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「山の辺の道」私的ガイド(Ⅱ) 
 大神神社から桧原神社まで
           2022年5月号

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​大神神社

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​大神神社若宮神社

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​三輪そうめん

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​三輪山登拝口

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​笹百合園へ

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​玄賓庵

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​玄賓庵付近

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​桧原神社

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​山の辺の道道標

290056_山の辺の道10-3箸墓古墳と三輪山F11A9374.JPG

​箸墓古墳

 大神神社(おおみわじんじゃ)はうっそうとした三輪山の社叢を背に拝殿が建つが、大社としては意外と大人しい造りだ。これは、祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が三輪山(標高467m)に鎮まるために、本殿を設けずに直接、山に祈りを捧げるという原初的な信仰形態を遺しており、拝殿の正面奥に三ツ鳥居を立て、山全体を祀る配置となっている。つまり、ここの主役は三輪山自体なのだから社殿が簡素なのは、当然と言えば当然なのだ。古くは大神大物主神社といい、また三輪明神ともいわれ、三輪山が神体そのものであるため神域も広大で、清浄感に満ち溢れる。山の辺の道の最大のみどころといえよう。
 また、同社は酒の神としても崇められているが、これは「日本書紀」の「崇神天皇八年」の条に、杜氏の始祖のひとりといわれる高橋邑(大和国添上郡)の活日が天皇に神酒を献じた時に「この神酒(みき)は 吾が御酒ならず、倭(やまと)なす、大物主の、醸(か)みし御酒 幾久幾久(いくひさいくひさ)」と歌ったのに対し、崇神天皇は「美酒(うまさけ)、三輪の殿の、朝戸にも、押開かね、三輪の殿戸を」と詠んで、三輪山に行幸したというこのことから同社は酒造りの神としても敬われることとなったと伝えられている。
 さらに「万葉集」でも「味酒(うまさけ)を三輪の祝(はふり)がいはふ杉手触れし罪か君にあひがたき」(三輪の社の神職たちが大事にお祭 している神杉に、私は知らぬ間に手を触れた罰でしょうか、いとしいあなたにお目にかかれませぬ)と詠まれ、すでに「味酒」が「三輪」にかかる枕詞として使われていた。その後も「酒」「三輪」「杉」を題材にして多くの歌が詠まれ、後に三輪山の杉葉の杉玉が酒造りの象徴として軒先に飾られるようになったといわれている。
 同社のようにご神体を自然に求める古くからの信仰形態は、境内を横断する「山の辺の道」沿いにもみられる。例えば、拝殿を過ぎ、摂社の狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわのあらみたま・狭井)神社に向かう道沿いにも社殿のない、岩をご神体とする摂社「磐座神社」が鎮座している。
 狭井神社の社殿の右手脇には三輪山の登拝口の結界があり、ここからは神域に入るということで、入山時間の規制があるとともに、社務所で「三輪山参拝証」のタスキを受け取り肩に掛けて登拝する必要がある。往復に3~4時間の道程。「山の辺の道歩き」の途中では、健脚ではないと少し厳しいかもしれない。私も無理せず断念した。
 大神神社の拝殿からJR三輪駅に向かう参道を歩くと、門前にはお土産屋、食事処が並ぶが、やはり目が付くのは「三輪そうめん」の看板。ここがまさに本場なのだ。地元桜井市の出身で考古学者の樋口清之は「巻向川と初瀬(大和)川にはさまれたこの地は、瑞垣と呼ばれた歴史の古い場所。ここでは、グルテン化に優れた小麦、つまり細く長く弾力を持って延びる、そうめん作りに最適の小麦が穫れたという。また、三輪山ろくからわき出る水には、少量のラジウムやゲルマニウムが含まれており、不老長寿の水とも信じられていた」と、その食味、食感が生まれる理由を挙げている。
 「三輪そうめん」は、室町時代には、すでに産地として知られており、興福寺の塔頭多聞院学侶らの日記「多聞院日記」でも、1569(永禄12)年7月7日の条に「節供如常、麺十四ワ入了、十二ワツツ 三ワ(輪)ノウ田村ニテ買之」とあり、供物として購入したことが記録されている。
 さらに江戸時代には、お伊勢参りや長谷詣などが盛んになるつれ、全国的にその名が知られるようになり、その製法が播州龍野や小豆島などに伝えられた。1712(正徳2)年に発刊された百科辞典「和漢三才図会」では、現在と同様の製法が記載されており、産地として「三輪」の名も挙げられている。また、1754(宝暦4)年に発行された「日本山海名物図會」にも、麺を干している絵図とともに「大和三輪索(素)麺 名物なり 細きこと糸のごとく、白きことゆきのごとし。ゆでてふとらず、余国より出ずるそうめんの及ぶ所にあらず」と称賛し、さらに「参詣の人おほきゆへ三輪の町繁昌なり 旅人をとむるはたごやにも 名物なりとて そうめんにてもてなす也」とまで記している。
 現在では「三輪そうめん」は全国各地で食べることはできるものの、「山の辺の道」歩きの途中、大神神社の門前の老舗をはじめ参道の食事処で「三輪そうめん」が賞味できるので、本場の味を楽しむのをお勧めしたい。
 
 境内を北に向かい、狭井神社から鬱蒼とした木立の中を進むと、左手に登る道がある。こちらを辿ると笹百合園がある。これは、大神神社の摂社で奈良市の中心街にある率川(いさがわ)神社で例年6月16~18日に行われる三枝(さいくさ)祭で使われる笹百合を栽培している。この祭りは三枝(さいくさ)の花(三輪山の笹百合)を酒樽に飾って神前に捧げ、4人の巫女がその花をかざして舞を奉納するもの。
 また、七媛女(ななおとめ)稚児行列と花車の時代行列も街中を巡行する。わが国で最初に編纂された律令である大宝令にも記載のある古い祭事で、養老律令にも「三枝祭 謂率川社祭也。以三枝華飾酒罇祭。故曰三枝也」と率川神社で三枝の花を飾り、酒樽を祭っていたことが記されている。
 「三枝」については、1916(大正5)年に発刊された「大宝令新解」では、大神神社の近くを流れ、皇后が住んでいたという狭井川の河辺に山百合が多く、山百合(ササユリ)が佐葦(さい・さき)と呼ばれていたことから川の由来になったとし、「三枝の佐紀と山百合(ササユリ)の佐葦(さい・さき)と其音相通ふによれり、此故事を以て神祭の時、山百合の花にて神前の酒樽を飾りて祀る、故に祭の名とせり」としている。ただ、この祭事は長い中絶期間もあったため「三枝」が「山百合」(ササユリ)にあたるかどうかについては不詳とされているが、現在は、これを笹百合として、狭井の地に所縁のある大神神社の境内地で栽培されている。
 
 そこからは多少のアップダウンはあるが、山裾の高みをしばらく歩くと山襞が深くなり、少し登れば深い森を背に小さな寺の白塀がみえてくる。これが玄賓庵。玄賓(?~818年)は桓武、平城、嵯峨の三人の天皇から篤い信頼を得ていた法相宗の高僧で、俗世的名声より隠遁を好み、備中での隠棲は史実とされている。
 しかし、この地については、確かなものはないものの、原田信之は、「大和国三輪(現在の奈良県桜井市)には、玄賓が一時隠棲していたと伝承されている玄賓庵という寺院がある。『発心集』や『古事談』等の説話集には玄賓が三輪に隠棲していたことが記され、謡曲『三輪』には玄賓と三輪明神とのやりとりが描かれている。また、三輪の玄賓庵には『玄賓庵略記』という縁起が伝わっている」と紹介している。
 謡曲の「三輪」は「是は和州三輪の山陰に住まひする玄賓と申す沙門にて候。さても此程何くともなく女性一人毎日樒閼伽の水を汲みて來り候。今日も来りて候はば、如何なる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。」で始まり、じつはこの女性は三輪明神が示現したもので、神楽を奏することになるというのが、あらすじである。いわゆる神事能である。このような伝承や謡曲がある古寺だが、現在の玄賓庵は真言宗醍醐派で、決して広い境内ではなく、古くからの堂宇はないが、修験道と密教の法燈を受け継いだ雰囲気は遺している。
 ここから尾根筋を巻くように進むと、視界が広がり山裾側には集落が現れ、右手の山側には大神神社の摂社、桧原神社となる。ここも本殿はなく三輪山を御神体とし、三ツ鳥居が玉垣内にある。崇神天皇が皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して、この地に天照大神を祀ったといわれ、後に伊勢神宮に遷したという。このため元伊勢ともいわれている。神社の境内から振り返ると、奈良盆地の眺望がよく、西の正面に二上山を望み、春分・秋分の頃には、その二上山に夕日が沈むという。二上山も神の山と知られているので、この神社を鎮座したのも二上山の眺望がおそらく意識されたのだろう。
 
 また、桧原神社から1.4㎞ほど山を下ると全長280mの前方後円墳の箸墓古墳がある。築造は3世紀中期から後期とされ、これまでは、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓大市陵とされてきた。
 この倭迹迹日百襲姫命は三輪山の祭神の一柱、大物主大神のお告げを伝える役割も果たしていたといわれている。この墓に埋葬されたという伝承は、日本書紀に奇妙というか、不思議なストーリーで描かれている。それは、倭迹迹日百襲姫命は大物主大神と結婚するが、じつは大物主大神は小蛇であったことから、その姿を知って驚いて泣いてしまい、大物主大神はそれを怒って大空を踏み上がり三輪山に帰ってしまった。倭迹迹日百襲姫命は「仰ぎ見て悔いて急居。則箸にて陰(ほと)を撞(つ)きて薨せぬ。乃ち太市に葬る。故れ時の人其の墓を號けて箸墓と謂ふ」(天を仰ぎ見て大いに後悔し、急にしゃがみ込んだ。そのはずみに、箸で陰処を突いて命が絶えた。その亡骸は大市に葬った。そこで世の人が、その墓を名づけて箸の墓と言った。訳・福永武彦)というのだ。
 この大物主大神は、「古事記」では活玉依毗売とも正体不明のまま結婚しており、こちらは活玉依毗売が妊娠した際に、身元を知るために、糸巻に紡いだ麻糸を大物主神の服の裾に針で刺しておいたところ、三輪山に戻ったことが分かったので、大物主大神だと知れたという。この時に糸巻が三巻残っていたので、この地が三輪となったという話が載っている。この話と倭迹迹日百襲姫命の話がつながるものなのか、どうか、私にはよく分からなかった。当然ながら、ともに意味のある伝承なのだろうが、民俗学的解釈を知りたいものだ。
 箸墓古墳の話に戻ると、最近、纏向遺跡の発掘調査が進むとともに、この陵墓の築造と同時期に、この地に大規模な古代都市があったことが判明し、邪馬台国の都があったのではないかともされることから、この陵墓が卑弥呼の墓だとする説も浮上している。ただ、宮内庁の陵墓指定となっているため、現在のところはこの陵墓自体の発掘調査は行われておらず、解明には至っていない。ちなみに箸墓古墳の近くにあるホケノ山古墳は桧原神社の豊鍬入姫命の陵墓と言い伝えられている。
 箸墓古墳は極めて興味深い陵墓であるが、「山の辺の道」からは往きは下りなのでよいがルートに戻るには長い登りとなることは覚悟しておく必要はある。私は意気地がなかったので別の日に訪れた。


参考・引用文献
黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻・下巻」 岩波書店 昭和6年・昭和7年 (中)27・29/168 国立国会図書館デジタルコレクション
福永武彦 「現代語訳 日本書紀」  河出書房新社Kindle版
佐佐木信綱「万葉集(現代語訳付)」Kindle 版 
「多聞院日記」 第2巻(巻12-巻23) 75/250 国立国会図書館デジタルコレクション
「和漢三才図会 下之巻(105巻)」904/921国立国会図書館デジタルコレクション
「日本山海名物図會 4巻」3/19国立国会図書館デジタルコレクション
「令義解 10巻2」(養老律令)4/44  国立国会図書館デジタルコレクション
窪美昌保「大宝令新解」大正13年 93/465 国立国会図書館デジタルコレクション
原田信之「大和国三輪の玄賓僧都伝説」 立命館大学文学部
野村八良校 「謡曲集 上」 有朋堂書店 大正15年 293/379 国立国会図書館デジタルコレクション
中村啓信「新版 古事記 現代語訳付き」 角川ソフィア文庫 Kindle 版

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