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東京「白山」から「白山信仰」を辿る旅(Ⅲ)    加賀馬場・白山比咩神社を訪ねる

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白山比咩神社拝殿

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白山比咩神社参道

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白山比咩神社参道

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白山比咩神社奥宮遥拝所

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白山比咩神社手水舎

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白山比咩神社荒御前大神

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白山比咩神社神馬

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白山市白峰地区林西寺

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白山市白峰地区=重要伝統的建造物群保存地区

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白山市獅子吼高原 白山側の眺望

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白山市獅子吼高原 日本海側の眺望

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小松市那谷寺

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​岐阜県(美濃)側に続く国道360号線
 

 前回までは東京の「白山」の地名から入って、「小石川白山神社」の所在地の変遷や由緒を求めて漂泊してみたが、いまひとつ白山信仰の神髄とやらが見えない。そこで、白山信仰の修験者たちが修行しながら白山に登拝する道筋、白山三禅定道(加賀、越前、美濃)の起点であり、振興の拠点の三馬場のうち、石川県の加賀馬場と福井県の越前馬場のあったところを訪ねてみることにした。

 なお、「禅定道」は、登拝路のことを指すが、禅定は「智慧を得るために精神を集中させること」を意味しており、登拝そのものが修行の一環となっているという。また、「馬場」は、この地が、馬でアクセスできる最後の場所からきているとされている。

 

 まず、金沢市内から加賀馬場の中心拠点である白山比咩(しらやまひめ)神社を訪ねることにした。

加賀馬場に向かうには、金沢平野を手取川にぶつかるまで国道157号線を南下して、鶴来という街を目指すことになる。正直なところ、この道は地方中核都市の郊外にありがちな、全国チェーンを中心とした郊外店が建ち並び、変哲もない、面白い味のない景観が続く。ちょうど手取川が平野部に流れ出るあたりにこの鶴来の街がある。ここは、白山比咩神社とこの地の氏神であり、白山信仰と関係が深い、古くは劔宮(つるぎのみや)と呼ばれた金劔宮(きんけんぐう)の門前町として発展したという。地名も剣からきているというが、この町もなんとも中途半端な発展の仕方で、門前町の落ち着きは、近代化、地方中核都市の郊外化によって失っている。

 金劔宮は、鶴来の街の東側の河岸段丘の上に手取川と街並みを見下ろす高台にあり、中世以来白山本宮(白山比咩神社)・三宮・岩本とともに本宮四社といわれ、加賀馬場における中核的な役割を果たした宮でもあるが、深い社叢に包まれてはいるものの現在は小さな社殿が建つのみである。

 現在、主祭神は天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)としているが、白山本宮の縁起である平安後期の「白山之記」(しらやまのき)では、この社の祭神は「白山第一王子」で「本地倶利伽羅明王 垂迹男神」として、具体的な神名には触れていない。「明治神社誌料」では「當社の祭神は一定せず、文政十一(1828)年上記及び大永神書によるに、天津彦火瓊瓊杵尊を祭ると傳へ」として、後代に現在の主祭神を特定したと考えてよい。これは、民俗信仰としての山岳信仰が根源にあるからだろう。

 金劔宮から、市街地を抜けて南に向かうと北陸鉄道石川線の廃線区間にあった旧加賀一の宮駅の駅舎が建っている。この裏手はもう手取川が流れており、「安久寿の淵」と称される場所で公園になっているが、この場所にかつて本宮(白山比咩神社)があったとされている。昭和初期に作成された「白山神社考」によれば、創建当初本宮のあった場所について、中世の同社神主建部氏の伝記から白山を開山した「泰澄」が石室に籠り「観念(心静心静かに智慧によって一切を観察すること=精選版日本国語大辞典)」したのが、手取川東岸にある船岡山だったとしている。江戸後期の白山長吏澄固の「社殿ありしこと舊記古記録に徴證なし」とする説や江戸末期から明治期の郷土史家(石川県庁にも出仕していた)森田平次が「安久壽ノ淵上の地を社地と卜定(占いで定める)せしは元正天皇の御世靈亀養老(715~724年)の頃」だという説を紹介している。

 しかしながら、この本宮は1480(文明12)年に社殿が焼亡し、この地での再建ができずに、長享2(1488)年に三の宮の社殿を本宮として「永久鎭座の事に議定し、于レ今(いまにおいて)此社地に鎭座せり」としている。これが現在、白山比咩神社の社殿がある場所である。

 いずれにせよ、この地は平安前期から室町前期においては、白山三禅定道の起点のひとつである加賀馬場の中心として白山本宮(白山寺)と称され、全盛期を迎えることになる。平安後期の1163(長寛元)年に成立したといわれる「白山之記」には、その壮大な全体像が記述されている。

 「白山之記」では、まず、加賀馬場の優位性について「三ヶ馬場者、加賀馬場、越前々々、美乃々々、加賀馬場者本馬場也、三ヶ馬場ヨリ参合之時ハ、加賀馬場先達御戸を開也、御山ヲ進退シ、諸事沙汰、加賀馬場沙汰也」としている。もちろん、これは白山本宮の自らの優位性を語るために作成された「白山之記」であるので、当然ながら、とくに主導権を争った越前馬場側と見解が異なってくる。

 そのことは別としても、加賀馬場の神社仏閣の陣容は「加賀下山七社ハ、白山、金劔、岩本、三宮、此ヲ本宮四社ト號ス 中宮、佐羅、別宮、此中宮三社ト號ス」とし、さらには「白山五院」の「柏野中宮末寺 温泉寺、極楽寺、小野坂 大聖寺」を擁して、後には3院も加え建立されたとしている。この五院は、山を完全に下った山代庄(現・加賀市の一部)にあったという。また、「中宮八院」として「護国寺、昌隆寺、松谷寺、蓮花寺、善興寺、長寛寺、涌泉寺、隆明寺」を挙げ、軽海郷(現・小松市の一部)にあったとされ、三ヶ寺として「那谷寺 温谷 榮谷」の寺号も記している。

 白山本宮の堂宇の規模は715(霊龜元)年に「有勅命、被造之四十五宇神殿仏閣」と勅命により45宇の神殿仏閣が造立されたとしている。その中には、本宮社はもとより本地仏の十一面観音を収める十一面堂、寶殿、講堂、鐘楼、五重塔などが林立していたようだ。現在の白山比咩神社となる三宮にも 寶殿、本地仏の千手観音を収める彼岸所、講堂、鐘楼などがあったとされる。

 ただ、面白いことに、これだけの規模がありながら、10世紀初頭に編纂された延喜式神名帳の式内社のなかでは、白山比咩神社は加賀国一宮でありながら、小社として位置づけられ、越前国一宮の氣比神宮や能登国一宮の気多大社は官幣、国弊の大社である名神大社(神名帳記載2861社のうちの224社)となっているに比べ格下となっている。また、神階について言うと、社格とは必ずしも連動するものではないが、延喜式成立前の853(仁寿3)年では、白山比咩神社は「従三位」であるのに対し、気比大社は850(嘉祥3)年にすでに3階級上の正二位になっており、気多大社も853(仁寿3)年に「正二位」となっている。859年(貞観元年)にはそれぞれ。859(貞観元)年には、気比は従一位、気多は正一位となっており、ここでも9~10世紀では、神階も低かったといえる。

 これは、何を意味するかということだが、推測すると、延喜式成立当時、社格が低く神階もそれほど高くない理由を2つほど挙げてみると、ひとつは加賀国の成立が遅かったことと、他の2社と創建の立ち位置に違いがあったのではないだろうか。

 まず、気比神宮のある越前国は、北陸道ではもっとも古くから国として成立しており、気比大社の主祭神である気比大神(別名:伊奢沙和気大神之命あるいは御食津大神)やその鎮座する場所について、古事記、日本書紀にも記載が見られ天皇系と関係が深く、朝鮮半島、大陸との外交関係からも重視される位置付けであったことから、古代においては北陸道全体に影響力があった。気多大社のある能登地方が越前国から越中国に併合された後、能登国として分立したのは757(天平宝字元)年で、加賀国は越前から江沼郡と加賀郡が2郡で分立した、823(弘仁十四)年より70年ほど早い。また、気多大社自体も主祭神は大己貴神(大国主命)など出雲系の神を祀り、天皇家との関係が深く、越中国から分立する前は越中国全体の一宮であった。また、地理的にも、人流的にも朝鮮半島、大陸と近い位置にあったため、それに関する伝承、縁起も残され、古代から最重要視された霊地であったといえよう。 

 748(天平20)年には越中国の国司であった大伴家持も同社を訪れ、万葉集に「気太(多)神宮に赴き参り、海辺を行きし時作れる歌一首『之乎路から 直越え来れば羽咋の海朝なぎしたり船楫もがも』(志雄街道から、真直に越えて来ると、目の前に羽咋の海が朝凪している。ああ船や艪櫂が欲しいなあ。訳:佐佐木信綱)と詠んでいることからも、当時すでに越中国一宮として確立していたことが分かる

 それに対し、白山比咩神社の社格、神階が相対的に低かったのは、白山信仰が地域に根付いた山岳信仰であり、地元民の神々であり、「泰澄」等が神仏習合の思想を取り入れ、修験道として確立していった経緯があったため、京などで認知、広布されるのに歳月が必要だったのだろう。

 在地の信仰を神仏習合の教理に取り入れていった過程は、祭神、本地仏の解釈の変遷にも表れている。柳田国男は白山信仰の根源について、「我邦の山岳信仰の、是は普通の型とも見られようが、それをシラ山と名づけたのには、或いは埋れたる古い意味があるのかもしれぬ。加賀の名山などは、夙(はや)く白山(はくさん)と字音に呼ぶことになっており、これを菊理媛の神の故事に結びつけた神道家の説も新らしいものではないが、今までの常識者はむしろ春深くまで、消え残る高嶺の雪を聯想して怪しまなかった。しかし考えてみれば是もやや無造作に過ぎて、命名の詮もないようである」に呼応していると思われる。

 つまり、単純な神体山としての民俗信仰のみならず、さらにその奥に「シラヤマ」から「白山(はくさん)」への系譜は奥深いものがあり、「産屋」、「産道」、さらには「蚕」「稲の蔵置場」などの古語(「シラ」)からの転訛があって、極めて人間の営為、生産に関係する信仰から始まっていることが窺わされ、農業神、水分神とも理解されているという。

 こうした民俗信仰に上に、神仏習合の思想が仏教の影響を受けた高僧「泰澄」らによって取り込まれ、教理化されるプロセスがあった。

 白山比咩神社の縁起である、「白山之記」には、白山山頂の三座(御前峰、大汝峰、別山)について、「名山號白山、其山頂名禅定、住有徳大明神、即號正一位白山妙理大𦬇(菩薩)、其本地十一面觀自在𦬇(菩薩)」「北並峙高峯、其頂住大明神、號高祖太男知(大汝または越南知)、阿彌陀如来垂迹也」「南去数十里、有高山、其山頂住大明神、別山大行事、是大山地神也、聖観音垂迹也」と、「白山妙理大菩薩=十一面観音、高祖太男知=阿弥陀如来、大山地神=聖観音」として神名と本地仏の関係を示しており、とくに現在の白山比咩神社の主祭神とされる菊理媛命とは結びつけていない。

白山本宮の条でも、「本地十一面観音、垂迹女神、御髻(たぶさ)御装束如唐女」としか表記していない。また大汝峰の「太男知」が「大汝」ということであれば、山の女神の出産に立ち会い恩寵を受けた狩人の「大汝小汝」伝承につながるとも考えられ、別山は明確に「大山地神」としているので、「白山之記」は山岳信仰の流れをそのまま表現し、本地垂迹の仏教教理に整合させていったと言ってよいのだろう。

 白山の山頂の神々は、中世以降、白山三所権現といわれるようになり、3つの峰(御前峰、大汝峰、別山)にはそれぞれ三座の神(白山比咩大神⦅しらやまひめのおおかみ⦆=白山妙理大権現=菊理媛命⦅くくりひめのみこと⦆、大山貴命、大山祇命)が祀られ、一方、里宮である白山比咩神社は、現在、主祭神は白山比咩大神(=白山妙理大権現=菊理媛命)で伊弉諾命、伊弉冉命が合祀されていると、整理されていく。

 白山信仰の象徴的な存在である主祭神の白山比咩大神(白山妙理大権現)の本地仏が十一面観音で、「泰澄」が霊験を受けたとされるものの、どのような出自の神であるかについては諸説ある。しかも、菊理媛命と同一神とみなされるようになったのは、鏑木勢岐の「白山祭神考」によれば、初見は大江匡房の「扶桑名月集」(11世紀末成立か)だとしているので、後付けされたことは明確だが、その理由についても諸説あり定まっていない。

 こうした過程を辿ったため、確かに気比神宮や気多大社に10世紀前半までは後れをとったが、教理化が進んだ白山比咩神社は、その後、順調に昇進し、1141(永治元)年には正一位となり、神階においては完全に追いつき、この時期の白山信仰の拡張、発展が著しく、京での浸透度も高くなったあらわれともいえよう。

 これらの神階の昇進をみるだけでも、中世においては、白山信仰は白山本宮をひとつの頂点とした加賀馬場には大規模な宗教集団が存在していたことが分かる。ただ、この組織は越前、美濃の他の馬場とは協調できず、教団化することもなかったため、一向宗の登場とともにその勢力を格段に落とすことになるのだ。

 

 さて、こうした古代から中世までの同神社が置かれていた状況を踏まえたうえで、かつての三宮であり、江戸期の白山本宮、現在の白山比咩神社の社殿がある場所へ向ってみたい。 

 本宮跡近くの旧加賀一の宮駅舎から手取川から県道179号線を南に進むとすぐ左側に鳥居と駐車場がみえ、ここからは表参道を歩くことになる。また、一本山側に入った県道103号線で行くと、左に曲がると獅子吼高原(標高650m)へのゴンドラ乗り場に行く交差点の反対側にやはり鳥居があり、表参道より一段上の駐車場となり、本殿のすぐ横から境内にはいることができる。

 表参道は、河岸段丘に沿って拝殿に向かい、徐々に上っていっており、左手は小急崖、右手は、かつて手取川の氾濫原であったところに水田や住宅が広がっている。こんもりと杉木立が続き、まさに木下闇(こしたやみ)のなか、時折、右手から木洩れ日が入り、幻想的な感覚に包まれるようにして、緩やかな坂道を上っていくことになる。県道103号線沿いの上段にある駐車場から境内に入ると、この雰囲気を味あうことはできないので、ぜひ、この250mほどの参道は歩きたいものである。

 なお、横道にそれるが、獅子吼高原はパラグライダーのメッカということもあって、神社境内からも色とりどりのパラグライダーのキャノピー(翼)が空に舞っているのが良く見える。また、高原に登ってみると、日本海を見渡すことができるとともに白山の山深さを実感できるので、ぜひ立ち寄ってみたいところとして挙げておきたい。

 現在遺されている本殿はというと、前田家によって1770(明和7)年に再建されたもので、弊拝殿の奥に立地し、こんもりとした社叢に囲まれているため、よく観察できないが、全体としては加賀一の宮とされるわりには、意外と規模感がなく、荘厳さもさほど迫ってはこない。これは境内全体としても奥行き感がないことにも通じる。おそらく、室町時代中、後期を通じての一向宗との戦いに敗れ、江戸期に前田家が再興保護したと言いつつも、結局は全盛期の勢いは取り戻せなかったということだろう。 

 また、明治期における神仏分離政策がこの地において徹底的に行われた故、修験道的かつ仏教的なものが排除されてしまった結果といってよい。大正時代にまとめられた「明治維新神仏分離史料」の上田三平の報告によると、「石川縣に於ける維新當時の神佛分離處置は、厳重を極め、神社に於ける佛教關係の事實は極力排毀に努めたり」とし、「本地堂」は1869(明治2)年に売却、「地蔵堂」は1868(明治元)年破却、「長吏」は還俗したあと没落し家屋は売却し取り壊したという。

 さらに十一面観音像など仏像は他に移されたり、放置されたりで、鐘楼堂、梵鐘、鰐口なども破却されたという。また、それまでは一般的にはこの地の神仏習合の宗教施設は白山本宮、あるいは白山権現と称していたが、これを排し、この時期、1869(明治2)年からは延喜式にある「白山比咩神社」と呼ばれるようになった。前述の森田平次については、県の神社係として「佛教を嫌ひ、由緒縁起に加筆して、神社の来歴を改めたる處多く、爲めに佛教關係の史料は殆ど破毀して省る處なし」と上田三平に指弾されている。

 これにとどまらず、1874(明治7)年には白山本宮での破却行為みならず、山岳信仰の根源である白山三山(別山・御前峰・大汝峰)山頂の三社にある修験道、仏教系の仏像、泰澄や役行者の木造、諸仏具を森田平次が主導し下山させたが、地元住民から強い反対運動も起こった。このため、石川県は教部省に対し、「白山下山佛躰等處分方御届」を提出し、「麓十八ヶ村ノ邑民嘆願ノ次第モ有之、他所へ移シ候テハ、人情ニモ關係致候ニ付、十八ヶ村へ下渡シ、右村落ノ内、牛首村林西寺ト申眞言宗寺院ヘ爲指預、同寺本堂へ安置爲致、且佛具ハ區會所へ下附」したとしている。要するに、修験道、仏教の仏像仏具を山頂より下ろしたものの、白山信仰を崇敬する地元民に対し、下げ渡さなければならなかったというのだ。この時の7体と泰澄坐像については現在も白山市白峰地区の林西寺で公開されている。

 このような歴史的経緯から、本宮四社のどの社も現在は全盛期の面影を全くと言って失われている。また、中宮三社(笥笠中宮神社、別宮、佐羅〈佐良早松神社〉)についても、この三社は白山の各峰の山頂にある霊場と加賀馬場の「下白山」と称される本宮(白山比咩神社)との間をつなぐ重要な霊地であったが、現在は岐阜県の白川郷に向かう国道360号線沿いの白山一里野温泉スキー場までの間に小さな社殿が建つか、旧跡地を遺すのみだ。

 しかし、それでは、この地が白山信仰の歴史を訪ねるのにふさわしくないかというと、それは違う。加賀禅定道の沿道に点在する、神社仏閣、史跡は、決して派手ではないが、かつて修験者たちが修行に専心した雰囲気を十分に醸し出しているし、沿道の集落も白山を農業神、水分神として崇め、営々と耕す続けきたを景観には癒される。

 ただ、この地を訪れ、深くこの地の良さ、面白さをあじあうためには、白山信仰に対する理解は欠かせない。惜しむらくは、現地において、この白山信仰関連史跡や神社仏閣などつなげたストーリーや全体像が提示されていないし、博物館、歴史館を含めたガイド施設が貧弱なことだ。

 次回は越前側の越前馬場の中心であった、平泉寺白山神社を訪ねてみたい。

参考・引用文献

「白山之記」 史籍集覧 第17冊改定 明治36年 125~129/415 国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/pid/1920331/1/125

「明治神社誌料 : 府県郷社 中」 明治神社誌料編纂所編 明治45年 756/982 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278/1/756

白山比咩神社叢書 第5輯「白山神社考」昭和2~9年 32/61 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1116292/1/32

「史籍集覧 第17冊 改定 白山之記」明治36年 127・128/414 国立国会図書館デジタルコレクション   https://dl.ndl.go.jp/pid/1920331/1/127

「明治維新神仏分離史料 巻下」 東方書院 昭和2年 431/621 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1178600/1/431

「延喜式 : 校訂 上巻」 皇典講究所・全国神職会 校訂 大岡山書店 昭和4年 209・212・213/401 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1442211/1/209

「鶴来町史 歴史篇 原始・古代・中世」鶴来町史編纂室編 1989年 20・81/325 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540760/1/81

氣比神宮HP https://kehijingu.jp/

國學院大學「神名データベース 気比大神」

http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/kehinookami/

気多大社HP https://keta.jp/history/

佐佐木信綱「万葉集(現代語訳付)」Kindle版

柳田 国男. 「柳田国男作品集・26作品」Kindle 版 「海上の道『稲の産屋(島々の一致 シラという語の分布 稲と白山神)』」

「石川県史 第1編」昭和2年 176・177/736 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/1186713/1/176

鏑木勢岐「白山祭神考」大正14 5/15 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/924831/1/5

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