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「山の辺の道」私的ガイド(Ⅰ) 
 海柘榴市から大神神社に至る
           
​           2022年4月号

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 奈良には以前から何回も訪れているが、なかなか「山の辺の道」を歩く機会がなかった。「山の辺の道」の途中にある大神神社などには立ち寄ったことはあり、古代の道への興味はあるものの、通して歩いてみるとまではいかなかった。しかし、ある時、日本書紀に出てくる物部麁鹿火の女(もののべのあらかいのむすめ)の影媛(かげひめ)の一説を読み、やはり一度実際に歩いてみたいと思うようになった。
 この影媛は平群氏と大伴氏の権力争いのなかで、後に武烈天皇となる皇太子稚鷦鷯(わかさぎ)に恋人の平群鮪(へぐりのしび)が殺されたことから、「日本書紀」には「石の上 布留を過ぎて 薦枕(コモマクラ) 高橋過ぎ 物多(モノサハニ)に 大宅過ぎ 春日(ハルヒノ) 春日を過ぎ  妻ごもる 小佐保を過ぎ 玉笥(タマケ)には飯(イヒ)さ盛り 玉盌(タマモヒ)に水さへ盛り 泣き沾(ソホ)ち行くも 影媛あはれ( 石の上の布留を過ぎて、高い枕の高橋を過ぎて、物の多い大宅を過ぎて、春がすみの春日を過ぎて、妻の籠るという小佐保を過ぎて、はるばると、悲しい旅を続けて来たことです。死んだ人のために、玉の器には食べ物を盛り、玉の椀には水さえ盛って、泣き濡れて行くのです。哀れ影媛は。 現代語訳:福永武彦)と、「山の辺の道」の道筋に沿い、影媛の悲しみを詠み込んだ歌が収載されている。この悲劇は、皇太子の稚鷦鷯が影媛に横恋慕し、海石榴市で開催された歌垣で平群鮪と争ったことにはじまるという。この横恋慕には政争が絡んでいて、これを契機に平群氏の没落が決定的になったという。
 このような事件の舞台となった「山の辺の道」は、古代にとって人の流れや思いをつなぐ重要な道であったことがわかる。「日本書紀」のこれらの記述だけでなく、「山の辺の道」については「古事記」にも「万葉集」にも大和政権の成立の舞台として、あるいは、古代の生活の機微に触れた歌などが取り上げられている。いかに古代の人々にとってのこの道の重さが推し量ることができ、一度、実際に歩いてみたいという気になったのだ。
 
 「山の辺の道」は、大和(奈良)の「青垣」と称されてきた三輪山、龍王山、高円山、春日山など奈良盆地の東縁部をなす山並みの山麓を縫う約26㎞余りの道だ。そのうち、影媛が辿った石上神宮から乃楽山(平城山丘陵)の北ルートの道は、現在は都市開発が進み古道の面影はないが、海石榴市のあった桜井市金屋あたりから天理市の石上神宮までの南ルートの道は、古道の雰囲気をよく遺しているということから、こちらを歩いてみることにした。 
 コースとしては、JR桜井線(万葉まほろば線)・近鉄大阪線桜井駅から金屋(海柘榴市)-大神神社(三輪明神)-景行天皇陵-崇神天皇陵-長岳寺-石上神宮へと抜け、JR桜井線(万葉まほろば線)・近鉄天理線天理駅の16㎞ほど。この区間のほとんどは、「青垣」の山端を歩き、古くからの神社や寺院があると、沢に分け入たり高みに出たりしている。高みに出ると奈良盆地を広く見渡すこともできるコースだ。

 ということで、まずは、JR奈良駅からJR万葉まほろば線に乗って桜井駅に向かう。奈良駅を出てしばらくすると田園風景が続き30分ほどで着くが、どうも「万葉まほろば線」の線名が落ち着かない。最近、相互乗り入れが多いせいか、鉄道路線名に愛称を付することが多くなった。しかし、この路線は観光用なのだろうが、なぜ「桜井線」ではダメなのだろうか。「万葉まほろば」という漠然とした路線名には機能性がなく、どこを走っているかもよくわからないと、少し戸惑いながらも桜井駅に到着する。
 桜井駅の周辺はかつて宿場町で賑わったといわれ、現在は近鉄も乗り入れていて駅そのものは小ぎれいではあるものの、なんの特徴もない寂しげな駅だった。「山の辺の道」の起点となる海柘榴市へは北口に出てよいのか、南口に出てよいのかは改札のところでは分からなかったが、山並みや線路の別れ方をみてとりあえず北口に出てみた。駅前広場も整備されていたが、朝9時、人影も車も余りになく、寂し気な感じはここも変わらない。
それでも、広場の出口付近には「山の辺の道」の看板があり、取掛りにはなりそうだ。そのまま、正面の道を北に向かい歩道を歩きだす。歩道には、「歴史の道 山の辺の道」の小さな案内板が埋め込まれていて、これなら間違いがないと一安心。しかし、400mほど歩いて右に曲がり、まもなく線路を渡ると、歩道が無くなり、当然ながら案内板も見失う。山の辺の道美化促進協議会のイラストマップを持っているので迷うことはないだろうと、高をくくっていた。数百m東に向かい、次の信号のところにあるはずの案内板が見あたらず、さらに300mほど先の信号へ。でも案内板がない。道に迷ったかと思い、ガソリンスタンドのスタッフに聞くと、「来過ぎているよ。その地図不正確だから」のひとこと。前への信号がどうも正しいらしい。その地点から海石榴市への行き方を教えてもらい、海石榴市のある初瀬(大和)川畔に向かった。
 癪に障ったので、あとでGoogleマップのストリートビューで確認すると、確かに案内板はその前の信号のところにあった。ただし、桜井駅から右側通行できた歩道側にはなく、交差点のはす向かいの用水路の金網の中に申し訳なく立っていた。しかも政治家の後援会看板の陰に隠れるようにして・・・。
 ともかくも、そんなことありつつ、少し遠回りしたけれど、海柘榴市の遊歩道橋のたもとに立つことができた。ここまで本来なら1.6㎞ほど、私は2.1kmほど歩いて辿り着いた。
 着いてみると、ここが難波津から大和川を遡行してくる舟運の終点かと思うほど、以外に川幅も狭く、水深も浅そうだ。もちろん、上流にダムが出来たり、治水整備がされたり、して水量はコントロールされているのだろう。古代の川幅がどの程度のものであったかは、全く想像できない。だが、この海柘榴市の名は、「万葉集」にも、「日本書紀」にも何度か登場する重要な場所だった。難波津からの舟運の終点であるとともに「山の辺の道」・初瀬街道・磐余の道・竹ノ内街道が交錯する交通の要衝であり、すぐ南には飛鳥京、藤原京があり、北に向かうと神代も含め天皇の行宮だったといわれる場所が続き、平城京への接続もよい。
 「万葉集」や「日本書紀」でも、このロケーションと市としての繁栄ぶりが歌に詠まれたり、記録されたりしている。万葉集では「紫は灰指すものぞ海石榴市の八十のちまたにあへる児や 誰」(紫の染汁には、椿の木を焼いた灰を加えるものである。その「つばき」から聯想される海石榴市の四通八達の辻で、逢った女、そなたは、何という名なのか。訳・佐佐木信綱)と詠われ、「八十のちまた」、すなわち「四通八達の辻」であったとされることや音が「椿」に連想されることから「椿市」とも表記されていたことが分かる。
 さらに「日本書紀」では、552年(欽明13)年に百済の聖明王の使者が、天皇に「釋迦佛の金銅像一軀、幡蓋(仏堂を飾る幡と天蓋)若干、経論若干巻を獻(献)」したと記されており、百済の使者が仏教を始めてわが国に伝えるために上陸したのがこの地で、ここより上流600mほどのところにあったとされる欽明天皇の行宮、磯城島金刺宮に向かったのではないかと推測されている。現在は、遊歩道橋を渡った堤の上に「仏教伝来之地」の石碑が建つ。
 また、同じ「日本書紀」には、608(推古16)年秋八月の項に「餝騎七十五疋を遣して、唐客を海石榴市の衢(ちまた)に迎ふ」と、やはり、この地で朝廷が廷臣を出して唐からの使者を迎えたという記載がある。
 平安遷都後は寂れた時期もあったが、長谷寺詣が盛んになると、宿場としても再び賑わった。このため、枕草子、源氏物語、蜻蛉日記にもこの地の名は登場する。枕草子では「市は 辰の市。椿市(海石榴市)は、大和にあまたある中に、長谷にまうづる人の、必ずそこにとどまりければ、觀音の御緣あるにやと、心殊になるなり。」(市は大和奈良の市。そのなかで海柘榴市は長谷観音に参詣する人が、必ず泊るところであるから、観音様のご縁があるのかと、ことさら思えてくる)として記している。
 いま、ここを訪れると、交通の要衝として隆盛を極めた海石榴市の面影はなく、堤の上から大和らしいなだらかな小山を背に静かな住宅街がほんの少し広がるだけだが、遊歩道橋の上から、下流を望むと大和盆地の広がりが望め、古代に遡行してくる舟が数多くあったことを空想してみるも悪くない。

 さて、いよいよ、「山の辺の道」を歩き出す。初瀬(大和)川の堤から下り、案内板に沿って比較的古い家並みが続く小路を行くと、海柘榴市観音堂の標識。路地を入って坂を少しのぼると、ここは祠堂と石仏が数体並ぶだけで、とくに面白いものはないが、清潔なトイレがあるのがよい。観音堂から元の道にもどると、古い家並みと近代的な住宅が立ち並ぶ狭い道は少し上り坂になる。
 左手に平坦な広場が見えるとそこが喜多美術館。「世紀末印象派から現代までの西洋美術を常設展示」しているとのことだが、たまたま休館日だったので、今回はパス。美術館の前には休憩用のベンチとトイレがあり、その先に唐突に「金屋の石仏」(国指定重要文化財)のコンクリート造りの収蔵庫がある。味もそっけもない建物だが、石仏は鉄格子付きの扉から覗くことができ、この石仏はなかなかのもの。高さ2.2m、幅79cm、厚さ21cmの泥板岩2枚の上に浮彫された石仏は、向かって右手の石板に釈迦如来像、左手の石板に弥勒如来像が描かれている。かなりすり減っているところがあり、とくに左手の弥勒如来像の面相や表情は分からないが、右手の釈迦如来像は端正な顔立ちに彫られており、肩幅は広く、がっしりとした体躯で衣紋も流麗に表現されている。
 この石仏は平安後期の作といわれている。もともとは、金屋の集落を抜けたこの先にある平等寺の石仏だったいう。明治の廃仏毀釈の際、同寺が大神神社の神宮寺であっため、堂塔は廃絶され、仏像類61体が持ち出されたが、この石仏は金屋区の住民がこの地に安置保存していたという。当時の廃仏毀釈が一般庶民の信仰心とは別のものであったということがこの一事でも理解できる。
 さらに古道を進むと崇神天皇の宮とされる磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)伝承地の標柱が左手の畑越しに見える。「日本書紀」には、春日率川(いさがわ)宮から「崇神天皇三年秋九月、都を磯城に遷したまふ。是を瑞籬宮と謂ふ。」と記されている。現在の奈良市内からこの三輪山の山麓に遷宮したとされている。これも山の辺の道ルートでの遷宮だ。
 ここからさらに山襞に入ったところに平等寺がある。古道から石段をとんとんと登れば境内で、背には三輪山の緑が迫る。この寺は聖徳太子伝説も遺る古寺で、かつては大神神社の神宮寺として大三輪寺とも称されたが、明治期の廃仏毀釈の流れで廃寺となり、1977(昭和52)年になって、こぢんまりと再興された。その廃寺の際に流出した仏像の2躯が「金屋の石仏」であることは前述した。
 この寺を過ぎれば、大神神社へはもうひと息だ。


参考・引用文献
中村啓信「新版古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) 」角川学芸出版Kindle 版
「大日本名所図会 第1輯第3編 大和名所図会」176/375 大正8年 国立国会図書館デジタルコレクション
佐佐木信綱「万葉集(現代語訳付)」Kindle 版 
中村啓信「新版 古事記 現代語訳付き」角川ソフィア文庫 Kindle 版
福永武彦 「現代語訳 日本書紀」河出書房新社. Kindle 版
金子元臣 枕草子通解 明治書院 昭和4年 40/316 国立国会図書館デジタルコレクション
黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻・下巻」 岩波書店 昭和6年・昭和7年 (中)26・29・43/168  (下)20・53/183 国立国会図書館デジタルコレクション

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