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​特集10月号
山口県を歩く(1)
​~変容する観光地~

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​錦帯橋から岩国城模造天守

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岩国城模造天守

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岩国城天守跡

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岩国城模造天守から​錦帯橋方面

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​吉香公園 吉川史料館

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​松陰神社

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​松下村塾

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​松下村塾(幽囚の旧宅)

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 2023年,今年の夏は,山口県の観光資源を述べ10日に渡ってみて歩く機会を得た。そこで感じたことは,観光地,あるいは観光資源の変容が著しいということである。観光地や観光資源の変容は時代の潮流に当然のことではある。それは,そこに住んでいる人々の営み、人口減少高齢化,地域の経済構造,思想・政治状況など様々な要素から変化変遷に起因していることは事実だ。だから,難しいのは伝統を守る,継承していくといっても,それは文化財という有形,無形のものはもちろん,それを支えてきた生活信条,思想性、宗教性も含め何を残し,何を変化させても良いのか?どのレベルなら日本の文化や景観を守ったかというところに辿り着く。

山口県を巡ってみると,そんなことを考えさせられる,事例が数多くあった。そのいくつかを取り上げ,変容する観光地・観光資源をどう受け入れ,活用していくべきなのかを考えてみたい。

 

1.展望台としての岩国城天守閣の歴史的価値

 現在の岩国城の天守閣だ。確かに錦帯橋の架かる錦川から仰ぎ見る,岩国城の天守閣は標高約200mの城山の高台に構える姿は美しい。しかし,この天守閣は鉄筋コンクリートの模造天守なのだ。しかも,もともとあった岩国城の天守閣は,現在建てられている位置より50mほど奥で,おそらく当時,天守閣自体は錦川のほとりからはほとんど見えなかったのではないかと思われる。しかも江戸初期に一国一城令に基づき,7年間で破却されており,その威容はほとんど意味はなさなかったのだ。当時,岩国藩は江戸幕府からは独立した藩とはみなす朱印状は出されず,萩藩の支藩としても正式なものではなかったからだという(幕末に至り認められた)。

 しかし,現状では,観光用のロープウエイが架けられ,錦川はもとより,岩国市街,瀬戸内海の眺望を楽しむ観光客も多い。おそらく誰もがこの天守閣の姿,景観が江戸時代もあったと誤認するだろう。もちろん,模造天守がすべて問題かというとこれもまた,行き過ぎの議論であろう。例えば,大阪城は,最初からコンクリート製の模造天守閣であるが,これを建設する当時から,あくまでも大阪の街のシンボルとして計画されており,今や大阪のもっとも親しまれているランドマークとなっている。このことは,いま,名古屋城をどう再建されるか,議論が混迷しているが,これも歴史的遺構として再建するのか,大阪城のようにランドマークとして割り切るかを地元住民たちのコンセンサスが必要なのだ。

 ただ,その辺りが不分明のままであれば,観光誘致力が減少したり,建て替え問題が浮上したりした場合は,名古屋城のように議論が混迷し折角の歴史的価値も観光的価値も貶められるだろう。

 こうした視点から岩国城跡や山麓の吉香公園を見渡してみれば,岩国城の天守閣付近には,本来の天守台の石垣や,土塁,井戸などが遺されており,麓の吉香公園には,吉川史料館など,藩主だった吉川家に関する古文書,美術品が収蔵され,吉香神社にもみるべき社殿が遺されており,江戸期の吉川家の統治をしるためには,貴重な場所でもある。

 それ故,このエリアについて総合的,俯瞰的な解説があれば,岩国城跡や山麓の吉川氏館跡,吉香神社などの吉香公園などの歴史的,景観的な価値がさらに上がるのではないだろうか。その際, 城山周辺を吉香公園と連動した歴史公園化し,現在の模造天守閣も,展望台機能だけでなく,充実した歴史資料館として岩国徴古館と連携し,吉川氏と岩国の郷土史を総合的な解説展示や広報活動を行うべきだろう。

 

2.歴史が問う景観 松下村塾と東光寺

 郷土出身の歴史上の人物や史跡を解説するときに,現地ではどうしても,礼賛型になり,場合によっては神格化されてしまう。山口県の史跡などを歩いていると,全体としては長州・明治維新礼賛,吉田松陰の神格化一辺倒になり,違和感さえも持つ場合がある。さらさら明治維新の歴史的意義や吉田松陰の思想性について,可否を論ずる学識を私は有しないものの,歴史には表と裏,光と影,行動・思想の自己矛盾は存在することは自明であり,現に幕末から明治維新における萩(長州)藩の動きは政治的,謀略的で自己撞着もあったことは誰もが認める史実だ。

 しかも,当時の萩(長州)藩は,藩論が一致していたわけではなく,主としては保守派と改革派の争いだったが,2つの大きなグループの中でも、開明的であったり,過激的であったりした。さらには時期によって攘夷だったり,開国だったり,あるいは事態の変化に伴い考え方,行動も変容し,藩内で入り乱れて権力闘争が続き,多くの犠牲を払った。とくに過激だった松下村塾の塾生たちは,どこまで松陰の思想を受け継いだかはともかくも反対者を数多く葬り,塾生たち自身も無謀ともいえる「禁門の変」や「下関戦争」などで,明治維新を迎えずに,多くの若い命が失われたのも事実だ。

 もちろん,こうした光と影がありながらも萩(長州)藩が明治維新で果たした役割が大きかった史実にはかわりない。しかし,この光と影を見据えることで,日本という国を正しく理解できるともいえよう。それ故,史跡などで語るべきストーリーは重要といえよう。

 その点でいうと,松陰神社の至誠館(宝物館)の展示は,神格化した吉田松陰を解説するのだから,これはこれで宗教法人としての一つの立場だろう。しかし,明倫館学舎の世界遺産ビジターセンターの展示では,やはり「光と影」をきっちり明示すべきだと思う。

 気になった事例としては,吉田松陰を「日本の工学教育の先駆者」とし,さらには松下村塾と「長州ファイブ」の関係をことさら強調した展示解説をしているが,どうも違和感がある。世界遺産ビジターセンターの解説展示のストーリーは,吉田松陰を源流として,その思想性を受け「長州ファイブ」が密航をしてまで留学し日本の近代化に貢献したと単純化している。

 しかし,この点はもう少し事実関係や日本全体の状況と照らしあせて解説展示すべきだろう。当時,すでに幕府は留学生を多数出しており,新島襄のように個人で出国したものもあり,他藩でも相前後して留学生を出し,その中から日本の近代化に貢献したものも多い。

 また,この密航留学についても,もともとは山尾庸三,井上勝が藩政の実権を握っていた周布政之助に提言して実現しており,松下村塾の塾生だった伊藤博文は主導したのではなく,この二人の話を聞いて手を挙げたのが実情だといわれている。つまり,この留学は,萩(長州)藩として認めており,幕府への配慮から脱藩扱いにしたものので,一部資金を供与し,のちに判明した不足分の手当も経緯はともかくも藩の資産を担保にすることを暗黙のうちに認めているのだ。

 しかも,この留学を決断した周布政之助は,吉田松陰より7歳年上で,過激派の松陰やその門下生の久坂玄端などその思想・行動について一定の理解する開明的な人物だったが,一方では松陰の野山獄入獄を苦悩のなか判断して,藩政の安定を守らなければならない立場にあった人物だ。いわば,藩論をまとめる軸になっていたが,留学生を送り出した後,禁門の変を契機にそのバランスをとることが出来なくなり,周布は結局のところ自死することにはなる。

 これらからみると, 開明的な教育や留学の必要性は,吉田松陰のみならず,藩政側にも,さらには幕府のなかにも他の諸藩のなかにも同様の考え方があった。また,密航留学の長州ファイブも松陰の門下生であったのは,伊藤博文だけで,他の4人は塾生・門下生にはなっていない。この4人への松陰の影響力について,長州藩の各派入り乱れた状況下では,濃淡があったと考えるのが妥当だろう。

 もちろん,この留学には多くのリスクがあり,その志の高さは敬意を表さなければならないし,帰国後,日本の近代化に貢献したことは間違いない。しかし, 日本全体で考えれば,これだけを絶対視すべきではなく,広範な人々が影響し合いながら,近代化を進めていくなかの重要な一コマと説明するべきだろう。

 要するに,史跡あるいはそれに関連する歴史を紹介する際には,その価値を見るべきものに対し客観的かつ俯瞰的に見渡すようにすべきであり,光と影を提示し,どんな偉人だろうが個人を神格化すべきではないのだ。

 

 じつはこれまでの話は前振りで,松下村塾と東光寺における遺すべき歴史景観の話が本題である。

 現在の松下村塾は,松陰神社の境内,参道脇に,幽閉されていた実家の杉家住宅と共に遺されている。実家は決して,大きな屋敷ではなく,当時の萩(長州)藩の下級武士の屋敷の状態がよく保存されている。周囲は松陰神社の参道として整備され,近代的な建造物である至誠館(宝物館)や歴史館が立ち並んで,先を進めば,松陰神社の本殿となる。

 平安時代における,天満宮の怨霊対策以外で, 個人崇拝に基づき,神格化して宗教化する行為は,豊臣秀吉の豊国神社や徳川家康の東照大権現などあたりから始まったといわれ,とくに明治以降になると,神格化する対象が拡大し,急激に増加する。例えば,それは東郷神社であり,乃木神社であり,この松陰神社もその事例に入る。すなわち,松下村塾や杉家の景観は,もともとは神社の境内にあったのではなく,明治以降に神格化され取り込まれたということだ。だから,立派な近代的な構造物と,質素な松下村塾・杉家住宅がどうもそぐわない。

 もちろん,それはそれで,世界文化遺産の構成要素としては,周囲が整備をされて,建物が保存されているということで,よしとする考えもあろう。

だが,数百m離れた東光寺をみると,文化財への保存とはなにかを考えてしまう。

 東光寺は萩(長州)藩3代藩主毛利吉就が1691(元禄4)年に建立した寺で,萩市街の西にある大照院と並んで毛利氏の菩提寺である。江戸中期の最盛期には堂塔40棟,僧侶80人を数えたというが,明治維新後の廃仏毀釈の影響もあって,寺禄を失い往時の隆盛は全くなっている。それでも黄檗伽藍様式による,総門・三門・大雄宝殿(本堂)・鐘楼などの国指定の重要文化財である堂宇が遺されているが,松下村塾とうって変わって,こちらの境内は雑草が生え,どうみても文化財の堂宇も手入れが行き届いているとはいえない。

 しかも,その本堂の裏にまた,手入れがなされないままの元治甲子殉難烈士の墓所がある。この墓所は1864(元治元)年京都で起った禁門の変の際,幕府への謝罪のために自刃,あるいは,過激派に処刑された保守派の「十一烈士」などをはじめ幕末に殉じた藩士の墓で,多くは,松陰の門下生を含む過激派に対抗した面々だ。その奥には約500基の石燈篭と毛利吉就以下奇数代の萩(長州)藩5藩主およびその夫人の墓もある。

 正直なところ,この寺院の建造物群の重要性は,松下村塾の建物と比べても江戸初期の日本建築の技術の素晴らしさを伝えるものであることは間違いない。さらに, 元治甲子殉難烈士の墓所は,吉田松陰をはじめとする過激派たちの対抗軸の保守派だったとは言え,当時の萩(長州)藩を支えていた人物たちであるのだ。十一烈士と同じ場所に,長州ファイブを送り出し,過激派へ理解を示した周布政之助の苔むした招魂墓(明治33年建立)もあり,まさに皮肉としか言いようがない。

 

 同様なことは,じつは長府にある功山寺でも見られる。ここは高杉晋作が萩(長州)藩の実権を握るために三条実美らと謀議を図り,挙兵した寺院として有名だが,ここには1320(元応2)年に建立された国宝の仏殿がある。しかし,残念ながら,これが国宝に対する扱いかという保全状態で茅葺き屋根の葺き替えに寄付を募っている有り様である。

 観光客誘致を優先させ,世界文化遺産登録にまい進したため明治維新の光の部分ばかりのストーリーを強調したことも問題があると思うが,文化財保護にまでこうした格差を生んでしまっているとしか思えない状態は,本来の日本の文化の継承に禍根を残すであろう。

 

次回に続く。

​参考文献

維新回廊構想推進協議会「維新史回廊だより」第21号 2014年3月

おいでませ山口「鎖国時代に海を渡った若者たち 〜長州ファイブの活躍〜」山口県観光連盟 

妻木忠太「偉人周布政之助翁伝」昭和6年 国立国会図書館デジタルコレクション

萩市文化財保護課世界文化遺産室「日本近代化の原点 萩」

​松陰神社宝物殿至誠館

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​東光寺大雄宝殿

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東光寺元治甲子殉難烈士墓所

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東光寺毛利氏廟所

​功山寺仏殿(国宝)

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