東京「白山」から「白山信仰」を辿る旅(Ⅴ) 越前馬場・平泉寺白山神社を訪ねる②
福井県勝山市平泉寺白山神社拝殿
福井県勝山市平泉寺白山神社本殿
福井県勝山市平泉寺白山神社境内
福井県勝山市平泉寺白山神社日露戦役慰霊塔
福井県勝山市平泉寺白山神社楠木正成供養塔
福井県勝山市平泉寺白山神社境内
福井県勝山市平泉寺白山神社境内
福井県勝山市平泉寺白山神社境内
福井県勝山市平泉寺白山神社境内
今回は、平泉寺の全盛期の様子を垣間見て、中世期末における一向一揆による壊滅的打撃、それを受けての江戸期の再建、明治の神仏分離政策がもたらした歴史的遺産の亡失に至るまでの経緯に触れてみたい。そして最後に、現状における白山信仰に関する神社仏閣や史跡の観光資源としてのあり様についても考えてみたい。
全盛期を迎えた平泉寺の様子については、「義経記」に著されている。義経は兄頼朝に追われ、奥州藤原氏を頼って北陸周りで東北に向かうのだが、勧進帳で知られる安宅の関に向かう前夜は、義経が「横道なれど、いざや當國に聴こえたる、平泉寺を拜まん」と望んで平泉寺を訪ねている。その折の平泉寺の対応ついて「かの平泉寺と申すは山門(延暦寺)の末寺なり。されば、衆徒の規則も、山上に劣らず。大衆二百人、政所の勢もひたかぶとにて、夜半ばかりかに観音堂にぞ押しかけたる」と記している。戦国時代には8000人の僧兵を抱えていたというのだから、義経等の偽装した山伏集団に対する警備体制としては当然だったのだろう。その結果、「義経」ではないか、とは疑われるものの、長吏(寺の代表)は、それと知りつつも歓待して送り出すというストーリーになっている。こうした武装勢力としての強力さは、「東京『白山』から『白山信仰』を辿る旅(Ⅱ)」でも紹介したとおり、南北朝の北條勢と対立についても「太平記」に詳しく触れられている。
しかし、これもやがて一向宗の台頭のなかで、壊滅的な打撃を平泉寺は受けることになるのだ。平泉寺は、1574(天正2)年に6千坊あったという堂宇伽藍をほぼ全て戦火で失うことになるのだが、その要因は、当時の複雑な政治状況、権力闘争の渦中に巻き込まれたと言って良いだろう。
15世紀後半から北陸においても一向宗が勢力を伸ばし、一揆などが起こったため、平泉寺と越前を本拠地としていた朝倉氏の間では、争いは断続的にはあったものの、休戦を維持していた。そこへ織田軍の北陸攻めが行われ、平泉寺がその立場を問われることになった。「朝倉始末記」によれば、平泉寺は最後の段階では、大衆の議論のすえ「数代ノ国主ノ忘恩顧致別心者天ノ照覧難量、雖然義景ニ合躰スルナラバ、信長公明日ニモ攻寄寺門破却」として朝倉家には恩顧があるが、信長に攻め滅ばされるよりはと、織田方につくことを選択し、朝倉義景とは命運を一緒にすることはなかった。
しかし、事態はそれで収まらなかった。朝倉義景が一乗谷で自刃したのち、朝倉氏寝返り組が越前の守護代に就いたものの、治政に失敗し一向一揆勢が蜂起することになる。その攻防の中、朝倉一族の寝返り組であり、一向一揆勢と対立してきた朝倉景鏡が平泉寺に逃げ込んだため、平泉寺は一向一揆勢に襲われることとなった。一方で、平泉寺の内部でも内紛もあり、景鏡と平泉寺の大衆(僧兵)は善戦したが、「寺中へ敵透間モナク打入テ放火スレハ、魔風吹散リ諸堂諸房ニ移リシカハ焔火有頂天マテ焼上」して全山を失うことになったのだ。その後、豊臣秀吉や徳川幕府などの支援や寛永寺の末寺への鞍替えなどによって、中心部だけは再建されたものの、往時の勢いを戻すことはなかった。
天保年間(1830~1844)の「分限書上帳」では御朱印高200石とされ、それ以外にも供物料などの名目で約250石を得ていたことになっているが、往時の9万石に比べれば、いかに衰退したかがわかる。それでも白山における境内は約十里(約40km)四方、平泉寺境内から白山境内までの白山禅定本道約7里(約28km)道幅40mを管理下に置いており、別當の玄成院以外に「一山衆徒」は6院あった。また、白山の山中に社堂を多数有しており、平泉寺境内には、現在も残っている本殿、1見附(桁行)6間(約11m)の拝殿(再建前)、3間(約5m)四面の開山堂などが配されていたが、拝殿は全盛期には見附45間あったというのだから、江戸時代ものは、格段に規模が小さい。
なお、白山の山頂の所属については、平泉寺、白山本宮(白山比咩神社)との間で古くからその主導権争いが続き、白山麓18ヶ村の所属も含め、江戸時代には福井藩と加賀藩の争論ともなった。「大野郡誌」によれば、「寛文八(1668)年九月、先是、明暦元(1655)年以來十三ヶ年間紛争ありし、白山下十六ヶ村及荒谷尾添の兩村(現今石川縣能美郡白峯村尾口村新丸村)を幕府の直轄とし、略本郡に屬して、明治維新に及べり」としている。また白山山頂三社の神祭事、遷宮については、文化年間(1804~1818年)の「越前国名蹟考」によれば、「三社御修復の節に越南知一社の導師は高野山へ被仰付大御前別山は玄成院(平泉寺別当)へ被仰付候」として1749(寛延元)年の幕府寺社奉行大岡越前守の裁決を紹介している。白山山頂については、ほぼ、平泉寺、越前藩側の主張が通ったと思われる。
しかし、「石川県石川郡誌」によると、明治の神仏分離がなされた後の明治4年に「太政官は白山社及び牛首(白山下)十八ヶ村を凡そ能美郡に属せしめ、石川縣の管轄とすることに指令あり」として、太政官令を示している。さらに、1874(明治7)年には石川県から内務省に対し「白山嶺上ノ白山神社は同社の本社に候上は、山上ノ社領越前ノ國平泉寺村ノ内高貮百石は、即白山比咩ノ神社へ可相附」と、白山山頂の社は白山比咩神社の「本社」なので、平泉寺村内にある神社領分二百石について、白山比咩神社に付属するように申し入れを行っている。
内務省からの回答は「三宮村の口宮へ白山比咩ノ神社ノ號を被加候儀に付、山上之神社は奥宮と相心得、右廩米(扶持米)は口宮へ所屬可致」とし、扶持米については認めたものの、山上はあくまでも、本社ではなく奥宮だと定義している。これをみると神仏分離によって、式内社であった白山比咩神社は国弊小社に遇されたのに対し、平泉寺側は白山神社として神仏分離はしたものの郷社でしかなく、越前側は全く弱体化したことが分かる。
明治初期の神仏分離政策で1871(明治4)年に廃寺処分となった平泉寺の当時の状況について、「明治神仏分離史料」によれば、平泉寺本坊聖賢院の住職が「復飾神勤」し、「平泉寺白山社」として神社化したうえで、「本殿拝殿鳥居を除くその他の建造物は、悉く破壊せられた、境外の土地立木及び什寶等も賣拂はれた、衆徒六坊末寺三ヶ寺は悉く廢寺」とされた。なお、寺院としては、1905(明治38)年に「平泉寺」として再興し、現在は「歴史探遊館まほろば」の隣接地にコンクリート製の本堂があるが、これにあたる。平泉寺が白山中宮として管理していた「白山天嶺の本尊などを顧みる暇もなく、放任してあったが、麓牛首村(現・白山市白峰)の林西寺が勿體ないとて、嶺より卸し、今も保管」していることについてはすでに述した。
ある意味では、現在遺されている「平泉寺白山神社」は、この神仏分離政策によって抜け殻となってしまったのだ。破壊は境内全域に及んでいるが、現在その残滓が見られるのは、拝殿の右下にある唐突に立つ苔むした石を積み上げた碑だ。これは打ち壊された堂宇の礎石などを使って、1915(大正4)年に建立した、日露戦争までの戦没者の慰霊碑である。
現在の朗報としては、境内地、旧境内地において、地道な発掘調査が行われており、順次、その成果が報告されていることである。
一方で、疑問となるのは、明治の神仏分離政策以前にすでに力を失っていた越前馬場や加賀馬場の白山信仰が東京の白山神社の様に、一定の影響力発揮し続けていたのはどのような理由があったのであろうか、ということである。
ここからは全くの推論になるが、
第一に挙げられるのは、もちろん、越前、加賀、美濃の地元での山岳信仰、農業神信仰などの始原的で民俗的な信仰に対し、どのような教理、宗派が習合したり、影響を与えようとしたりしても、根源な白山への信仰はしっかりと民衆のなかに根付いていたことにあろう。
第二には、中世から近世にかけて、京の天皇家、加賀の前田家、越前の松平家あるいは徳川幕府などの支援が続いたのは、こちらは、天台、真言(白山本宮は江戸時代には転宗)などの宗派が白山信仰を教義的に支え、藩主、将軍、天皇家の厄年祓い、病気平癒、子宝・安産祈願など、多様な祈祷を担うのに、その歴史的、教理的背景などからみて、ふさわしかったのであろう。
第三には、江戸などにおける民衆の崇敬は、おそらくは現世利益に基づくものがベースにあったのだろう。江戸時代の寺社のあり方について「小石川区史」は「當時太平の逸楽になれた市民の信仰が、形式的、遊戯的になつて來た結果で、寺社の参拝は一種の遊戯、保養であり、更に進んでは寺社そのものを娯樂場」とみなしていたという。旧小石川区内において「門前町屋の最も大きなものは、護國寺前の音羽通りと傳通院前表町とであるが、それについでは白山社地門前が主なものであった」とし、私娼がいた茶屋もあったという。
そのなかでも、といわけ白山神社が、なぜ人を集められたのかというと、中世以降に各地の白山神社の祭神となった「菊理媛」の存在が大きいかもしれない。この神は、白山妙理大権現が女神だったという説から結びつけられ、目の不自由である巫女イタコが司祭する古い信仰形態のオシラ信仰とも関係があるとされ、産神、目の神あるいは歯の神ともされた。こうした民間信仰的な現世利益に加え、祭礼の際などには、「日向太夫という放下師(曲芸師・手品師)の芝居があったことで有名」(「文京区史」)だったとしている。白山信仰とこうした特殊技芸の集団との結びつきもあったとされている。
以上のことから、明治維新頃までは、江戸をはじめ、加賀、越前、美濃三馬場以外の他の地域においても白山信仰の命脈は長らえたが、明治の神仏分離政策や思想の近代化によって、忘れられた信仰になったともいえよう。
さて、観光資源としては、白山信仰は燃え尽きた信仰であり、目を見張るような建物、遺構などは現存せず、地味な資源である。しかし、白山信仰は、かつて民衆に密着し、日本の生活に深く根付いていたものだけに、奥深い魅力もある。今回、東京、加賀、越前(美濃には行けてないが・・・)を辿ってみて感じたことは、観光資源としての魅力を磨くとすれば、地域、宗派を越えた連携で大きなストーリー作りをすれば、もっと価値が上がるのではないかと思った。詳細なパンフレットやガイド施設も用意されているが、地域を越えた俯瞰的な視点に欠け、全体像を見えにくいし現地での連動性も低い。
例えば、どうしても白山山頂三社と加賀馬場と越前馬場のそれぞれの関連性のみが強く打ち出されがちだが、石川、福井、岐阜の3県の関係者が連携し、白山比咩神社から白峰地区の林西寺、平泉寺白山神社、そして美濃馬場の長瀧白山神社をつなぐ神祭事、催し、現地踏査会、講演会などが定期的に開催されれば、もっともっと興味深いものになるだろう。
日本の民衆が生んだ山岳信仰の奥深さを世界に知らしめることそのものが、観光資源になるのではないだろうか。
参考・引用文献
「義経記・曽我物語 」武笠三 校 有朋堂文庫 昭和2年 158/414 国立国会図書館デジタルコレクション
福井市史 資料編 2 (古代・中世) 「朝倉始末記」 1989年 474・487/536 国立国会図書館デジタルコレクション
「平泉寺史要」勝山市元平泉寺村 編(昭和5年) 1987年再版 303~6/710 国立国会図書館デジタルコレクション
「義経記・曽我物語 」武笠三 校 有朋堂文庫 昭和2年 158/414 国立国会図書館デジタルコレクション
福井市史 資料編 2 (古代・中世) 「朝倉始末記」 1989年 474・487/536 国立国会図書館デジタルコレクション
「越前国名蹟考」巻7~9 井上翼章編 中村興文堂ほか 明治35~36年112/119 国立国会図書館デジタルコレクション
「石川県石川郡誌」昭和2年 30/651 国立国会図書館デジタルコレクション
「白山比咩神社叢書 第5輯」1934年 41/61 国立国会図書館デジタルコレクション
「明治治神社誌料 府県郷社 中」 明治神社誌料編纂所 明治45年 715/982 国立国会図書館デジタルコレクション
「明治維新神仏分離史料 下卷」 村上専精, 辻善之助, 鷲尾順敬 共編 東方書院 1928年
「鶴来町史 歴史篇 近世・近代」鶴来町史編纂室 編1997年 45/349 国立国会図書館デジタルコレクション