top of page

​里の風景編

​サムネイル画像をクリックすると画像が大きくなります。

日本の「里」

 私にとって「里」を象徴するのは、バス停だ。この場合は終点が良い。山のどん詰まりの集落に、バスが転回する場所と掘立小屋のような待合所があるのが良い。その先の集落には、歩いて峠越え、なんて話を聞くとなおさら、私の中では日本の里なのだ。

 いまは、全部、マイカーで、峠越えなんかしない。立派なトンネルができている。でも、私の中での「里」と言うと、バスの終点なのだ。しかし、よく考えてみると、こうした村がバスの終点だった、歴史は意外に短い。

 路線バスが最初に走ったのは、京都市内らしいが、それが明治36年(1903年)、埼玉県内では大正5年(1916年)というから、もし、いまでもこのシチュエーションが残っていても100年足らずなのだ。実際は、もっと、短い命だった。

 里においては、江戸時代は、基本的には、歩き、明治になっても、基本的には歩きだが、馬車、人力車なんてのもあったかもしれない。そこに軽便やバスが入って来た時の交通革命は、いま、考える以上にインパクトがあっただろうと想像に難くない。それは村里の経済構造を大きく変えたの違いない。江戸時代から商品経済の浸透は始まっていたが、より一層自給自足的な側面を失う契機になったのではないか、と、思う。でも、バスの終点は、まだ、その結節点にあったような気がする。そこから山深い集落へは、当時は歩いていただろうから・・・。幻想かな。バスの終点は、日本の村の崩壊過程を見つめていたのかもしれない。学生時代、ひとつの解として求め、いままた、もう一度、読み返してみたが、「小国寡民・我慢の知」である守田志郎の「小さな部落」の世界は、圧倒的な消費経済とグローバル化のなか、「資本と欲望の論理」の専横によって、もう成り立ちえない。それとともに、良いか悪かでなく、ともかくも日本の「里」の景観も大きく変わったしまった。

 でも、いまでも、バスの終点だった集落は、山襞から人々が集まっていただろう痕跡は残る。それは米などの蔵、古い農協の事務所、古ぼけた本校の機能があった小学校、火の見櫓、そして小さな市場があった広場や小屋・・・。

 そこに近世から近代にかけた日本の村里の姿を、ほんの少し、いまでも垣間見せてくれる。いまは、お年寄りが石垣の前に座って、数少ない車の往来を、世間話をしながら、見つめている。今の日本では「里」の将来は、描き切れていない無念さはあるが、でも、この静けさが好ましい。  典然

bottom of page