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「山の辺の道」私的ガイド(Ⅲ) 
 桧原神社から石上神宮を経て天理駅に至る
           2022年6月号

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​相撲神社

290056_山の辺の道12-3 相撲神社近くから景行天皇陵IMG_3453.JPG

纏向日代宮跡から景行天皇陵を望む

290056_山の辺の道12-5櫛山古墳IMG_3468.JPG

​櫛山古墳の濠

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​長岳寺

b.紅葉・枯葉・新緑・森林27F11A9320奈良県天理市長岳寺.JPG

​長岳寺

290056_山の辺の道16萱生環濠集落IMG_3482.JPG

​菅生環濠集落

290056_山の辺の道20夜都伎神社IMG_3494.JPG

​夜都伎(やつぎ)神社

290056_山の辺の道18-1内山永久寺境内図IMG_3502.JPG

​内山永久寺跡

290056_山の辺の道18-2内山永久寺跡の池IMG_3505.JPG

​内山永久寺跡

290056_山の辺の道22-0石上神宮F11A0689.JPG

​石上神宮

290056_山の辺の道22-1石上神宮F11A0687.JPG

​石上神神宮

290056_山の辺の道22-3石上神宮F11A9342 (2).JPG

​石上神神宮

290056_山の辺の道23-1天理教おやさとやかた F11A9364.JPG

​おやさとやかた

290056_山の辺の道23-0 天理教本部F11A9357.JPG

​天理教本部神殿

 桧原神社を出て、木立を抜けると、箸中の集落の沢が見えてくる。沢を大きく折れて集落の中を少し下り、右に折れ、しばらく行くと果樹園が多くなってくる。このあたりは柑橘類の産地なのだ。果樹園の先に大きく眺望が開けると、そこに「相撲発祥の地相撲神社」の看板。200m先とあったので、坂道で少し脚が重くなってきたが、「相撲発祥の地」につられて行ってみた。だが、かなりのがっかりスポット。小さな祠と力士の像と野見宿禰の石碑があるのみで、なにもない。この地で野見宿禰と当麻蹴速が垂仁天皇の前で日本最初の天覧相撲を行ったというが、現地では残念ながら何の感興も得られない。
 それより、相撲神社の手前に纏向日代宮跡を見渡す場所があり、眺望が素晴らしい。右下方に景行天皇陵(渋谷向山古墳、景行天皇山辺道上陵)の緑、正面に奈良盆地が見通せ、山裾に水田や纏向遺跡があった場所と思われる空き地が見える。この纏向日代宮跡は景行天皇の宮とされ、日本書紀では景行天皇「十一年十一月庚辰朔」に「則ち更に纏向に都つくりたまふ。是を日代宮と謂ふ」とある。景行天皇陵が望めるというところがミソなのかもしれない。もっとも、この景行天皇陵が景行天皇のものなのかは、景行天皇の実存も含め、現在のところは特定できていない。
 このあと、景行天皇陵を目指し、道を下ったところの曲角を間違えて、なぜか果樹園のなかに入り込み遠回り。それでもこのあたりは引き続き奈良盆地の眺望がよく、のどかで気持ちの良い道ではあるものの、私は若干脚の重さが気になり始める。そのため、景行天皇陵は下らずに山側の道をそのまま辿り、崇神天皇陵(行燈山古墳、山辺道勾岡上陵)と向かう。 この周辺には、天皇陵と言われる巨大古墳以外にも小さな古墳が次々に現れ、多くは埋葬者が特定されていないものの、有力氏族の首長の陵墓であったことは間違いなく、この地が大和政権成立前夜において大和地方の中心的な存在であったことが分かる。
 崇神天皇陵の山側を抜けようと進むと、右手には櫛山古墳の濠が迫り、左手は崇神天皇陵の濠が下に見え、その間を縫うようにして「山の辺の道」が続く。櫛山古墳は4世紀前半の築造で、前方部を両側に築いた独特な形をした双方中円墳というらしいが、濠に映った緑を楽しむくらいで、墳形までは生い茂った木立でよくわからない。
 崇神天皇陵は、古事記では「天皇の御寿命は百六十八歳。戊寅の年の十二月に崩御なさった。御陵は、山辺道の勾岡のほとりにある。」(訳・中村啓信)とはしているが、あくまでの伝説の人であり、この陵墓が誰のものかは特定できていない。なお、日本書紀では、単に「山辺道上陵」としかなく、景行天皇陵と同名になっている。
 崇神天皇陵を過ぎるとまもなく長岳寺の門前、柳本の集落に入る。「山の辺の道」から山門を通り抜け生垣に囲まれた屈曲した参道へ。やがて石段にかわり、左手に庫裏がみえ、正面に鐘楼門が待つ。鐘楼門をくぐると、龍王山の山裾を取り込んだ緑の豊かな境内を見渡すことができる。右手には浄土式庭園が広がり、左手には本堂が建つ。この寺は空海開基という縁起をもつが、大和神社の神宮寺であったことは確かだ。そのため、往時は僧坊が42を数えるほどの大寺であったが、たびたびの兵火と廃仏毀釈で衰えた。しかし、現在も平安時代後期から桃山時代にかけて建立、造立された庫裏、楼門、五智堂などの建造物が並ぶ。ここでは、まず、じっくりと美しい庭園を巡り、その後、本堂の内の量感に溢れ写実的な阿弥陀三尊像などの仏像などを拝観するとよい。

 長岳寺を過ぎると、徐々に果樹園が多くなり、視界も開ける。やがて、萱生の環濠集落に入る。環濠集落は南北朝から戦国時代に成立したもので、環濠は集落の自衛と灌漑のためのものといわれる。この萱生と竹之内集落の環濠は標高100mと奈良盆地のなかではもっとも高い位置にあるといわれている。現在も、この萱生集落では「山の辺の道」沿いに西山塚古墳の濠を利用した部分が遺されている。近くの西殿塚古墳(3世紀後半築造)が継体天皇の皇后手白香皇女の陵墓と治定されてきたが、築造年代の違いから、この西山塚古墳(6世紀築造)がその陵墓ではないかという説もある。
ここを抜けると、果樹園地帯が広がり、西側に奈良盆地の視界が開けてくる。農家の軒先では、柑橘類の無人販売も多くみられ、なかには手作りの大福なども置かれ、山の辺の道歩きの疲れをいやしてくれる。また、菜の花を栽培している田畑もあり、奈良盆地の遠景とよく似合っている。
 いよいよ、ここを過ぎると、石上神宮まであと一息。すこし山を下ると、正面に小さな鳥居とこんもりとした社叢が「山の辺の道」より一段上に見えるようになる。これは夜都伎(やつぎ)神社。江戸中期の「大和名所図会」にも紹介されていて、「今乙木明神」とも称されているとしている。「延喜式」の神名帳にも記載がある。春日大社と関係が深く、若宮の鳥居や社殿が遷宮の折に下げられていたという。現在の本殿は1906(明治39)年に改築されたもので、春日造桧皮葺き、拝殿は茅葺きの造りとなっている。境内も社殿も小作りだが、古社の雰囲気を遺し、最後のラストスパートに向け、一休みするのによいところだ。
 この神社のあとは、山の辺の道も平坦だろうと根拠なく思っていたが、実は内山永久寺跡に向けては結構な登り、少し足にがたつきが出て、歩幅が伸びない。それでも小さなため池を前にして内山永久寺跡の石碑が立っているところまでたどり着く。少しかすれた境内図で読み取れないところもあるが、それでも大寺あったことはわかる。「大和名所図会」にも大きな挿絵付きで紹介している。それによると、鳥羽院の御願により永久年間(1113~1118年)に創建され、「此地五鈷の形の山にして、中央に山峰あり。されば内山と號せり」とし、寺号は創建年代からとったとしている。また、南北朝期には「後醍醐天皇しのびて入御し給ふ遺跡、本堂の乾にあり。又大塔宮も此内山に隠れ給ふ。」とされ、往時は本堂、奥院、観音堂、千體佛堂、二層塔、大師堂、真言堂などの「諸堂巍々として、子院四十七ありなん。」とも記している。その後、寺勢は衰え、明治期の廃仏毀釈によって廃寺となり、今は石碑しかなく、山に囲まれた小盆地の地形に堂宇が建ち並んでいた往時の姿はなかなか想像しにくい。
「大和名所図会」の挿絵には池も描かれているが、これが現在のため池のような池と同じものかは判じえない。ただ、この池畔には桜が植えられており、松尾芭蕉の「うち山やとざましらずの花ざかり」の句碑も立っているので、江戸期から隠れた桜の名所だったのだろう。桜の時期に立ち寄ってみたい気がする。
 あとは、ひたすら石上神宮へ。ここからは比較的平坦な道が続く。古道らしい緑の多い風情の小道が続くところもある。
 藤原定家が「拾遺愚集」で「五月雨のふるの神杉過ぎがてに木高くなのるほとすぎすかな」と詠み、1903(明治36)年の「大和名勝」では「老杉鬱蒼として、神威赫々、自ら襟を正さしむ」と描写しているとおり、布留山を背に、こんもりとした社叢が神宮全体を覆っており、神秘的で霊域の雰囲気に包まれる。この社叢は山の辺の道への起点のひとつとしてまさに相応しい。
起源については、「古事記」によると神武天皇東征の折り、熊野から吉野、宇陀に入ろうとした際、熊野の高倉下(たかくらじ・人の名)が建御雷神(武甕雷神)から下された神剣を献上し、その剣で荒ぶる神々を平定しといわれ、その神剣が当社の祭神の布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)であったという。その後、崇神天皇のときに神剣を奉安する祠を現在地に建てたのが石上神宮のはじまりだといわれる。古代においては、武を司る氏族の物部氏の氏神でもあったところから、朝廷の武器庫、天武庫(あめのほくら)もここに置かれていたといわれている。
社殿のみどころは、楼門と拝殿、それに出雲建雄神社社殿だ。参道の奥、左手に楼門があり、この楼門は、白壁に朱の梁や柱の回廊の真ん中に白木の鐘楼門の造りとなっており、蟇股や柱頭は天竺風の造作となっている。かつては鐘も吊るされていたとのことだが、鎌倉期の寺院風の建築様式も混在している。拝殿も宮中の建物だったといわれているが、まさに荘重さとゆったり感があり、楼門同様、寺院風の風合いも感じられる。楼門の反対にある出雲建雄神社拝殿は、横長の平面の拝殿の中央に土間をとり通路とした建て方の割拝殿で、平安末頃にみられる建築様式だという。これも見落とせない。
 なぜか、境内、参道には30羽のニワトリが跋扈し、鶏鳴を発している。種類は長鳴鶏(ながなきどり)の一種の東天紅、烏骨鶏、採卵用種のレグホン・ミノルカなどが棲んでとのこと。静かで神聖な境内で、我が物で歩き、時折、鶏鳴を発する姿はなかなか愛嬌があるものだ。
 桜井駅からここまで、約5時間の歩き。途中、遠回りや道草を食ったりしたので、妥当なところだろう。さて、神社前からバスで、天理駅まで行こうとバス停に行ったところ、なんと循環バスが運休中。次のバスまで1時間半ほど。駅まで2㎞ほどというので、かなり重くなった脚を奮い立たせて、リスタート。天理大学などが入る、神社風の独特な意匠が特徴的な「おやさとやかた」のビル群が延々と続くのを左手に見て、天理教本部の前を抜け、アーケード街へ。アーケードは駅まで1㎞ほど続き、天理教の神具、装束の専門店など、地元密着の店が並び、興味深いものがある。また、晩秋には本部前を東西に通じる「親里大路」の約700mのイチョウ並木は、なかなかの圧巻である。

 今回の「山の辺の道」、10数㎞を歩いてみて、自分の足で歩き、歴史を肌で感じる楽しさを実感することができた。体験的に感じたことしては、こうしたトレッキングコースの標識やMAPの重要性だ。山の辺の道は、比較的整備されてはいるが、それでも実際に他地方からの訪問者には、もう一歩踏み出した案内表示が必要だと思う。とくに外国語表示はまだまだ不十分である。また、MAPも関係行政機関が共同で出しているイラストマップは内容的にはよくできているが、イラストの限界がある。曲がり角の指示、距離感などは、きちっと地図との併載が必要かもしれない。
 最後に自らのこと言えば、自分自身が事前知識をもう少し仕入れておくと、もっと深い味方、理解ができたのかもしれないという反省はあった。そんな反省を踏まえ、また、どこかの古道に挑戦してみるのも良いかもしれない。


参考・引用文献
中村啓信「新版 古事記 現代語訳付き」角川ソフィア文庫 角川学芸出版Kindle版
「大日本名所図会 第1輯第3編 大和名所図会」176/375 大正8年 国立国会図書館デジタルコレクション
佐佐木信綱「万葉集(現代語訳付)」Kindle 版 
中村啓信「新版 古事記 現代語訳付き」  角川ソフィア文庫 Kindle 版.
福永武彦 「現代語訳 日本書紀」  河出書房新社. Kindle 版.
金子元臣 枕草子通解 明治書院 昭和4年 40/316 国立国会図書館デジタルコレクション
黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻・下巻」 岩波書店 昭和6年・昭和7年 (中)26・29・43/168  (下)20・53/183 国立国会図書館デジタルコレクション
原田信之「大和国三輪の玄賓僧都伝説」 立命館大学文学部
野村八良校 「謡曲集 上」 有朋堂書店 大正15年 293/379 国立国会図書館デジタルコレクション
藤園主人「大和名勝」金港堂 明治36年 57/107 国立国会図書館デジタルコレクション
藤原定家「拾遺愚草 二」 改造社 13/123国立国会図書館デジタルコレクション


 

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290056_山の辺の道23-4 天理市アーケード街F11A9361.JPG

​天理市 親里大路

​天理市 アーケード

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