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​特集12月号​   日本の橋(Ⅰ)

 旅をして車窓から風景を眺めていると,日本という国は瑞穂の国ということもあって,なんて川が多いのだろうかと思う。新幹線は高架が多いので,さほどその感覚は薄いが、中山間地を走るローカル線に乗っていると,トンネル,その次に橋,またトンネルそして橋という区間が多いことに走行音からだけでも気付く。

 日本には必ずしも幅が広く長大な川ではないが,小河川も含め多数の川があり,それを渡るために古くからいろいろな構造をした橋が架けられてきた。現代人にとっては,橋を単に,川を渡るという機能的な側面から見ることが多く,その経済効果,架橋技術,あるいは機能美ばかりに目が行きがちだ。近世以前のひとびとはどうやら違った見方をしていたようだ。それは日本の文学や伝説にも良く現れている。

 

 三浦基弘等の「橋の文化誌」では,ドイツの哲学者ジンメルが橋を「人間の意志と空間の二つの世界をつなぐ結節点」だと定義したことに対し,「古来,紙と木の文化を育て,西欧や中国のように石や煉瓦の永久構造物をつくらなかった日本人にとって,橋は仮そめの通い路,二つの世界を分けへだてる境界,つまり端(はし)として考えられてきた。端には、異質の文化が創造される自由さがある」と日本人には独特の橋に対する感覚があるとしている。

 もっとも,文芸評論家の保田與重郎が戦前に書いた「日本の橋」では,さらに心情的な側面を「日本の橋も,形の可憐なすなおさの中で,どんなに豊富な心理と象徴の世界を描き出したかということは,もう宿命のみちのように,私には思われる。…中略…日本の古代の橋が百姓の閑暇な九月十月のころの庸で作られたようなことも,異国の政治文化とひきくらべると,まことに雲泥の差であろう。あの茫漠として侘しくも悲しい日本のどこにもある橋は,やはりの人の世のおもいやりや涙もろさを芸術よりさきに表現した日本の文芸芸能と同じ心の抒情であった」とまで書き,外国にはない,日本の美点だとまで述べている。

 これは,日本浪曼主義の中心的存在であり,「反近代主義・日本回帰」標榜していた保田だけあって,ここまで思い入れが激しいと辟易とはするが,優位性ではなく,日本人の橋への想いに独自性があったかもしれない。ただ,それは必ずしも日本人ばかりではなく,民族や気候風土などの環境により,それぞれの橋に対する独自性があったことも知っておかねばならない。

 このことは柳田国男の「橋」に関する論考でも,意識されている。たとえば,柳田国男の「橋姫」論をみると橋に対する心情はかなり率直なもので,抒情的な面があっても明確な生活の知恵という側面が強いと立場をとっている。「橋姫」はいろいろな伝承はあるが,その話の肝となっているのは,橋に女が現れて,往来する旅人などを試すことである。「橋姫」の冒頭に紹介される甲州の「猿橋」と「国玉橋」の話も同様である。柳田は「橋姫」は鬼女あるいは神とするが,なぜ,ここに鬼女なり神が現れるかというと,「街道のなかでも坂とか橋とかは殊に避けて外を通ることの出來ぬ地點である故に,人間の武士が切處としてこゝで防戦をしたとおなじく,境を守るべき神を坂または橋の一端に奉安したのである。しかも一方に於いては境の内に住む人民が出て行く時には何等の障碍のないように,土地の者は平生の崇敬を怠らなかったので,そこで橋姫といふ神が怒れば人の命を取り,悦べば世に稀なる財寶を與へるといふやうな,兩面兩極端の性質を具へて」いたというのである。さらに柳田はこうした橋と神霊の話は外国にもあると言っているので,すべてこれらが日本的とは言い切ってはいない。

 もちろん,日本においては,柳田の収集した「橋姫」伝説以外にも日本の神話,説話,民俗的事象のなかには,橋に対する思念や情念が数多く盛り込まれている。それを雨宮久美は「天と地とを架け渡す天の浮橋」,「恐ろしい異人と遭遇する戻橋・安義橋・瀬田橋」,「御霊・怨霊を鎮め川に送りやる雨宮の橋がかりの神事」,「文殊浄土の遙かな高みを象徴する石橋」などを挙げて,橋の境界性や両義性,象徴性について検討を加えている。

ダニエル・ストラックは,日本に限らず伝承や文学を含めた,「橋の文化的象徴性」を「①人生の困難を乗り越えるのは橋を渡ることである ②人間関係の発展は橋の建築である ③人間関係の破綻は橋の破壊である ④運命の逆転に遭遇するのは橋を渡ることである ⑤死につつある人は橋を渡る人である ⑥分離している二つの状態の接触点は橋である ⑦超越的な視点から透視するのは橋から眺めることである ⑧人間の文化的な洗練は橋梁技術である ⑨武力制圧の準備は橋を架すことである ⑩犠牲が払われる場は橋である」として、10の橋の「普遍的な隠喩性」として整理している。

 この10の隠喩性が普遍的であるという前提に立てば,柳田の「橋姫論」も雨宮が検討を加えた橋の境界性や両義性が,必ずしもすべて日本的なものとすべきではないかもしれない。それゆえ,ダニエル・ストラックは,柳田がその普遍性を十分に理解していたのに対し,保田は,橋の普遍的な隠喩性を理解しないまま,日本の橋と外国の橋を比較したことによって,本質を見誤ったとしている。

 こうしてみると,橋には「普遍的な隠喩性」があるとしても,「日本人にとって,橋は仮そめの通い路,二つの世界を分けへだてる境界,つまり端(はし)」という想い,心情がとりわけ強く,特徴的な部分であると言った方が正しいのかもしれない。

 ただ,この日本人の想い,心情がはらんだ「日本の橋」の現実はどうなっているのかといえば,近代的な経済合理性のもと,もうそんな普遍的な隠喩性も日本的な境界性,両義性も失っているのは事実だろう。それでも,善かれ悪しかれ、現代には現代の橋の物語が宿っているだろう。そんな事例をいくつか拾ってみたい。

(1)谷瀬の吊り橋

 この橋こそ,橋まつわる伝説などはなく,生活のための橋だ。この点は明確だ。

 JR和歌山線五条駅から約43㎞。奈良盆地の中心大和八木から新宮まで,日本最長の路線バスが1日3便走っている。奈良盆地の南,五條から丹生川沿いに登り詰め,やがて分水嶺を越え,天の川、さらには下流の十津川沿いに谷あいを進んだところにある上野地集落の北端から対岸の谷瀬集落に向け架かっている。この十津川は和歌山県に入り熊野川となり,太平洋に注いでおり,この上野地集落にしろ,谷瀬集落にしろ,深い,深い熊野の山々に抱かれていることころである。谷瀬には後醍醐天皇の第3皇子護良親王が匿われたという黒木御所跡もあり,当然のことながら南朝の関係も深く、橋についても多くの伝承があっても良い所だが,この橋は極めて実用的な経緯で架けられたのが面白い。この十津川本支流には現在でも40本以上の吊り橋があるというから,両岸は切り立った崖を形成しているこの地で生活を営むためには,吊り橋は実用性が極めて高かったのだろう。

 もっとも,谷瀬と上野地の間には古くから橋はあったとされ,すでに1835(天保6)年の「和州吉野郡十津川郷細見全図」にも描かれているものの、これは谷の底に架けられた丸木橋で十津川の洪水のたびに流されていたというから,長さ297m、川面からの高さは54mもある長大な鉄線橋という吊り橋を架けるために,近代的な建設技術が必要だったのだろう。 

この橋は1954(昭和29)年に完成したわけだが,いかに谷瀬の集落の悲願であったことは

 集落の住民たちがが、地区の共有財産であった松林の松を売却して建設費用を捻出したうえで、村の協力を得て建設したというからその切実さは伝わってくる。最近はここばかりでなく,各集落はコンクリート橋で結ばれるようになっており,吊り橋の方は観光的な意味合いが強くなっているところが多い。

 谷瀬橋は十津川の新緑,紅葉を愛でるには適しているところであり,現在は観光的な価値の方が高く,ついストーリーを作りたくなるが,この山間で極めて実務的実用的な吊り橋があるということが,日本人が営みのために山や川との長い,長いせめぎ合い,すり合わせをしながら適応した証だろう。この事実がこの橋の魅力といってよいだろう。

 

(2)かずら橋

 十津川の谷瀬橋より早くから観光化したかずら橋。この橋は古い歴史があるだけに,伝承・伝説も多い。まさに,保田好みの日本の橋かもしれない。

 かずら橋の伝説でもっとも有名なのは,平家の落人伝説だ。現在の地元の観光情報には必ずと言って良いほど紹介されている。伝説としては,壇ノ浦の戦いで敗れ,安徳天皇が入水して平家は滅びたといわれているが,実は生き延びて祖谷渓に入ったというのである。そして,敵から身を守るために,切り落とすことができるかずら橋を架けたというのだ。他には,弘法大師や行基が村民救済のために架橋したという伝説もある。もちろん,いずれも確たるものはないが,この橋が生んだ,境界性や象徴性がこうした伝説を生むのだろう。

 「西祖谷村史」によれば,かずら橋の前段階として祖谷渓には「浮橋」というものがあっというのだ。これは渓谷に筏を組んで,それを蔓で両岸につなぎとめ,増水したときには,流されるままにしていたという。なぜ「浮橋」と称したか,については,村史では「これはあるいは古語の天の浮橋の遺名かとも思われ」るとしている。実用的に架橋された橋ではあるが,自然神との対話があったのかもしれず, 雨宮の整理した「天と地とを架け渡す天の浮橋」の思念に通ずるのかもしれない。そして,この浮橋では,洪水のたびに流され,材料調達の観点からも現在のかずら橋のようになったのではないかと村史は推測している。

 かずら橋に使用する素材は「秘境の祖谷山神話と伝説」によると「しらくち蔓」で,これは「短年に丈非常に伸長し,生の裡は柔らかくて使い易く,しなびても火に燻せば柔らかくなりて使用に便利な許りか,枯れても堅くなって腐敗を知らず,多年の使用にも耐え得る利点」があるからだという。ただ,古書には蔓橋とはせずに,「藤橋」と称することも多いとしているが,藤蔓を使用していたわけではないとしている。祖谷渓には同様の橋が近世に置いては13橋、明治後期でも8橋あったとされているが,近世以降は実用性とともに,景勝地としての地位を固め,伝説と共に民謡や詩歌にもその名がでてくるようになったという。

 しかし,結局は,交通手段の変化や近代的な架橋技術の浸透ともに,実用性を失うことになった。「秘境の祖谷山神話と伝説」の表現を借りれば「蔓橋は地区住民に完全に無用の長物と相成った」とし,「大正十二年板橋架設の後は荒れるに任せた」状態で無惨な姿になったのを昭和二年に村内外の篤志家,地元住民の手で復元再興したという。その後,戦時中に遅延はあったものの3年一度の架け替えをし,維持しているという。こうした努力が,観光資源としての価値を現代まで,継承し高めてきたということだろう。

伝説・伝承のストーリー性と地元の努力で継承されたこの橋の重要性はよく理解できる。しかし,観光資源の利活用に熱心になれば,なるほど本来有していた資源価値を損なう行為もでてくる。現在のかずら橋もその例に漏れない。かずら橋の場合,その問題点をすでに地元行政も認識し,改善に努めようとしているので多くを語る必要はないが,ひとつだけ、その例を挙げておくと,駐車場問題だ。

 かずら橋があるところは当然,山間なので,駐車場も少なくこれを解消しようとして,2006年に「かずら橋夢舞台」という大駐車場付き休憩所,土産物,レストランなどを備えた施設を造った。駐車場自体を造ることは,かずら橋のたもと付近が狭隘なので観光資源活用の観点から言えば,必要性は高い。しかし,問題は,まったく景観と調和しない,大都市のショッピングセンターと見紛うばかりのコンクリートむき出し構築物の上に設けたことだ。かずら橋の山中の狭隘な渓谷に架けられた吊り橋には不似合いなものだったのだ。かずら橋付近からもその駐車場が視野に入ることになってしまったのだ。

 自らがなぜ,この観光資源の需要な要素である渓谷景観を壊し,資源価値をさげたのか,残念な結果となっている。現在,緑化などが検討されているようだが,今後,観光資源を活用していく時に,なにがもっとも重要で,資源価値を高め,持続性の確保するための工夫について,関係者が専門家と共に十分に検討議論すべきだったという,教訓となった事例なのだ。

 次回も引き続き,現代の橋の新しいストーリーを追いかけてみたい。

参考引用文献

三浦基弘・岡本義喬「橋の文化誌」平成10年 222~223頁 雄山閣出版

「現代日本思想大系 第32 保田與重郎『日本の橋』(昭和11年)」筑摩書房

1965年 84/207 国立国会図書館デジタルコレクション

 

「定本柳田国男集 第5巻 『一目小僧その他 橋姫』」筑摩書房 1962年 121/279 国立国会図書館デジタルコレクション   

雨宮久美「橋の文化的意味―聖と俗の架け橋―」国際関係研究(日本大学) 第35巻1号 平成26年

ダニエル・ストラック「『日本の橋』と世界の橋―保田與重郎と柳田國男における〈橋〉の異相―」北九州大学文学部紀要(北九州大学)2001年 61号

「西祖谷山村史」1985年 国立国会図書館デジタルコレクション 140・373/445

谷口秋勝「秘境の祖谷山神話と伝説 増補改訂版」1983年 国立国会図書館デジタルコレクション 186/221  

 

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​京都府天橋立

​奈良県谷瀬の吊り橋

​奈良県谷瀬の吊り橋

​奈良県谷瀬の吊り橋

​奈良県谷瀬の吊り橋

​徳島県かずら橋

​徳島県かずら橋

​徳島県かずら橋駐車場

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​徳島県谷かずら橋

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