日本の自然
かつて70年代に、照葉樹林文化論が脚光を浴びたことがあるが、私も上山春平・中尾佐助の中公新書の「 日本文化の深層 照葉樹林文化論」を読み、日本の文化や日本人の民族性を説明するのに、これを明快なものはないと、信じた時期もあった。もちろん、文化と民族性を語る時、風土的、気候的ファクターだけ語ることはできないし、複雑な要素の絡み合いがあって、いまの日本という社会が出来上がっていることは、言うまでもない。そのことは、和辻哲郎の「風土」に対する批判からも十分検証されていると思う。とは、言いながら、縄文期の食材として、どんぐりが有力であったことや、その後稲作への移行過程、山の入り合いとしての活用など、日本の長い歴史のなかで、日本人の生活、生産を照葉樹林が支え、影響を与えて来たのも、歴然とした事実だ。
いま、日本の山林は戦後の木材増産のための植林により、針葉樹林化が進み、自然林としての照葉樹林は圧倒的に減少している。神社の杜や一部の里山の残るシイ、カシなどの照葉樹林の森のなかに踏み込んだときの足の触感が私は好きだ。もっとも、それを楽しむために里山を歩いていて、落葉に足を取られ、踝を割ってしまった苦い経験はあるけれど・・・、私は好きだ。そして、照葉樹林の深い森に入れば、下草と堆積した腐葉土がしっとりと水を含み、保水しているのが、よくわかる。この湿気感が頬に当たる冷涼感とともに、その土地の清々しさを強調する。山や森や滝が信仰の対象になるのが、実感できる。
とはいえ、日本列島は細長い、照葉樹林で物事が説明できるほど単純ではない。亜寒帯から亜熱帯まで広がり、そして海流がこの列島に多くの影響を与えている。そこに、おおきなプレートがぶつかり合う大陸棚の末端という、不安定な場所に存在しているお陰で、地震、火山の被害も多く、そこに生きている人間の「無常観」へもつながる。
その意味では、日本の自然は観察するのにあきない。 典然