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江戸の寄席・東京の寄席(Ⅱ)
          2023年3月号

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圓朝全集巻之10 「圓朝の肖像」 昭和2年 春陽堂 国会図書館デジタルコレクション

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​上野駅前

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​上野「鈴本演芸場」

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​上野「鈴本演芸場」

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​新宿「末廣亭」

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​新宿「末廣亭」

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​浅草雷門

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​「浅草演芸ホール」

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​「浅草演芸ホール」

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​「浅草演芸ホール」

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​東京三宅坂「国立演芸場」

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 前回では多くの文豪が落語や寄席をいかに愛でていたことを述べた。今回は、まず、少し寄席から離れるが、その落語が近代文学に与えた影響について触れ、そのあとに現在の東京の寄席の状況を紹介してみたい。

 日本の近代文学の黎明期に西洋化、近代化に向けて興った小説における言文一致運動へ強い影響を与えたもののひとつに、三遊亭圓朝の寄席での口演の速記本が挙げられる。
その経緯を二葉亭四迷が端的に「余が言文一致の由來」のなかで「言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――も凄まじいが、つまり、文章が書けないから始まつたといふ一伍一什(いちぶしじゅう)の顛末さ。もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。」と、言文一致をどのように小説に取り込むか悩んでいた二葉亭四迷は坪内逍遥の示唆で圓朝の落語の語り口で文章化することによって、それを実現しようとしたと、述懐している。
 しかし、「圓朝ばりであるから無論言文一致體にはなつてゐるが、茲にまだ問題がある。それは『私が……で厶(ござ)います』調にしたものか、それとも、『俺はいやだ』調で行つたものかと云ふことだ。…中略…先づ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き初めた抑もである。」と言文一致に向けての選択を語っている。ちなみに同時期に言文一致の小説を発表した山田美妙は、「私は……です」の敬語調を使っていた。
 二葉亭四迷が圓朝に影響を受けて最初の言文一致体の小説を成立なさしめたのは、高嵜啓一によれば「リズム感がとぼしく、発話の自立性をつくりだすのが苦手な日本語(話し言葉)も音数律などを利用すれば、独特の四ないし、八拍子のリズムをつくりだすことができる。講談や落語は、そうした日本語特有の韻律をまった話芸である。それを取り入れることによって『浮雲』は話し言葉に欠けていた、聴覚的なリズムを獲得し」たからだという。
 二葉亭四迷の述懐をみると、落語が近世文学から近代文学への脱皮の重要なエポックであった小説の言文一致化に大きな影響を与えたことは事実だ。興津要は「明治十年代における円朝と当時の文学界とのかかわりは、圓朝がみずから意識しなかった場においてなされた。それは、言文一致運動の推進力という立場だった」とし、これは速記技術が輸入されたことが背景としてあり、「その効用宣伝に大きな役割をはたしたのは、当時人気絶頂だった円朝の人情噺の速記本だった」としている。近代文学を切り開こうとしていた坪内逍遥が「俗語をもちい、写実文学の法にかなっている」と、この「円朝の人情噺の速記本」を絶賛し、二葉亭四迷らの創作活動に大きな影響を与えたのだ。
 さらに、落語の近代文学への影響はこれだけではない。興津要の分析によれば夏目漱石の「吾輩は猫である」では、「作品のふんいきや構成からいえば、漱石の意識のなかにあった『八笑人』や『七偏人』など、のらくら者の遊戯生活をえがいた幕末の頽廃的な滑稽本の匂い」があり、「円遊を代表とする滑稽落語の手法が、縦横に駆使され」ていた、という。さらに「坊っちゃん」では、「坊っちゃんと赤シャツとの対照的な立場は、純情な息子と半可通との対比という洒落本以来の江戸文学の伝統的手法」の類型であり、「直接には、これも円遊得意の『羽織の遊び』の半可通をうつしたもの」ではないかと、興津要は推測している。
その後の作品においても「三四郎」のなかの登場人物に「小さんと円遊の比較論」を語らせたりして随所に落語の影響がみられるという。水川隆夫も「漱石と落語」において、夏目漱石の作品に落語の広範に影響が及んでいることを詳細に分析し「漱石の初期の作品には、滑稽味に溢れたものが多く、素材・人物・表現・構成などに直接落語を示すものも多かったが、むしろ漱石文学の特徴である独特なリズミカルな文体、低回趣味、絶妙な会話の呼吸、個性的な比喩や形容などに、より深い落語の影響をみるべきであろう」と指摘している。
 夏目漱石の次の世代を担った芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎、志賀直哉、太宰治など数多くの文豪たちにおいても、落語から直接間接を問わず大きな影響を受けた。
 例えば、永井荷風は1923(大正12)年に書かれた「梅雨晴」において「わたしは朝寝坊夢楽というふ落語家の弟子となり夢之助と名乗つて前座をつとめ、毎月師匠の持席の變る毎に、引幕を萌黄の大風呂敷に包んで背負つて歩いた。明治三十一、二(1898、9)年の頃のことなので、まだ電車はなかった」と良家の出身であるにもかかわらず、若い頃の無鉄砲な行動をしたことを述懐している。永井は江戸文化をこよなく愛し、小説と落語の関係についても1920(大正9)年の「小説作法」で「小説は人物の描寫叙事叙景何事も説明に傾かぬやう心掛くべし。讀む者をして知らず知らず編中の人物風景ありありと目に見るやうな思をなさしむる事、これ小説の本領なり。史傳は説明なり。小説は描寫なり。…中略…史傳といへども終始説明の文體を以てのみするものならず、屡(しばしば)小説風の描寫を交ふ。小説亦徹頭徹尾描寫をのみつづくるものにあらず、傳記めきたる説明却つて簡古の功を奏することあり。落語講談時に他山の石となすに足る。」としている。
 一方では、「叙景も外面の形より寫さず内面より描く方法を取るべし。ハイカラに言へば繪畫的たらんよりも音樂的たるべし。この処即すなわち南畫の筆法と見てよし。寫生に出でて寫生を離るる事なり」と、内面的な写生描写を重視しているが、当時の日本文学の手法に不足感があったようで「小説かかんと思はば何がさて置き一日も早く佛蘭西語を學びたまへ」ともしている。
 また、太宰治については、吉本隆明は太宰が影響を受けたものとして、「落語」と森鴎外の短編小説を挙げている。吉本は落語の太宰への影響について「近代落語の伝統っていうのは、三遊亭円朝からはじまるわけですけど、落語の影響っていうのは非常に大きいと思います。落語の影響っていうのは、たとえば、どういうふうにあらわれているかというと、太宰治の短編のなかでは、いわば、落語のオチっていうのがあるわけですけど、オチっていうものが非常によく使われていて、一生懸命、太宰治はまともな意味で、落語っていうのを、よく読んで、話したっていうふうに考えられます。」と語っている。

 このように明治、大正、昭和期の日本の社会に娯楽を提供し、文化面でも大きな貢献を果たした落語、寄席も昭和初期までは全盛を極めたものの、戦争を挟んで、徐々にその役割を変化し、社会構造の変化、娯楽提供の新しい媒体の誕生、多様化によって寄席もその存在感が相対的に下がって行った。現在、東京における落語の定席は、「鈴本演芸場」と「国立演芸場」も合わせ、5席に過ぎない。
 そのなかにあって、前述したもっとも歴史のある「鈴本演芸場」は、関東震災後の1923(大正12)年に現在地へと移り、第二次世界大戦で焼失したものの戦後すぐに復活し、その後、「鈴本亭」から現在の名称に変更した。現在の「鈴本演芸場」は1971(昭和46)年にビルに建て替えられ、客席・舞台は3階に設けられている。かつては桟敷席だったが、現在は椅子席となり、近代的施設を有する寄席として生き残った。
 現在ある定席のうち、「新宿末廣亭」と「浅草演芸ホール」の歴史的背景にも簡単に触れておきたい。
まず、「新宿末廣亭」は「鈴本演芸場」より歴史は浅いものの、明治から昭和初期の寄席の雰囲気をそのまま残しており、JR新宿駅東口から東へ約500mのところにある。現在の「末廣亭」の建物は1946(昭和21)年に建てられた木造建築で、1階の中央は椅子席ではあるが、両サイドは畳敷きの桟敷席となっており、2階の畳敷きの桟敷席も混雑時は開放されている。
 「新宿末廣亭」の創業は1897(明治30)年に講談・色物の寄席として新宿追分で開業した「堀江亭」とされる。作家で落語研究家の正岡容は、末廣亭の前身について「『むかしの寄席』(昭和十八〈1943〉年版)の中の『四十年前の東都の寄席』を翻いて見るとあつた! 正しく新宿追分堀江とある。あゝやつと此で席の実在丈けはたしかめられたが、では果してどの辺にあつたものなのだらう。尚もこの一点を疑念としつゞけてゐると、先代新宿末広亭主人によつて、この末広亭の前名が何と堀江亭だつたのだと偶々報告された」とし、「堀江亭」は「伊勢丹の向ふ側だつたらしい」としている。
 ただ、1907(明治40)年の東京市発行「東京案内」では、すでに「末廣亭」として紹介されている。1932(昭和7)年に日本芸術協会(現・落語芸術協会)の拠点として落語を中心とした寄席になったが、第二次世界大戦で焼失し、戦後すぐに再建された。
浅草寺の西側の浅草公園六区にある「浅草演芸ホール」も「新宿末廣亭」と同時期の開業だとされている。浅草公園六区は明治期から興行街、歓楽街で、下町の雰囲気も濃い。
 「浅草演芸ホール」の歴史は、1907(明治40)年に浅草六区に開業した活動写真館(映画館)の三友館に始まり、大正期には「浅草オペラ」を公演するホールの中心的な存在だった。1951(昭和26)年に同館は閉館し、新たに「浅草フランス座」として開館し、ストリップ劇場として親しまれ、ショーの合間にコントやコメディを演じられていた。このコント、コメディなどの軽演劇部分が1959(昭和34)年に分離し「東洋劇場」となり、1964(昭和39)年には「浅草フランス座」は一旦閉館し、1階が東洋劇場、4階、5階に落語の常打ちの寄席として「浅草演芸ホール」が新設された。
 1971(昭和46)年の東洋劇場の閉館に伴い、「浅草演芸ホール」は1階に移された。同時に「浅草フランス座」が再開場したものの、休業・再々開業を経て1999(平成11)年に完全に閉館し、2000(平成12)年には現在の「東洋館」が開業した。現在の「浅草演芸ホール」は1階と2階を利用し、落語を中心にマジック、物まね、漫才など色物を交え公演を行い、4階は漫才、漫談、コントなどの色物を中心とした「東洋館」(正式には「浅草フランス座演芸場東洋館」)となっている。
 「浅草フランス座」でコントやコメディなどを演じていた芸人のなかから、渥美清、由利徹、東八郎など、第2次世界大戦後の昭和期に笑いを提供したコメディアンのスターたちが生まれた。小説家井上ひさしもこの劇場で台本を担当していたことがあり、その後、東洋劇場も含め、坂上二郎、萩本欽一などもこの地から育った。

 寄席は、江戸後期から形を変えながら、落語という日本独特の話芸を確立させ、講談、浪曲、漫才、物まね、紙切り、コント、コメディなど数多くの近代日本におけるエンターテイメントを生み、育てきた。しかし、現在は、テレビやインターネットなどの新しいメディア、コミュニケーション手段により、かつての中心的役割は失った。現代の生活空間、情報空間の変遷は、ますます寄席の存在意義を削ぐものではあるが、しかし、寄席は落語家をはじめ芸人たちと大衆とを結びつける数は少ない、濃密な現実空間・接点を提供してくれている。
 本来、大衆の笑いは、聴衆と至近距離で演じられ、その反応が即座に芸人へと伝わる寄席の現実空間で生み出されてきたものであり、こうした聴衆の反応と芸人が協同して創り上げてきた大衆芸術であり、笑いであったといえよう。
 もちろん、今後は新しいメディア、コミュニケーション手段により、新しい形の笑いが大勢を占めてはいくだろうが、こうした濃密な現実空間から生まれる、人間の肌感覚ともいえる笑いも生きながらえるだろうし、新しい笑いを生むベースにもなるだろう。その意味でも、現代においても寄席という場を大切にしていかなければならない。
 


参考・引用文献
二葉亭四迷「余が言文一致の由來」『二葉亭四迷全集第五卷』岩波書店(青空文庫から引用)
高嵜啓一「芥川龍之介における『語り』についての一考察 -その散文観から―」2007年 広島大学近代文学研究会「近代文学試論」
興津要「明治開花期文学の研究」桜楓社1968年 
国立国会図書館デジタルコレクション(閲覧には要利用者登録:146・148/154)
水川隆夫「[増補]漱石と落語」平凡社ライブラリー2000年 258頁
永井荷風「梅雨晴」『麻布雑記  小説随筆』春陽堂 大正13年 139/224 
国立国会図書館デジタルコレクション
永井荷風「小説作法」『荷風全集11巻』中央公論社 昭和23年 95-96/189
 国立国会図書館デジタルコレクション
吉本隆明「太宰治と森鴎外 文芸雑話」『吉本隆明の183講演』ほぼ日刊イトイ新聞
正岡容 「寄席風流」好江書房 1948年 青空文庫収載            
東洋館HP    
台東区文化探訪アーカイブ「浅草演芸ホールに聴く」
東京都公文書館「浅草公園第六区の活動写真館」

       

​東京三宅坂「国立演芸場」

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