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天平の古刹 新薬師寺・榮山寺を訪ねる
2022年7月号
東大寺大仏殿
唐招提寺
興福寺寺南圓堂を望む
興福寺北圓堂
薬師寺大遠望
法隆寺五重塔
春日大社若宮から「上の禰宜道」へ
新薬師寺付近築地塀の道
大和路には東大寺、法隆寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺などなど、幾星霜にわたり盛衰を繰り返しながらも、その歴史を積み重ねてきた、数多の大寺があり、それだけでも充実した寺巡りが楽しめる。もう一つの楽しみ方は、かつては大寺であったが、いまはひっそりとした小さな構えとなった寺院群も数多くあり、これをのんびりと時間をかけて巡るのは、奈良大和路ならではの楽しみ方だ。
古代は日本の中心であった奈良も平安遷都、南北朝、戦国時代など次々襲う歴史の波の中で、一部の大寺を除き、多くの寺院の勢いが衰え、それを生き延びとしたとしても、とくに寺院は明治の廃仏毀釈により、廃寺の憂き目にあったところも多い。その中でも、僧侶など仏教関係者の営々と、あるいは、再興の努力により、いまも規模などは小さくなりつつも法燈をつなげ、地域や信者の尽力で歴史的な堂宇や文化的の意義が高い貴重な仏像などを守ってきた寺院も多い。
そのなかでも、私がとくに興味を引かれたのは、新薬師寺と栄山寺の2つの寺だ。
この2つの寺の創建は、新薬師寺は745(天平17)年または747(天平19)年だと言われ、栄山寺は、719(養老3)年とされるものの、主な塔頭は737(天平9)年から764(天平宝字8)年の造立だとされている。まさに天平期に相前後して創建、造立されたと言って良い。
天平期は、仏教の日本への導入が進んで天平文化が花開き、さらに大和朝廷は中国の統治法制に倣い、律令制度への移行し、日本なりの統治体制、すなわち「王権の制度化」を固めようとした時期である。その中で、大きな役割を果たした光明皇后が新薬師寺に、光明皇后の兄、藤原武智麻呂や甥の仲麻呂が栄山寺の創建あるいは塔頭の造立に深く関わっている。
光明皇后は藤原不比等の三女で、皇族ではない臣下から初めて立后した歴史的に意義深い皇后である。その背景は、仁藤敦史によれば、壬申の乱以降の政治体制の中で、天皇の権力の強化を目指す聖武天皇と官僚の代表である藤原家が改革を進めるのに対し、「壬申の乱の功績により、大きな経済的 な特権を享受」した「天武皇親(天武天皇系皇族)たち」と壬申の乱への協力により地位を得て「旧来の特権的な在地権力を温存した」東国豪族らが、急激な律令制への移行を厭い、抵抗勢力となっていた。それを一挙に排除したのが「長屋王の乱」であり、その終結ととともに、「天平」に改元し、藤原氏の天皇権力への影響力拡大のために、光明皇后の異例の立后が行われた。しかも、井上亘によれば、「不比等と女帝達が推進してきた、律令=天皇制の再出発を意味した。その実現には天皇権力の充実が必須であった。そこに、持統の即位以来空席となっていた、皇后の執政権の要請がある」と指摘しており、光明皇后は一定の政治権力を握ることになるのだ。
光明皇后は、聖武天皇の死後、一旦は、娘の孝謙天皇を立てたが、光明皇后が皇太后として政治権力の実権を握り、甥の藤原仲麻呂(恵美押勝)を重用した。しかし、光明皇太后が病気がちになり、孝謙天皇に継嗣がいなかったため、主流の「天智皇統」の草壁皇子系をあきらめ、仁藤によれば、「天武皇統」の「傍系たる舎人親王系への安定的移行」を目指し、実際の親子関係にはない淳仁天皇を「聖武天皇と光明皇太后の『我が子』という擬制的な親子関係で接ぎ木され」たという。そのため、「孝謙天皇の皇太子とはされず、 実子の孝謙の反発を招く要因」となったとしている。
また、光明皇大后に、重用されていた藤原仲麻呂にとっては、自己の影響下に庇護されていた大炊王(淳仁天皇)を即位させることに、権力掌握に重要な意義があったとされる。しかし、このことが、光明皇大后の死後、孝謙天皇(上皇)や反仲麻呂勢力によって、巻き返しが図られ、構築された光明皇太后(淳仁天皇)-仲麻呂の権力体制が崩され、結局は「天武皇統」も廃絶することになる。
こうした権力闘争、皇統争いのなかでも、光明皇大后をバックにして、仲麻呂は律令制度の一旦の完成形である「養老律令」の整備と、施行など政治、社会改革に大きな役割を果たしたのも事実である。つまり、律令体制を確立させたともいえるのだ。
光明皇大后は栄光のうちに没したが、仲麻呂は、光明皇大后の娘である称徳天皇(孝謙天皇の重祚・「続日本紀」では、孝謙・称徳を通じ「高野天皇」と記している)と台頭した道鏡に対抗して、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱を起こすものの、結局は「叛臣」として斬殺されている。
「王権の制度化」という律令制度の確立に向けた改革や天皇皇統の争いのなかで、中心的役割を果たした光明皇大后と藤原仲麻呂だっただけに、後代での毀誉褒貶が激しく、人物評価も多岐にわたり、実像が必ずしもすべて浮き彫りになっていないとされている。
天平期はこうした権力争い、政争のなかでも、仏教が日本に着実に根付き、仏教文化の隆盛期に入り、素晴らしい寺院建築や仏像が生み出された。その天平期をよくも悪くも彩った2人が深く関わった古刹を、その人物像に思い馳せながら巡ってみるのも興味深いと思い、出掛けてみた。
〇新薬師寺
新薬師寺へは、奈良の中心街奈良町からなら、街の東にあたる高畑交差点から、春日山を北にしながら、住宅街の綺麗に整備されたなだらかな坂道を登っていくことになる。また、この道もう一本南側の道は、幅員はせまいものの、登録有形文化財の古い建造物が散在する道もそぞろ歩きにはよい。さらに春日大社若宮神社の方から回るなら、春日山の森の中を通る「上の禰宜道」で鳥さえずりを聞きながらアプローチするのもよいだろう。高畑町の交差点からは600mほど、「上の禰宜道」からこの通りから出た辺りで、路地に入りしばらくすると築地塀が現れる。
文芸評論家亀井勝一郎は1942(昭和17)年に記した「大和古寺風物誌」のなかでは、「新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。はじめて通った日の印象は、いまなお私の心に一幅の絵のごとく止っている。寺までのわずか二丁たらず の距離であるが、このあたりは春日山麓の高燥地帯で、山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた築地に蔦葛のからみついている荒廃の様が一種の情趣を添えている」と新薬師寺への道について描写しているが、現在も新薬師寺の東側の裏手辺りの道に、その面影が多少残っている。その築地塀が尽きたところを右に折れると、寺の山門、受付前に出ることができる。寺の西側には、大和路をこよなく愛した写真家入江泰吉の作品を収蔵展示する入江泰吉記念奈良市立写真美術館側からも至ることはできるが、やはり、東側の裏手からの道を選ぶことをお勧めしたい。
山門をくぐると、最初に向き合うのは国宝の本堂である。威圧感は感じさせないものの、すっきりと伸びやかに建ち上がっており、扉の簡潔な意匠が際立つ、典型的な天平建築に出合うことになる。装飾の少ないシンプルな造りだが、その存在感はどこからくるのだろうか。
正面7間、側面5間、入母屋造で、決して大ぶりな建物ではないが、伸びやかさは、大屋根の反り返り方のゆったりした形から来るものだろうし、また、3面ある木製の大扉と漆喰の白壁とのコントラストが強い印象を与えている。また、境内には本堂以外には大きな建造物がないのもその印象を補強している。
新薬師寺が創建されたのは、745(天平17)年または747(天平19)年とされているが、当時はかなりの大寺だったとされている。そのことは、現在の本堂より南西に約150mのところにある奈良教育大学の敷地内にあったかつての本堂であった金堂の遺構の発掘調査からも分かっている。基壇は東西50m以上、桁行9間の大きな仏殿だったとされ、堂内には七躯の如来像とそれぞれ2躯の脇侍、それに十二神将が安置されていたという。
しかしながら、「東大寺要録」によると「 応和二(962)年八月三十日。南大門。新薬師寺七仏。仆(倒)依大風也。同日新薬師七堂同仆(倒)」とある。この暴風で金堂は倒壊し、高台の現在地にあった堂宇に本堂を遷した。これが現在の本堂である。これ以外にも「続日本紀」には奈良時代の780(宝亀11)年正月の条に、「大雷。灾(災)於京中數寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔。并(並)金堂等。皆燒盡焉」と大きな雷震があって、新薬師寺の西塔などが焼失したと記録が残されている。平安時代の自然災害などにより寺勢が衰退し、鎌倉時代に南門・東門・鐘楼・地蔵堂などは鎌倉時代に建立され復興したものの、創建当時の姿を取り戻すことはできなかったとされている。ということは、現在の本堂は、寺の中心的な堂宇でなかったともいえ、そのデザインがシンプルである理由のひとつだとも私は推測してしまう。
こうした大寺を創建できたのは、光明皇后の眼病平癒を祈願して聖武天皇が発願したとも、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后が建立されたともいわれており、天皇家の直接的なバックアップがあったためだろう。また、新薬師寺の寺号は、すでに平城京の右京にあった薬師寺に対し、薬師如来を本尊とする新建の寺であったことから、この名が付されたといわれている。
本堂とたっぷり向かい合ったあと、左手から堂内に入ると、内部は、外観同様に簡素な造りで、天井を張らず化粧屋根裏をそのまま見せており、床は瓦敷となっている。まさしく“がらんどう”という感じがする。周囲1間を外陣とし、内陣の中央には白漆喰で円形の須弥壇を設け、壇上に本尊の国宝薬師如来坐像を中心に十二神将立像が円陣を組むように12方位ににらみを利かせている。
薬師如来坐像は像高190㎝の巨像で平安初期の作といわれ、一木造と寄木造の折衷技法で造仏されている。彩色や金箔を用いず、わずかに目と眉に墨、唇に朱を用いるだけの檀像風(香木の代用材を使った)の素木像であり、丸い波と角の波で漣を表現する飜波式衣文などが施されている。ふくよかな体躯に、穏やかな表情ではあるものの、どっしりとした強さを感じさせる。その一方、平安初期の作だが、率直で明快さのある天平の穏やかな作風も漂っており、いつまでも見入ってしまいたくなる。
円陣を組む十二神将は薬師如来を護衛する8万4000の眷属(または分身)を率いている12の上位の大将で12の方位を守ることから干支にも譬えられ、伐折羅(バサラ 戌)、迷企羅(メイキラ 酉)、頞你羅(アニラ 未)、波夷羅(ハイラ 龍)安底羅(アンテラ 申)、珊底羅(サンテラ 午)、因達羅(インダラ 巳)、宮毘羅(クビラ 亥)、摩虎羅(マコラ 卯)、真達羅(シンダラ 寅)、招杜羅(シヨウトラ 丑)、毘羯羅(ビギャラ 子)と称されている。昭和の補作である波夷羅大将像(細谷而楽作)を除くほぼ等身大の11躯は、木造台座裏桟2枚に天平の墨書があることから、この大群像は天平時代の作とされ国宝になっている。ただ、この十二神将は、この寺のために造仏されたものではなく、平安時代の暴風によって金堂が倒壊した際に、高円山麓にあった岩淵寺から移設したものともいわれている。
堂内では円陣をぐるりと巡って観賞することができるようになっており、それぞれの神将は、その役割や性格に応じ個性豊かな表情をしていることを目の当たりにすることができる。しかし、忿怒の形相の鋭さは共通したものがある。
この新薬師寺の創建に光明皇后が深く関わっていたのはすでに述べたが、その光明皇后については、正史を含め記録や後付けの伝承が数多くの遺されているものの、長い歴史のなかでその人物像が粉飾されている部分が数多くあり、その光と影の実像がみえにくいところもある。
光明皇后の光の部分では、伝来間もない仏教への帰依から皇后宮職に施薬院を設置し、先駆的な救療活動を熱心に行ったことが、「続日本紀」の天平2(730)年4月の条に記録されているほか、「扶桑略記」には、同年5月にも「置悲田施薬院兩院。以養天下飢病之徒。」とし、救護施設である悲田院と施薬院を設け、救護活動を行っていたことが記されている。
さらには、奈良の法華寺にいまものその形式の浴室が残るが、施浴伝説が鎌倉期の仏教史書「元享釈書」の光明皇后の項では、「仏の啓示によって浴室をたて、親しく千人の垢を摺りとることを誓願せられ、乞食や病人を招いて日夜熱心に勤められたが、最後の千人めに、見るからにひどいらい患者がきて,異様な臭気が浴室に充満した。皇后は意を決して背中の垢を摺ることになり、おわると患者は自ら阿閦仏の化身で」(訳・平尾真智子)あったという伝説が収載されている。まさに聖人伝説であり、聖武天皇が権力基盤確立の過程で平城京を離れ、紫香楽、恭仁、難波などで行宮生活を送った政治状況に振り回されながらも、これを支え、さらには、仏教による国家鎮護思想の具現化としての大仏開眼、国分寺国分尼寺の造立を聖武天皇に果たさせた原動力といっても良い人物ともいえよう。
しかし、こうした聖人伝説の一方では、権力が集中したため、当然ながら真偽はともかくもスキャンダルも取り上げられるようになる。天永~保安年間 (1110~24) 頃の成立といわれる「今昔物語集」では、光明皇后が「此ノ玄昉ヲ貴ミ歸衣シ給ケル程ニ。親ク参リ仕リテ后此ヲ寵愛シ給ケレバ。世ノ人不吉ヌ様ニ申シ繚(みだれ)ケリ」と法相宗の僧で政治権力も握った玄昉との間の密通話や、鎌倉末に成立した「元亨釈書」の東大寺二月堂修二会の創始者とされる実忠の項では、「容貌端麗」であった実忠を浴室よびだしたところ「后偸眼不暫捨。忽然假寐。夢與忠交。寤(悟)見忠。頂戴十一面観音。儀相自若。后出拝合掌懺謝曰」(忽然と仮眠してしまい、実忠と交わる夢をみてしまう。目が覚めてみると、実忠の頭の上に十一面観音が出現し、自らの愛欲を合掌懺悔した)という伝承も記載されている。とくに玄昉との醜聞は、権力闘争に利用された可能性があり、権力中央から玄昉や吉備真備を排除しようとした藤原広嗣の乱の起因となったと「今昔物語集」では語られている。
その結末は、広嗣の怨霊によって玄昉は呪殺されたうえ五体をばらばらにされ、首が埋められたのが、新薬師の西、高畑町近くにある「頭塔」だという伝承に繋がっていく。もっとも、この「頭塔」に関する伝承は史実と異なり、実際は、これまた光明皇后との密通の夢話に出て来る実忠が造営した仏塔「土塔(ドトウ)」であることが分かっている。この「ドトウ」が「ズトウ」 となまり、玄昉伝承と結びついたとされている。
いやはや、かなりきわどい逸話が後代になると脚色され、増幅されていき、聖人とされる光明皇后とはまったく別の顔をした伝承が生まれてくるのだ。
こうした伝承が生まれるのは、光明皇后(皇太后)が晩年、甥であった藤原仲麻呂(天皇より「恵美押勝」の名を賜与)を寵愛し、その権力集中のバックボーンになったものの、その死後、藤原仲麻呂(恵美押勝)が権力争いに敗れ、後継の淳仁天皇が廃帝となった、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱など、光明皇后の負の歴史的経緯に関連するかもしれない。人間の評伝とは何なのかを考えさせられてしまう。
どろどろした権力争いや人物評価の両義性を有する光明皇后(皇太后)が創建したと言われるこの寺の本堂や十一面観音坐像、十二神将を見ていると、人間の愚かな精神性や倫理性を超越した姿に心が洗われ、清閑な心持ちを取り戻してくれる。その分、光明皇后(皇太后)の心の闇が深かったのではないかとも勘ぐってしまうのだ。
〇榮山寺
榮山寺はJR和歌山線五条駅から東へ約2㎞、西流する吉野川のほとりの森のなかにあり、藤原不比等の長男、藤原武智麻呂が創建し、その子の仲麻呂が主な塔頭を造立したといわれている。
五条駅方面から吉野川沿いに県道を遡行すると、青々とした生垣の手前に、ともすると見落としてしまいそうな小さな駐車場があり、一段高くなったところから境内に入ることになる。この駐車場を見落としても、少しばかり歩きで戻ることにはなるが、境内の生垣を過ぎたところに「栄山寺緑地公園」の駐車場があるので、こちらに車を停めるのもよい。
境内は吉野川と県道に沿って裏山を背に細長く伸びており、山門を入ると、堂宇が縦長に並ぶ感じで点在している。どの堂宇も大規模なものはなく、境内の佇まいも正直なところ雑然感も否めない。それでも、まず、コンクリート製の小さな鐘楼には平安初期に造られた梵鐘が吊るされており、鐘銘は小野道風の筆とされ、国宝となっている。右手には奈良時代造立の七重塔の石塔、平安時代の建立である塔之堂(大日堂)がこぢんまりとして建つ。さらに進むと左手に室町時代に再建され重要文化財の薬師如来坐像が祀られている本(薬師)堂、その右手奥には国宝の八角円堂が建っている。
この寺での見どころは、やはりなんといっても八角円堂であろう。この堂は法隆寺の夢殿をふた回りほど小さくしたような大きさだが、天平期の雰囲気をよく遺し、単層、本瓦葺きで柱は八角柱で四方に板扉を開き、ほかは連子窓になっている。内部は土間で須弥壇を設け、天蓋・内陣の回りには彩画の跡が残されている。伸びやかな屋根にシンプルな意匠で素朴な板張り壁が印象的である。背景となる緑も豊かで、小さいながらじっくり向かい合いたくなる建築物である。
同寺の創建は719(養老3)年と伝えられている。1913(大正2)年発行の「大和志料」では1098(承徳2)年の寺記(栄山寺別当実経置文)をもとに、「貞観八(866)年ニ至リ稍稍衰微シ鴻鐘塔露盤ノ具賊ノ盗ム所トナリ、堂塔僧坊破損セシヲ延喜中(901~923年)住僧神鏡コレヲ修造ス、後チ又荒壊シ寛治五(1091)年コレヲ修治シ、舊観ニ復セリ」とし、藤原南家(武智麻呂、豊成、仲麻呂など)の没落とともに、同寺も衰退を迎え、その後一部が修復されたとしている。
江戸中期の「大和名所図会」でも、創建当時は「伽藍巍々たりしが、年経りて今僅に遺れる金堂の本尊薬師佛、日光・月光・十二神将、千百餘年におよぶ今まで、いにしへのまゝにして、金堂(現・本堂)に𠑊然たり。又八角堂は、武智麿の長男横佩右大臣豊成卿の造営にて、造(つくり)もかへず其儘なり。」としており、江戸中期の境内の様子と現在もあまり変わっていないように思える。こうした衰退、荒廃を乗り越えて、天平期の八角円堂をはじめそれなりの堂宇が遺されているのは、奇跡的といってもよいだろう。
ここで、興味深いのは、「大和名所図会」では、八角円堂の造立者は藤原武智麻呂の長男、豊成としているところだ。同じ時期の安永年間(1772~80年)に執筆された「廣大和名勝志」でも「八角圓堂一宇ハ武智麻呂ノ長男横佩右大臣豊成公乃造営」となっている。「大和志」では、八角堂の造立者には触れていないが、明治期に入って発行されたガイドブックの「大和名勝」「和州社寺大観」でも豊成だとしている。
ただ、一方では同じ明治の「大和巡」では次男の藤原仲麻呂の造営としており、現在の栄山寺のホームページでもこの説をとっている。これはおそらく1098(承徳2)年の寺記(栄山寺別当実経置文)にある「僅所殘之八角堂一宇、是仲麻呂奉爲先考先妣所建立」と、藤原仲麻呂が亡き父母のために建立したとしていることに基づいていると思われる。つまり、1098(承徳2)年の寺記には、あえて長男でなく「叛臣」として断罪された次男の名を出しているのだ。
こうした表現の違いは、興福寺の東院西堂・東堂(大講堂)についても、微妙に現れている。1145(久安元)年の「大和国奈良原興福寺伽藍記」では西堂は「恵美大臣(仲麻呂)造之」、東堂は「豊成公建立」と仲麻呂が主体として造立に関わっていると記しているが、「大和名所図会」での大講堂については「南家の祖武智麿の女(むすめ)と、同二男恵美押勝(仲麻呂)など、母の菩提の爲造立ありしなり」と素気なく記述している。
榮山寺の八角円堂の造立者と造立時期については、文化庁の文化財指定の解説文において、「八角(円)堂の造営は、武智麻呂の歿した天平九(737)年より後、仲麻呂が歿した天平宝字八(764)年より前となるが、武智麻呂が栄山寺の北の山上に改葬された天平宝字四年(七六〇)より後とすれば、わずか四年の内に限定して考えることもできる」としており、堂内にある陣装飾画の制作に関しての正倉院文書(正集四五)「造円堂所牒」(天平宝字七年十二月二十日付)が、栄山寺八角堂造営に関係するものとすれば、「仲麻呂の最晩年である天平宝字七年から八年の頃とするのも許されよう」と推定しており、これが現在の定説になっている。
これでは、豊成の出番はないが、栄山寺文書に遺る765(天平神護元)年9月23日の「太政官符案」には豊成が寺領を施入し、不輸祖田としたとあるという。これは仲麻呂が反乱を起こし斬殺された後にも父の墓のある寺への支援を行っていることから、堂宇整備にも尽力していた可能性も高い。
しかし、いずれにしても直接的な史料があるのではないため、確定的ではないものの、平安期において同寺の再建を提起している寺記にあえて「叛臣」の藤原仲麻呂の名を持ち出していることに、正史の「続日本紀」が成立した8世紀後半と寺記が書かれた11世紀後半の仲麻呂に対する評価に変化があったことは確かなことだろう。さらに一転して江戸から明治期には、豊成造立説が取り上げられているわけだが、これにはどのような背景には何があるのか疑問が付きまとう。
豊成と仲麻呂は藤原鎌足の孫、藤原不比等の子の武智麻呂の長男と次男という血筋で、まさに藤原4家のなかでも嫡子系の南家に属する。二人は対照的であったらしい。「続日本紀」では豊成を評して「天資弘厚。時望攸帰」と、性格が穏やかで人望があったとし、一方、仲麻呂については、「率性聦敏」で「學笇(算)尤精其術」と、率直な性格で聡明であり、「算道」に詳しかったと、真逆な性質、性格だったことを記している。
豊成は、悪く言えば、総領の甚六ではあったが、律令制度成立期の権力争いのなかで浮き沈みはあったものの仲麻呂の乱以降も踏ん張り、最後は右大臣従一位を受任しており、藤原南家の立場をなんとか守ったともいえる。
一方の仲麻呂は、極めて権力志向が強く、鋭敏な政治センスで兄を押しのけ、のし上がり、さらには天皇権力を簒奪しようと、自ら準皇族化を図り、その影響力を発揮できるように「淳仁天皇」を擁立したりしたが、そのことが破滅をもたらした。
ただ、仲麻呂については、仁藤敦史によればその能力の高さから「大宝律令を修正・施行した刑法・行政法の集大成である『養老律令』の体系は、形骸化しつつも江戸時代まで継承され」、また、墾田永年私財法は「墾田を私財として永年私有を認めた点は、以後の土地制度に大きな 影響」を与え、「民の生活安定策や負担軽減策」や「運脚の負担軽減、米価の調節を目指した常平倉・平準署の設置、雑徭半減政策の復活、新銭発行による財政利益の獲得なども後世 に継承された重要な政策」を行ったと指摘している。
さらに、朝廷政治の中で仲麻呂の出身の南家は、仲麻呂、豊成の死後、力を失い、「平安初期までは、藤原宇合の式家、以後は藤原房前の北家が主流となり、北家の子孫が摂関家として連続していくこと」になるが、それでも「藤原氏が貴族のトップに位置するという枠組みが確立されたのも仲麻呂抜きには考えにくい」ともしている。
仲麻呂への評価は天皇家への謀反人という側面と大陸文化を積極的に取り入れ律令制度を確立した改革者という側面の2つがあり、さらに、仲麻呂の死後、比較的早い時期に道鏡が失脚し、称徳天皇と道鏡の醜聞も広がったことにより、平安初期までには名誉が回復されていたとも考えられる。
弘仁年間(810~824年)の後半に書かれたという「日本霊異記」下巻第38縁には、「又宝宇の八年十月に、大炊(おほひ)の天皇(すめらみこと)、皇后(おほみおや)の為に賊(う)たれ、天皇の位を輟(や)めて、淡路国に退き逼迫(せま)りたまふ。並(また)仲丸等と又氏々の人とを、倶(とも)に殺死(ころ)しつ」(淳仁天皇は、孝謙天皇にきらわれ、討たれて、天皇の位を退いて淡路国に退きこもられた。また女帝は仲麻呂ら及び一族の人を一緒に殺した)と中立的な表現であり、称徳天皇と道鏡の醜聞についても、世間ではとして「『我が黒みそひ股に宿給へ、人に成るまで。』是(か)くの如く歌咏(うた)ひつ。帝姫阿倍の天皇の御世の天平神護の元年(765)の歳乙巳の次(やど)れる年の始に、弓削の氏の僧道鏡法師、皇后と同じ枕に交通(とつぎ)し、天の下の政を相(たす)け摂(と)りて、天の下を治む」(わたしの黒皮の陽根をまたに挟んでねんねしな。大君も生身の体、一人前になられるまで。このように流行歌に歌ったのである。女帝称徳天皇の御代、天平神護元年(765)の初めに、弓削氏の僧の道鏡法師が、女帝と同じ枕に寝て情を交わし、政治に実権を執って天下を治めた)と現代訳を付するのも避けたいくらい極めて率直な表現で伝えている。
このことから道鏡の失脚後50年ほどだが、「叛臣」の仲麻呂に対する表現は一定のバランスがとられているようにも思われる。しかも、豊成、仲麻呂が属していた藤原南家ではないが、同じ藤原式家、北家が権力を握り、なおかつ天智系への皇籍継承の路線が定まった以上、仲麻呂を否定的に扱う必要はなかったかもしれない。
それ故それゆえ、承徳2(1098)年時点における寺記のなかで、八角円堂の造営者が仲麻呂と記すことにはためらいがなかったといえるのではないだろうかと私なりに推測している。しかし、これでは後代の江戸から明治期の地誌歴史書に豊成説が現れるのはなぜかという点が説明できていない。
ここからも私の全くの推論にすぎないが、江戸期なれば、すでに武家の時代となって久しく、南北朝の混乱も経験し、皇統への挑戦を行った仲麻呂に対する一種の憚りがあったといえよう。
それは、1720 (享保5) 年に本紀 73巻,列伝 170巻が江戸幕府に献上された「大日本史」において、764(天平宝字8)年9月の争乱の経緯を述べているところでは「十四日戊申、大宰府の員外帥藤原豊成を以て、復右大臣と爲す。十八日壬子、押勝(仲麻呂)・鹽燒(塩焼王)誅に伏し、餘黨悉く平ぐ」と、豊成の復権と仲麻呂の誅殺については対照的な記述になっており、さらに「叛臣伝」でも「藤原仲麻呂」の項を設け、功績には触れているものの逆臣としての言動を詳細に記述している。内容的には、797(延暦16)年成立の正史の「続日本紀」にほぼ沿っている。
一方、豊成については、「列伝」の項で取り上げ、その事績を記すとともに、さらに、弟の仲麻呂により自身も「左降(左遷)」させられたのにも拘わらず、反乱終結後、右大臣に復し、「今臣等既に凶逆の同族を以て、猶勲功の餘封に霑(潤)ふ、何の面目を以て、叨(妄)に殊厚を冒さん。伏して願はくは先代賜はりし所の功封を還納し、少しく天下の責を塞がん」と、先代が賜った封戸の返還を申し出たという美談が取り上げられている。もちろん、光明皇后あるいは称徳天皇の仏教僧との醜聞は「大日本史」では触れられていない。
「大日本史」では榮山寺の八角円堂の造立者については直接触れていないが、尊皇的な水戸学派の歴史解釈である以上、正史に沿うことは当然であり、こうした尊皇的な立場の史書、地誌が一般的とみられ、八角円堂も造営も仲麻呂ではなく、江戸期では豊成が藤原南家の氏寺の経営を最終的には支援していたことには間違いないことなどを理由にして、八角円堂の造営についても豊成の名を挙げたのではなかろうか。
これらの八角円堂の造営者について、史書、地誌の取り上げた方の異動に関しての解釈は、あくまでも私の推論に過ぎないが、緑に包まれ、静かに収まりよく建つ八角円堂を前にすると、遠い歴史の陰はなにひとつ見えてはこないが、権力移行によってもたらせる歴史叙述、人物評価の変転を考えてみるのも面白い。
参考・引用文献
仁藤敦史「藤原仲麻呂 古代王権を動かした異能の政治家 」中公新書 Kindle版
井上亘「『光明』立后の史的意義をめぐって」学習院史学1993年
木本好信「光明皇皇太后の政治構想とその内訌-光明皇太后と孝謙上皇母娘の葛藤-」
甲子園短期大学紀要第二四号(平成十七年)
国指定文化財等データベース「新薬師寺本堂」 文化庁
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/2465
「東大寺要録巻第五」 佛教大学附属図書館 26/51
https://bird.bukkyo-u.ac.jp/collections/todaijiyorokusoshoshingai-05/
金原正明「新薬師寺旧境内展~蘇る幻の大寺院~」奈良教育大学教育資料館年表
https://www.nara-edu.ac.jp/ADMIN/siryokan/kyukeidaiten_leaflet.pdf
亀井 勝一郎「大和古寺風物誌 」 Kindle 版
斉藤 孝「新薬師寺本尊薬師如来坐像を中心に」関西学院大学 人文論究18巻 1968年
岩本健寿「奈良時代施薬院の変遷」早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第4分冊2008年
平尾真智子「光明皇后の施薬院・悲田院と施浴伝説」日本医史学会 平成 23 年 5 月例会
国史大系第6巻 扶桑略記 286/438
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991096
国史大系第14巻元亨釈書 396・475/618
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104/396
国史大系第16巻 今昔物語 巻11 305/808
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991106
「大和志料」下巻 大正2年 297/359 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950814/115?tocOpened=1
「大和名所図会」大日本名所図会 第1輯第3編 大正8年245・69/375国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/72
植村禹玄「廣大和名勝志」11冊 9/67 奈良県立情報図書館まひろばライブラリー
https://meta01.library.pref.nara.jp/opac/repository/repo/138990/?lang=0&mode=1&opkey=R165545494048751&idx=11&chk_schema=400&cate_schema=400#?c=0&m=0&s=0&cv=8&r=0&xywh=1032%2C1243%2C2584%2C1864
藤園主人「大和名勝」明治36年 56/107 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766007
川井景一「和州社寺大観」明治28年 63/81 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818797/3?tocOpened=1
「大和志」102/195 奈良女子大学学術情報センター
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=NARA-00001&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%BF%97%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=102
水木要太郎「大和巡」明治36年 107/125 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952823/225?tocOpened=
「大和国奈良原興福寺伽藍記一巻」日本仏教全書119巻 198/246 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766009/107?tocOpened=1
国指定文化財等データベース「八角堂内陣装飾画」
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/2612
角川日本地名大辞典(旧地名編)「前山」
http://jlogos.com/docomosp/word.html?id=7399740
「国史大系第2巻 続日本紀」217・233/405 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991092
中田祝夫「日本霊異記」日本古典文学全集8小学館 1985年版 下巻第三八 360~361頁
「訳註大日本史 一」145/268 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920505
「訳註大日本史 五」295/404国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920565
「訳註大日本史 四」93/402国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920547
新薬師寺付近築地塀の道
新薬師寺本堂
新薬師寺本堂
新薬師寺境内
新薬師寺境内
新薬師寺境内
頭塔
法華寺本堂
法華寺浴室
法華寺境内
五條市新町通り
榮山寺鐘楼
榮山寺多輪塔
榮山寺大日堂
榮山寺境内
榮山寺本堂前の石燈籠
榮山寺本堂(薬師堂)
榮山寺八角円堂
榮山寺八角円堂
榮山寺八角円堂
春日大社
法隆寺五重塔
春日大社回廊
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