江戸の寄席・東京の寄席(Ⅰ)
2023年2月号
下谷神社江戸名所図会7巻 50(52)
国立国会図書館デジタルコレクション
現在の下谷神社
下谷神社 寄席発祥之地の石碑
春廼家 幾久 春色三題噺 初編元治元・二編慶応二刊東京都立中央図書館 加賀文庫
春廼家 幾久春色三題噺 初編元治元・二編慶応二刊東京都立中央図書館 加賀文庫
岡本万作のちらし図 「落話中興由来」国立国会図書館デジタルコレクション
三笑亭可楽落語会団扇図表面「落話中興由来」国立国会図書館デジタルコレクション
三笑亭可楽落語会団扇図裏面「落話中興由来」国立国会図書館デジタルコレクション
下谷神社江戸名所図会7巻 50(52)
国立国会図書館デジタルコレクション
尚古堂主人「江戸の花 温故知新」1890年 博文館 国立国会図書館デジタルコレクション
明治25年の落語家番付 圓朝全集巻之13 昭和3年 春陽堂 国立国会図書館デジタルコレクション
平出鏗二郎 東京風俗志 下 明治35年 冨山房 国立国会図書館デジタルコレクション
下谷神社に立つ正岡子規の句碑
JR上野駅正面口から昭和通りを越え、400mほど東へ進むと、住宅や町工場が並ぶ通りにちんまりと下谷神社がある。けして大きな境内や社殿ではないが、周囲の街並みにしっくりとはまった感じがする。境内には1798(寛政10)年に初代山生亭花楽(現・三笑亭可楽)によって、この神社で初めて寄席が開かれたということで、「寄席発祥の地」の石碑が建っている。
もっとも、この下谷神社の所在地は、点々として遷座しており、1682(天和2)年に成立した、戸田茂睡による江戸の地誌「紫一本(むらさきのひともと)」では「下谷稲荷」として紹介されており、「此宮は前下谷御徒士町のうち三明院の東」にあり、その後「社地を廣徳寺前秦宗寺の向ひにうつさる」としている。「明治神社誌料」でも同様に「創立年代詳ならず、古の下屋村の産土神なりと云傳ふ、社傳に據るに、もと上野忍ヶ岡に鎮座、寛永四(1627)年上野下寺の地に遷座」し1680(延宝8)年には現在の台東区役所近くに遷座したとしている。
創建については社伝では「天平2年(西暦730年)」としており、祭神は「大年神」とされる。この大年神は、「古事記」では素戔雄尊の子で五穀を主宰する神として登場している。これについて、本居宣長は「古事記伝」で「登志(トシ)とは穀(タナモツ)のことなる…中略…穀を一度取リ収ムるを、一年(ヒトトセ)とは云なり、されば登志と云名は、穀を本にて、年月の登志は末なり」と解説し、年神は五穀の神だと説明している。もともとはこの神は先祖霊を祀る習俗と穀・田の神への民間信仰が結び付けられ、後には商家では福の神としても扱わられるようになった。
「稲荷社」と称されるようになった時期は不明だが、おそらく祭神の大年神の商売繁盛の御利益に関連して勧請されたと思われ、現在も境内社として、鎮座している。天保期(1831~ 1845年)の「江戸名所図会」にも「下谷稲荷社」として挿絵付き所載されているところからみると、江戸期を通じ、同地の鎮守として、「お稲荷さん」として崇敬を集めていたといえよう。明治期に入り、神仏分離令の影響もあって、入谷稲荷社から入谷神社に名称が変更され、関東大震災後の区画整理によって、1927(昭和3)年に50mほど東南の現在地に遷座している。
この神社の歴史からみれば、いかに地元に密着した神社であったかがわかる。それだけに民衆の娯楽であった寄席の発祥がこの地であったことは十分に頷くことができる。
そもそも寄席で語られる落語の源流は、元禄期(1680〜1709年)に京の露乃五郎、大坂の米沢彦八が滑稽な話を語る「辻噺」といわれ、江戸では鹿野武左衛門が茶屋、屋敷に呼ばれて、小咄などをする「座敷噺」だとされる。これが「同好の士の趣味的な会咄」へと繋がり、こうしたいわばセミプロたちの集まりは、江戸では天明期(1781~1789)年から、大阪ではそれより早く安永期(1772~1781年)から盛んになっている。暉峻康隆はこの東西の「会咄」の流行を促したのは、「宝暦・明和期(1751~1771年)の上方における中国笑話の訓訳であった」とも解説している。こうした東西の「会咄」の場で多様な話芸が磨かれ多くの演目が作り上げられた。式亭三馬によれば、その中心となったのは、「江戸において落話中興の祖ハ立川談洲楼 烏亭焉馬老人」とその名を挙げている。これらのセミプロともいえる噺家をバックボーンとして、江戸では初代山生亭花楽(後の三笑亭可楽)が興行としての寄席を開き、プロ化していったといえよう。
下谷神社が「寄席発祥の地」とされているのは、暉峻康隆によれば、「職業的な落語家」による興行形式の「寄席」が初めて行われたということのようだ。また、近世風俗誌「守貞謾稿」によると、上方では辻咄の延長として講釈場で行われたので「しゃく場」と呼ばれ、江戸では座敷咄から発展したため「寄せ場」・「寄せ」、あるいは「寄席」と称されたとしている。幕末には、上方でも講釈場と寄席が分離し、「寄席」の呼称が一般化したとも紹介している。現在も上方落語を演ずる場合、釈台が用意されるのは、これが由縁ともされる。
初代山生亭花楽(後の三笑亭可楽)が江戸での寄席興行の鼻祖だとされるが、こちらも実は、上方から下ってきた岡本万作の興行の影響があったという。式亭三馬の「落話中興由来」では、「昼夜をいわず披講するはじめは寛政十(1798)年戌午六月大坂下り岡本万作といふ者神田豊島町藁店の講席を勤む是すなわちヨセへ出て披講し料物を得る叓(事)はじまり也」とし、その「ちらしの図」も掲載している。山生亭花楽も、これに倣って同月に「下谷稲荷社」で「ヨセ」を開いたが、それまでは櫛の職人でセミプロ的に「会咄」で芸を磨いていただけだったため、「下谷稲荷社」での公演では芸や仕込みの咄が追い付かず、結局5日間で打ち切られ興行的には失敗したという。
その後、山生亭花楽は「櫛を製すべき道具をはじめ伝来の家財」を売り払って「武州越ヶ谷に赴き十月一日より講席を構へりたるが一人の料物十二銅(文)に定めて大に流行」したとされている。ここで、花楽の名は、活け花の師匠と間違えられると指摘され「三笑亭可楽」に表記を変えたという。やがて三題咄などで、人気を得て専業の落語家となっていくが、それでも「落話中興由来」によれば、「當時日本橋上槇町に住す 七小町かき餅五色あられなどを鬻(ひさぎ)たりしが、文化十(1813)年の頃より廢せり」としているので、「職業的な落語家」といってもこの時期までは兼業していたとみられ、このあたりから専業化していったと思われる。「落話中興由来」にはこの頃に催された三笑亭可楽の落語会披露用の団扇に描かれた絵と紹介文も掲載されている。
さて、当時の寄席の出し物や小屋の様子はどうであったかというと、「落話中興来由」では「浄瑠璃 小唄 軍書読み 手妻 八人芸 説経 祭文 物まね尽しなどを業とする者を宅に請して一席の料を定め看客聴衆を集る家あり 此講席、新道、小路に数多ありて俗に寄セ塲或はヨセと略してもいふ」とし、「今専ら落語を講ずる事となりぬ」としている。『寛天見聞記』によれば、「今の噺し家とて落し咄しする者は寛政の頃は稀にありし竪川の談州樓焉馬又はからく夢樂抔ばかりしが夫々に晝じゃ家業ありて夜計り咄しする其時分は今の寄といふ塲所も定まらず芝居休の頃ニ町まちの茶屋の二階又は廣き明き店など五六日づゝ借受て咄す事也し」と記されており、最初は不定期の開催だったものが、文化期に入ると、一町内に2、3ヶ所は寄席の看板に行燈をかけた寄席が現れ、専業の芸人に出演するようになったとしている。
「守貞謾稿」には「江戸ノ寄ハ履ヲヌク料ノ土間 入口内ニアルノミ其他ハ床也。又市中ニアルモノハ二楷屋ニテモ下ニテ之ヲ行モアリ。或ハ下ヲ住居専トシ二楷ヲ寄ノニ造リタル多シ」と寄席の構造が記されている。
つまり、寛政年間(1789~1801年)には、まだ、江戸の堺町、葺屋町(東京都中央区日本橋人形町付近)などの芝居町の小路、裏街の芝居茶屋の二階や、空き家を数日借りて興行をしていたが、文化年間(1804~1818年)には町家などを利用しているものの、定席が確立され、芸人にも出し物により専業化が進んだ。初代山生亭花楽(後の三笑亭可楽)の例もそれに漏れない。そして、この時期に三題噺をはじめ、滑稽話や人情話などの演目も格段に増え、話の最後に気の利いた結びを入れる「オチ」あるいは「サゲ」も定着し、一人で語る話芸として確立していった。
それでは、当時、寄席は江戸市中にどのくらいあったのか、ということが気になる。1830(文政13)年発刊の江戸風俗誌「嬉遊笑覧」によると1815(文化12)年の頃には「江戸中に七十軒ありそれより十年ほど經る内に百二十五軒となる」としている。ただし、この後、天保の改革で 女浄瑠璃が標的にされ、「天言筆記 藤岡屋由藏日記」によると、1840(天保11)年10月から「町々素人家にて寄せと唱、見物を集め坐料を収」めることを取り締まり、1841(天保12)年11月には「御府内寄場席にて、浄るり語り居候處被召捕」るといった厳しい措置が取られた。1842(天保13)年3月には音曲鳴物が禁止し、噺(咄・はなし)と講釈だけとされ、席亭については、30年来の新規の分を取り潰しとなって15軒にまで絞られてしまった。
しかし、1845(弘化元)年になり、寄席勝手次第となり急激に寄席が増え、幕末には軍談220軒、落語172軒まで急増したという。現在、上野広小路にある鈴本演芸場もこのなかで、「軍談本牧亭」として誕生した。
明治に入ると、「寄席取締規則」が定められ、寄席は「藝人の講談・落語・浄瑠璃・唄・音曲その他の演藝を公衆に聴聞せしむる場所」と定義された。明治期の寄席について、「半七捕物帖」などで知られる作家岡本綺堂は「近所の寄席へ行くと、かならず近所の知人に出逢うのであった。私は麹町区元園町(此頃は麹町二丁目に編入されてしまった)に生長したが、近所の寄席は元園町の青柳亭、麹町二丁目の万よし、山元町の万長亭で、これらの寄席へ行った時に、顔を見識っている人に逢わなかった例は一度もなかった」とし、「時に多少の盛衰はあったが、私の聞いているところでは、明治時代の寄席は各区内に四、五軒乃至六、七軒、大小あわせて百軒を越えていたという。その中でも本郷の若竹亭、日本橋の宮松亭を第一と称し、他にも大きい寄席が五、六十軒あった」ともしており、いかに庶民の娯楽として多くの寄席が開かれていたかが分かる。これを裏付けるように1903(明治36)年版の東京市の統計では135軒の寄席があったと記録されており、東京市が1907(明治40)年に発行した「東京案内上巻」では142軒の寄席が掲載されている。
それが現在では東京の常打ちの寄席は、「鈴本演芸場」をはじめ「新宿末広亭」、「浅草演芸ホール」、「国立演芸場」「池袋演芸場」の5か所に限られてしまっている。この中でもっとも歴史があるのが「鈴本演芸場」である。「鈴本演芸場」の開業は幕末の1857(安政4)年に現在の席亭(主人)の祖先、初代龍助(明治維新後の平民苗字必称令の公布に伴い「鈴木仙之助」)が、上野広小路の西側に「軍談席本牧亭」という講釈を中心とした寄場を開いたのが始まりという。
1876(明治9)年には、同じ上野広小路の東側に移転し、名称を姓の鈴木と本牧亭から「鈴本亭」に改め落語を中心とした寄席になった。ただ、1884(明治17)年発行で87軒の寄席が掲載されている「東京案内」では「鈴本亭」ではなく、「中鈴木」と紹介されており、さらに1890(明治23)年の「東京百事便」では、講談定席として「本牧亭」と、落語音曲定席として「鈴本亭」が掲載され、1893(明治26)年の「新撰東京実地案内」では「鈴木亭」となっている。1898(明治31)年発行の「東洋大都会」の寄席一覧には上野広小路「鈴本亭」としてその名が挙げられ、これ以降のガイドブックや行政資料では一貫して「鈴本亭」として掲載されているので、一般に「鈴本亭」としての名称が定着したのは明治20年代後半から30年代以降とみてよいだろう。
この頃には、夏目漱石、芥川龍之介、正岡子規をはじめ、文豪、文化人もたびたび来場し、落語など庶民芸能を愛でた。
とくに夏目漱石の落語好きはよく知られており、上野の「鈴本亭」にも実際に足しげく通っていたという記録も残されている。例えば、門人の寺田寅彦の1905(明治38)年8月27日の日記には「夏目先生を訪ふ。野村君約により来る。鈴本亭の落語を誘ふ。先生は午後晩翠等と快(偕)楽園にて集会の約ある由なれど強いて誘ふて行く。落語等は満員客止なり」と記されている。晩翠とは詩人の土井晩翠のことで、彼の留学からの帰朝祝賀パーティーをさぼって「鈴本亭」に行ったが、満員で入れなかったという。また、この時、同行した「野村君」は同じ門人の野村伝四で、夏目漱石との思い出を記した随想「散歩した事」のなかでも「落語ばかりで他を交えない落語研究会と云ふのが出来たのであり、その第一回は蔵前の何とかと云ふ寄席催された。而して私は先生(夏目漱石)に誘われて行った…中略…下谷広小路辺りの鈴本亭其他で、月一回場所を代えて興行」していたとし、「先生宅出入の諸君も頗る熱」があったと、ここでも「鈴本亭」の名が出て来る。
夏目漱石ばかりではなく、明治大正の文豪たちの多くは、落語を愛でていた。夏目漱石の友人であった正岡子規も例外でなく、随想「筆まかせ」のなかでは、1886(明治19)年の「寄席」で「余ハ此頃、井林氏と共に寄席に遊ぶこと志げく、寄席ハ白梅亭か立花亭を常とす。然れども懐中の黄衣公子意にまかせざるを多ければ、或いハ松木氏のもとに至り或ハ豊島氏の許に到り多少を借り来たりて之をイラッシャイという門口に投ずることしばしば屡(しばしば)なれども、未だ曾て後に其人に返済したることなし」と借金をしてまで、寄席に通っていたことを吐露している。白梅亭は神田連雀町、立花亭は神田須田町にあったというから、すぐ近くの鈴本亭にも夏目漱石と一緒に立ち寄ったこともあったかもしれない。
なお、この「筆任せ」には1889(明治22)年に「圓朝の話」「落語連相撲」「落語家遺漏」と多くの落語家についての評価を載せている。
また、芥川龍之介も「落語は家族達と一緒に相生町の広瀬だの米沢町(日本橋区)の立花 家だのへ聞きに行ったものである。殊に度々行ったのは相生町の広瀬だった。が、どういう 落語を聞いたかは生憎はっきりと覚えていない。」と家族ともども幼いころから親しんでいたことを「本所両国」というエッセイに書き残している。
泉鏡花も落語通と知られるが、1899(明治32)年作の「湯島詣」では「三遊派の落語家に円輔とて、都合に依れば座敷で真を切り、都合に依れば寄席で真を打つ好男子。…中略…鈴本が刎ねてあいにく繰込のお供も仕つかまつらず、御酒頂戴も致されず、家へ帰って妹じゃ間に合ずというので、近所だから大和家へ寄ることちょいちょい」と、落語家の三遊亭円輔が鈴本亭での仕事のあと贔屓しているヒロインの芸者に会おうとして、鈴本亭から至近な場所にある下谷数寄屋町(不忍の池の南、現在の上野仲町通り付近)の待合茶屋大和家を訪ねる場面も描かれている。これ以外の文豪、永井荷風や志賀直哉なども通い詰めた寄席があったという。
ここまで多くの文豪が落語や寄席を愛でていた理由は、単なる娯楽という意味だけではないだろう。そこで、次回はまず、少し寄席から離れるが、落語が近代文学に与えた影響について触れ、そのあとに現在の東京の寄席の状況を紹介したい。
参考・引用文献
「戸田茂睡全集 紫の一本」大正4年 159/273 国立国会図書館デジタルコレクション
「明治神社誌料 府県郷社 上」明治45年 106/981
本居宣長「古事記伝 乾」1935年 237/600国立国会図書館デジタルコレクション
「江戸名所図会 7巻(16)」51/52 国立国会図書館デジタルコレクション
暉峻康隆「近世後期舌耕文芸史(上)(下)-東西会咄の盛況-」
早稲田大学国文学会「国文学研究」 31号・32号 1965年
喜田川季荘「守貞謾稿」 後集巻2 39・40/49 国立国会図書館デジタルコレクション
式亭三馬「落話中興来由」1815(文化12)年4~6・16/27
「燕石十種 第3 寛天見聞記」66/257 国立国会図書館デジタルコレクション
喜多村信節「嬉遊笑覧 下」 昭和7年版 209/359 国立国会図書館デジタルコレクション
「新燕石十種. 第1 天言筆記 藤岡屋由藏日記」明治45~大正2年 117/285 国立国会図書館デジタルコレクション
吉田伸之「寄席の誕生」学習院史学 34号 1996年
東京都立図書館「江戸東京デジタルミュージアム 落語スペシャル」
東京市市史編纂係編「東京案内 上巻」明治40年 179/407 国立国会図書館デジタルコレクション
「東京市統計年表 第12囘」大正4年 220/511 国立国会図書館デジタルコレクション
平出鏗二郎「東京風俗志 下」富山房 明治35年 54/139 国立国会図書館デジタルコレクション
「東洋大都会」114/172 国立国会図書館デジタルコレクション
児玉永成「東京案内 改正増補2版」明治17年 67頁75/88 国立国会図書館デジタルコレクション
「東京百事便」1890年 769~770頁 396・397/413国立国会図書館デジタルコレクション
「新撰東京実地案内」1893年 92頁54/119 国立国会図書館デジタルコレクション
「漱石全集 別巻 野村伝四『散歩した事』」岩波書店 1996年版
「寺田寅彦全集 第19巻日記(Ⅱ)」岩波書店 1998年版
岡本綺堂「寄席と芝居と」『綺堂芝居ばなし』旺文社文庫(「青空文庫」から引用)
正岡子規「筆まかせ」第1編(明治17~22年)32/241など 国立国会図書館デジタルコレクション
芥川龍之介「本所両国」『失われた江戸を求めて』Kindle版
泉鏡花「湯島詣」『泉鏡花集成3』ちくま文庫(青空文庫から引用)