の状況を保存維持されることを願うばかりだ。
引用・参考文献
樋口忠彦「日本の景観 ふるさとの原型」ちくま学芸文庫
「いわき市史 第1巻 (原始・古代・中世)」1986年 198・217/545 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9571798/1/198
佐々木紀一「出羽清原氏と海道平氏(上)(下)」米澤國語國文 (47) 2018年 山形県立米沢女子短期大学
月光善弘「東北の一山組織の研究」1992年







