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都会の風景編

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都会という風景

 都会で仕事をするようになって40年近く。生まれは、山国、県庁所在地とは言っても、家の近くまで、山が迫っている。仕事するようになってからも住まいはいつも郊外だ。そのせいか、どうも都会に馴染めない。

 同じ街でも、東京、名古屋、横浜、大阪、神戸、京都を線引きにして、あとの地方都市と街の作りが全く違う。それは、札幌も仙台も広島、福岡も地方都市の顔だ。例えば、盛り場ひとつとっても、雰囲気が違う。前者は、根なし草の集まりの感じがあるが、他はあきらめも含め、根がどこかで繋がっているか、繋がらないと生きていけないところがある。もっと、小さいところは、もっとはっきりしている。

 私は、都会が馴染めないといいながら、その匿名性を享受している。一人歩きが好きな私には、都会の孤独感は心地よい。古いビルや、造型的に美しいビル、思いがけない路地、そして、個性がなくなったという都会で、少しばかりでも地方性が見い出せた時など、撮影ポイントはつきない。

 一方、それより小さな街は、いま、大抵の場合、疲弊しており、没落への道をたどっている。しかも未だ、その地方の政治家は新幹線と高速道路と空港、そして港の増強を主張する。当面の金は回るだろうが、便利になればなるほど、長期的にはストロー現象と人口構成の変化のなかで、間違えなく都市機能が崩壊していく。駅前には全国チェーンが並び、どの街に降りても、個性のない町並みとなり、やがて、疲弊すると全国チェーンも撤退し、そこも人が歩かなくなる。それでも、新幹線が欲しいのだ。原発も同じかもしれない。そうはいっても、それぞれの街には歴史の積み重ねあるし、これからも続かなければならない。だから、丹念に歩けば、個性ある顔を時折見せてくれる。その個性こそが地方都市の生きる道ではないか、と、思う。そしてこの地方都市が、小さくとも、元気に、個性的に、ピリリと光る社会にならないと、日本の未来が暗い。 典然

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