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東京「白山」から「白山信仰」を辿る旅(Ⅱ)                      江戸における「白山信仰 ​」                       

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​小石川白山神社指ヶ谷側の石塔

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​小石川白山神社指ヶ谷側の石段

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​小石川白山神社 「江戸名所図会」    国立国会図書館デジタルコレクション

B11 小石川白山神社 江戸名所記7 国立国会図書館デジタルコレクションdigidepo_1144154_noBundleName_27253c6d-e7a9-4b57-9215-

​小石川白山神社 「江戸名所記」     国立国会図書館デジタルコレクション

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​東京大学小石川植物園

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​東京大学小石川植物園

B14小石川簸川(氷川)神社 江戸名所図会 国立国会図書館デジタルコレクションdigidepo_2563392_noBundleName_46a5f268-b588-44c8-a1

​氷川(簸川)神社 「江戸名所図会」       国立国会図書館デジタルコレクション

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​奈良県宇陀市 室生寺(女人高野)

 前回は、小石川白山神社の創建から室町時代までの由緒について、探ってみた。しかし、中世を通じ、本郷元町(同朋町)にあった小石川白山神社の前身の社について、明確なものはつかみきれなかった。
 ただ、室町末期には、本郷元町(同朋町)になんらかの社があったことについては、「寺社書上」にある「天正19(1591)年辛卯十一月、御鷹野御成の日當社御鎮座の傳記 聞召されて御神拝なりをられたり」との徳川家康参拝の記事は注目してもよいのではないか。「寺社書上」は幕府に対する寺社側の申告であるので、「由緒」には疑問点も多いが、それでも将軍家に関する記載なのでそれなりの裏付けはあったのではないだろうか。
また、徳川家康自身ももともと白山信仰について十分に認識していたので、白山系の神社への参拝の可能性は十分にあると考えられる。それは、千々和到によると1560(永禄3)年から1588(天正16)年までの28年間、家康の起請文は「いずれも白山瀧宝印を用いていたとみなすことができる」からだ。
 この「白山瀧宝印」は美濃白山長瀧寺系のものだとしている。千々和到は下出積與の説を紹介し「全国の白山社が加賀の白山社といわれる白山比咩神社を本社とする形が一般的になるのは、明治政府の方針によって徐々に醸成されたもので…中略…それまでは越前馬場の平泉寺・白山中宮と美濃馬場の長瀧寺・白山本地中宮の三者は同等の地位を保っていた」としている。三河と遠江を本拠地していた徳川家康に東海道筋から関東への白山信仰の浸透させる中心であった美濃馬場長瀧寺系の影響があったことは、間違いないだろう。こうした、徳川家康あるいは徳川家の白山信仰への理解が1655(明暦元)年の現在地への遷座の背景になっていた可能性もあろう。しかし、家康の参拝あったとしても、本郷元町から小石川への遷座当時の白山神社は、自然神を祀る祠、社に白山信仰などが付加された程度の小規模だったと考えるのが妥当だろう。
 1616(元和2)年の本郷元町(同朋町)から小石川への最初の遷座でも、「御府内備考」によれば、その遷座先では、「往古小石川村鎭守氷川明神、白山權現、女神權現と三社有之候處 年代不知三社共別殿に相成」という状況であり、社殿は別々にあったようだが、村の鎮守というレベルからも、依然として大きな社を構えていたとは考えられない。
 なお、白山神社は氷川神社と女体神社と一緒に祀られるのだが、文京区史によると「聖泉とみられたところ」で「江戸砂子」には「極楽水の竜女をまつる所」だったとして、もともと女体神社が祀られていたという。そこに女体神社と関係が深い氷川神社(現在は簸川神社と表記)が合祀されていたのではないかと思われる。氷川神社の由緒については、諸説があるものの、「小石川区史」によれば、氏子から鑑みて「舊小石川の總鎮守たることは疑ひなく、また小石川が室町中期以後相當に開發された地で」あることから、創建も相応に古いものとし、「其社地が現在(現・文京区千石)より少しく南東寄りの舊白山御殿地」にあったとしている。そうした霊地に白山神社も本郷元町から江戸開府の都市計画に基づき移転してきたのだ。

 さらにその地が、1652(承応元)年に館林藩主徳川綱吉の御用地(白山御殿)となり、これにより小石川白山神社は1655(明暦元)年に現在地へ再び遷座することになる。なお、氷川(簸川)神社の遷座先は現在地の千石に定まる一方、女体神社については伝通院境内に遷されたとも言われるが、移転先は不明だ。徳川綱吉が将軍となった後、この御用地(白山御殿)は、御薬園、小石川療養所となり、現在は、東京大学小石川植物園となっている。
 この遷座は、小石川白山神社にとっては、大きなエポックになり、それまでの単なる村の鎮守から、幕府から手厚い保護を受けるようになる。
 その背景を推測の域はでないが、少し考えてみたい。
遷座先は、本郷元町から小石川の御用地(白山御殿、現・東京大学小石川植物園)、そして現在地となったが、その現在地には、当時、今は摂社となって鎮座する八幡社や(浅間社)富士塚がすでにあり、古くからのこちらも霊地だったと言って良いだろう。
 白山神社の「寺社書上」では、とくにこの遷座の時点における加賀の白山比咩神社からの勧請に触れていないが、江戸時代の地誌では前述のとおり、いずれも1615~17年に勧請したとしている。しかも江戸時代の地誌は遷座前の経緯についてはほとんど触れていない。「寺社書上」は幕府へ提出する資料であるから、より古い社だったとして権威を高めるため、勧請、創建を10世紀中盤としているので、たとえ、江戸初期に(再)勧請したとしても、それには触れなかったのだろう。
 一方、江戸地誌の記述通り、本当に1615~17年に勧請が実際にあったかどうかについては、もっとも古い地誌の「江戸名所記」の発行が「寺社書上」のいう「現社地に移奉」(1655年)直後の1662年であるから、大きな過誤があるとは思えず、この一連の遷座のなかで、なんらかの(再)勧請のような動きがあったと考えても不思議ではない。もちろん、本郷元町の社について、その状況からみて、正式な勧請がなされていなかった可能性もある。
 それにしても、単なる「村の鎮守」の祭神であった「白山神」が独立した社殿をなぜ構えることになったのかについても、考えてみる必要がある。これも直接的な記録が遺されていないので推測するしかない。
 この時期の徳川幕府や加賀藩の白山信仰に対する立ち位置や、白山信仰が置かれていた状況を確認しておきたい。
 幕府側としては、まず、徳川家康の起請文の料紙に「白山瀧印」が使用されており、美濃馬場の「白山長瀧寺」系の影響があったことは既に述べた。そのため、白山神を尊重する基盤はあったとみてよい。さらに、当時の幕府の重鎮で宗教政策にも大きな力を有していた天台宗寛永寺の天海が、1574(天正2)年に一向宗との戦いに敗れ壊滅的な打撃を受けた白山平泉寺の復興に尽力し、1631 (寛永8)年には同寺を寛永寺の末寺化している。
 一方、加賀の白山本宮(白山比咩神社)においても、平泉寺と同様に一向宗との争いで壊滅的な状況に陥ったが、「鶴来町史」によれば、1584(天正14)年に前田利家が金品の奉加を行ったのを始めとして、1596(慶長元)年には社殿の再建を成就させ、社殿造立はその後も続き明治維新まで「二十回が史料から確認」できるという。現在遺されている白山比咩神社の本殿は1770(明和7)年のものである。また、前田家は白山系の僧空照を重用したともいわれている。さらに「寛永年間以降になると、前田家の家臣から四代藩主光高の正室大姫(将軍徳川家光の養女)の入輿に係る祈禱をはじめ、歴代藩主の厄年祓・病気平癒・若君誕生や正側室の安産、藩主・姫君の疱瘡平癒など、藩主とその家族にまつわる多様な祈禱が、白山宮に依頼されていた。他に徳川歴代将軍の病気平癒や厄年祓・若君誕生・還暦の祈禱」なども要請していた。加賀の白山本宮(白山比咩神社)はまさに「大名前田家の保護をうけて、『白山権現』(白山宮)の再興が着実に進められて」いたといえよう。
 こうした加賀藩の動向のなかで、「大姫」(徳川頼房の実子、家光の養女)が加賀藩に嫁いだのは1634年1月4日(寛永10年12月5日)だが、この「大姫」を仲介したのが家光の乳母だった春日局である。また、春日局は家光の側室として桂昌院(玉)を迎えている。そして桂昌院は白山御殿に入る綱吉の母となり、1665(寛文6)年を皮切りに生涯に渡って小石川白山神社に対し熱心に支援したという記録は「寺社書上」に数多く記さている。さらに、「寺社書上」では、1641(寛永18)年には4代将軍家綱の疱瘡祈祷を行っていることや綱吉の長女靏姫などもたびたび寄進奉納をしていたことも記録されている。

 以上のことから、単なる本郷、小石川の鎮守であった社が独立した社殿が造営され、徳川幕府から手厚い保護を受けた理由は、直接的には5代将軍綱吉の御用地にあったことに起因しているものの、その前段における、武家に浸透していた天台宗、真言宗や愛宕信仰、日吉信仰などがバックボーンとなったことも大きな影響を与えていると推測できよう。さらに、幕府側の支援の中心であった桂昌院は、女人高野で知られる室生寺の熱心な支援者で、この白山神社も女神(菊理媛尊)であり、女性の保護神的な役割があったことも重要な点ではなかろうか。
 まさに江戸城の北、加賀藩の藩邸のある本郷台地に接続した台地の縁に立ち、谷を挟んだ小石川台地にある御用地(白山御殿)を臨むこの場所が、この小石川白山神社の存在意義を作ったともいえよう。
 また、白山比咩神社から小石川白山神社への勧請の時期については、天暦(947~957年)説はなんの副証もなく、時代状況からみて考えにくい。江戸時代の地誌にある1615~17年も確かなものではないものの、おそらく、江戸初期当時も、それ以前に勧請された確証が得られなかったため、小石川の御用地から現在地への移転までの40年間ほどの間に、勧請あるいは再勧請があったとみるのが妥当なところであろう。

 結局、最初の疑問であった、「白山」の名が江戸で浸透し、なぜ、現在地に遷座したか、明解な答えは見つからなかったが、複層的かつ重層的な歴史の流れの中で、必然としてこの地に白山神社が造立されたことが垣間見えた気がして、この神社の、また、白山信仰の深遠さを感じることができる。これも歴史散歩の面白さだろう。

 次回と次々回は、白山信仰の源泉ともいえる白山比咩神社と平泉寺白山神社の今を訪ねてみるとともに、一向宗の戦いで一旦衰微した白山信仰が江戸においては、この小石川白山神社など中心として、なぜ一定の崇敬が江戸期に継続されたかも探ってみたい。



参考・引用文献
「寺社書上 [65] 小石川寺社書上 二」小石川白山権現社 106・118/144 国立国会図書館デジタルコレクション 
千々和到「徳川家康の起請文」史料館研究紀要31号 2000年 国文学研究資料館史料館 3/142 国立国会図書館デジタルコレクション
「御府内備考巻之四十四」大日本地誌大系 第2巻 137/166 昭和3年 雄山閣
「文京区史」1967年 164・165/302国立国会図書館デジタルコレクション 
「江戸砂子温故名跡誌」1976年東京堂出版 75/415 国立国会図書館デジタルコレクション
「小石川区史」1935年 42/602 国立国会図書館デジタルコレクション
「江戸名所記 全七巻」巻六 大正5年 江戸叢書刊行会 80/305 国立国会図書館デジタルコレクション
「平泉寺史要」勝山市平泉寺町昭和史編纂委員会1987年 297/710 国立国会図書館デジタルコレクション 
「鶴来町史 歴史篇 近世・近代」1997年 35~47/349 国立国会図書館デジタルコレクション 

 

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