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​特集9月号
会津の蕎麦

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​福島県大内宿

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​福島県大内宿

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​福島県大内宿

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​福島県下郷町猿楽台地付近

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​福島県下郷町猿楽台地

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​福島県下郷町猿楽台地

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​福島県南会津町たかつえ高原

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​福島県南会津町たかつえ高原

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​福島県下郷町猿楽台地

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​福島県下郷町猿楽台地

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​兵庫県豊岡市出石皿蕎麦

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​兵庫県豊岡市出石城跡そば神社

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​福島県喜多方市山都そば伝承館

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 私は、ソバ自体は大好物というほどでもないが、会津を歩いていると、喜多方の中心街のようにラーメン一色というところもあるものの、山間部へ行けば行くほど、「蕎麦」の字が目に入る。とりわけ、大内宿をはじめ南会津の「高遠そば」、同じ喜多方でも山間部の山都では「山都そば」など、全国的に知られていたり、ブランド化されたりしているし、それ以外でも「裁ちそば」など調理法や「会津そば口上」など祝い事の時の口上まで遺されているところもある。これはとりもなおさず、会津地方は蕎麦が古くからの特産地であり、庶民の生活のなかにとけ込んでいることに起因しているのだろう。会津地方は、会津若松を中心とした盆地の底の部分を除けば、山が深い。そのため、昼夜の寒暖の差が大きく水はけの良い土壌など、ソバ栽培の適地が多く、福島県のなかでも、南会津、猪苗代、喜多方などがとくにソバの栽培が盛んである。
 ソバはもちろん食して楽しむものではあるが、もう一つの楽しみ方は、広大なソバ畑の景観を楽しむことである。たとえば、南会津の下郷町の猿楽台地と南会津町の会津高原「たかつえのソバ畑」は、会津の山々に四方を囲まれながら大規模な栽培地が広がるので、ソバ畑の景観を楽しむにはうってつけだ。とりわけ8月下旬から9月上旬ごろがよい。繊細な白いソバの花が広大な畑に絨緞を敷き詰めたように広がり、その先に会津の山容が雄大に構える。 猿楽台地のソバ畑はとにかく広く、ソバの花の海に埋もれそうだし、「たかつえのそば畑」は、シラカバの木が素晴らしいオブジェになり、景観に変化をつけてくれる。
 最近はライトアップもするところもあるようだ。ソバの白い花もよいが、収穫後のソバ畑に残った茎が紅葉し、鮮やかな紅色に染まる光景も清涼な高原の空気とともに秋の到来を実感でき、こちらもなかなかの風情である。ちなみにこのソバの茎が赤くなるのは、紅葉の原理と同じだとされ、視力・視覚機能の改善や眼精疲労の予防に効果があるとされるポリフェノールの一種のアントシアニンの色だという。
 ソバの紅色あるいは赤い茎について言えば、宇野千代の若い頃に書いた童話「赤い蕎麦」というのがある。この童話のストーリーは悪い山姥を煮殺したら赤い汁が出て、それでソバ畑が染まったという、結構残酷な話だ。このような話は地方によってストーリーは少し異なるものの、西日本を中心に、中部の一部、東北の福島、山形あたりまで民話として残されているという。会津でも同様な民話の伝承があるという。
 この山姥とソバの赤い茎の話の伝承がある地域は、焼き畑農法が盛んに行われていた地域とは相応の重なりが見られるといわれている。これは、柳田国男が「山の人生『山の神を女性とする例多きこと』」で「近世の山姥は一方には極端に怖ろしく、鬼女とも名づくべき暴威を振いながら、他の一方ではおりおり里に現れて祭を受けまた幸福を授け、数々の平和な思い出をその土地に留とどめている」として、山姥は山の神がひとつの形態であり、「山姥・山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬をもって付与したる美称」(「山の人生『山姥を妖怪なりとも考えがたきこと』」)だと言ってもよい、としている。このように山姥と里人との接点は多く、山の生産手段である焼き畑の神とされることも、これに関係しているのだろう。
 一方、その焼き畑とソバがなぜ相性が良いかというと、焼き畑は連作が効かず、「ソバ→ヒエ→アズキ→サトイモ」などというように雑穀などを輪作し、3~4年で次の焼き畑に移っていく。その時、最初に蒔いて収穫しやすいのがソバだというのだ。だから、焼き畑とソバの関係性は強く、焼き畑の神である山姥との関係が深い民話も残るということなのだろう。
 焼き畑は、「おそらく縄文期以来、伝統的な農耕形態として焼畑が広く営まれていた。近世以前には面積にして20万町歩(約24万ha)を超え、昭和25(1950)年ごろでも5~6万haにおよんでいたとされている」(水土の礎「大地への刻印」)というほど古くから照葉樹林帯で主に行われてきたので、その広がりとある程度、ソバ栽培が盛んなところが完全に一致するわけではないが、ある程度は相関していると言って良いようだ。
 その地域性とは、大陸、朝鮮半島から伝播してきたソバがまさに照葉樹林帯の九州から入り、それに沿って、東進、北上していくことになり、関東あたりから限界となり、東北も南部が中心ということにあるのだ。これは、中世末の検地での焼き畑(福島では鹿野畑)の存在の確認や大正年間に焼き畑の調査による地域分布でも、焼き畑が密度濃く行われていたのは、福島県の会津地方や山形県の奥羽山地あたりまでだったということとも合致している。こうした点が「山姥」「焼き畑」「ソバ」の関係の深さを示していると言って良い。
 しかし、この話だけだと、「信州蕎麦」が何と言っても、全国的な「蕎麦文化」の中心といわれ、この会津でも大内宿などでは、信州の地名が付された「高遠蕎麦」が郷土の味と知られていることの説明がついかない。
ソバは縄文時代から栽培されてきて、照葉樹林帯の地域を中心に広まったのだが、近世に入る前夜までは、「蕎麦がき」や「はったう」などと呼ばれる、団子状、あるいは板状のものにして食していた。そのソバが、信州において革命的な調理方法「蕎麦切り」が生まれたことで、近世以降の「蕎麦文化」の主導権を信州が握ったのではないかとされている。
これについて、「蕎麦切り」以前の状況について、柳田国男は「木綿以前の事・『餅 と 臼 と 擂鉢』」のなかで「東北で今日ハットウと謂っているのは、主として蕎麦のかい餅をつみ入れた汁類のことであり、出来た食品が関西のハッタイとはまったく違っているために、両者もとは共にハタキモノの義」であることを忘れられているが、その「ハタキモノ」とは「今の製粉工業のごとく生のままで粉にはたくことであった」と解説している。 さらに「信州でも下伊那方面にはハットという語があって、只その川上から甲州の盆地にかけて、是をホウトウと謂うのである。ホウトウは現在の細く切った蕎麦・饂飩の原形であったろうと思う」として推論している。  
 信州で「蕎麦切り」生まれたという文献的な記録としては、1574(天正2)年の木曽大定勝寺文書「番匠作事日記」(現・長野県大桑村)に「振舞ソハキリ 金永」とあるのが初出だという。まさに近世前夜には「蕎麦切り」が存在していることが分かっている。
 なぜ、「蕎麦切り」が革命的かというと、それまでは、蕎麦がきやはったいなどのボソボソした食感から大きく変わり、ツルツルと格段に食べやすくなったことによることも大きいかもしれない。それに近世に入れば、味噌醤油などの調味料も庶民が手に届くものになりはじめ、一挙に「蕎麦切り」が広がったと見てよいだろう。
 信州は比較的早い段階で「蕎麦切り」が食されるようになったと思われるが、これが一挙に全国に広まったのは、大名の転封・移封だとされる。そのもっとも典型的な例が信州高遠藩の保科正之だという。保科正之は、3代将軍家光の異母弟(秀忠の子)で、家光が信頼を寄せ、4代将軍家綱を良く補佐したことで知られ、藩主としても虚実はあるだろうが、名君だとさている。
 この保科正之は、秀忠の正室の子ではなかったため、高遠藩保科家に養子に出され、高遠藩3万石に藩主となった。その後、家光からの信頼を得て、まず、1636(寛永13)年に山形藩20万石へ転封し、さらに7年後の1643(寛永20)年には3万石加増され、会津藩23万石に移った。3万石の大名から急激に加増され23万石の大名になったため、当然ながら新たに家臣を集めなければならず、高遠藩の家臣はもちろん、山形藩の前任で断絶となった鳥居家の家臣、武田家の旧家臣なども採用し、家臣団を形成としたという。こうした経緯の中で、高遠から多くの藩民も付き従ったともいわれ、「蕎麦切り」も一緒に伝播したとも言われている。
 山形藩から会津藩に移る時でさえ、多くの人々が付き従ったことは「会津藩家世実紀」にも詳細に記録されている。その中には会津入部に立ち合う幕府からの上使を接待するために「飯田久左衛門者、台所人二三人召連会津へ早々罷越、振舞之用意可仕候」とまで記しているので、高遠での調理方法などが山形や会津に伝播した可能性は十分にあり得ると考えられるのである。
 西日本にもその例がある。そのひとつが、但馬の「出石皿蕎麦」だ。ここのソバは小皿に盛り分けて食べるのが特色だが、これも「蕎麦切り」が前提となる。これも信州からの移入で、信州上田藩主だった仙石政明がソバ好きだっため、1706(宝永3)年に転封で出石に入部する際、職人を引き連れてきたのが、始まりだと言われている。
 また、傍証に過ぎないが、曽良の「奥の細道随行日記」に1689(元禄2)年6月4日に羽黒山の若王寺で「晝時本坊へ蕎切ニテ被招會覺ニ謁ス幷南部殿御代参ノ僧浄教院江州圓入ニ會ス」と、「蕎麦切り」が接待で出されたことを記している。ちなみに曾良の日記では6月10日にも「蕎麦切り」が供されたことを記している。さらにこれより前、4月24日、福島の須賀川宿でも「會席そば切」と記しているので、この時期になると、接待や会席の場でも広汎に食べられていることがわかる。
 会津では、南会津の大内宿の「高遠蕎麦」は、信州高遠の食べ方を忠実に伝えているとして、信州の「更科そば」と同様、白い麺で、「からつゆ」と呼ばれる大根おろしの絞り汁に焼き味噌を加えたそば汁で食べる。これは醤油が一般に普及する以前の江戸時代初期の食べ方で、当時は大根の絞り汁で食べていたという。現在は味付けや箸代わりのネギなど、いろいろな工夫が加えられているものの、その味わいは残されているという。
 こうして、格段に食べやすく大衆化したソバは需要が増え、会津においては1908(明治41)年の「南会津郡案内誌」をみると、「蕎麦は注目す可き作物の一にして其作付け反別及び収穫高は殆んど縣下第一位を占む。品質概して良好にして特に檜枝岐産の如きは其美味なる決して信州更科に劣る處なし…中略…本郡到る處開墾すべきの原野多し新開墾地に適する蕎麦の産額増進は殆んど無盡藏なり」としており、主要特産物として育てるべきとしている。
 さらには、現在では、「山都そば」のように、地区内で生産したソバ粉を活用し、「製粉の歩溜まりを約70%とし甘皮などの外層部分を少なくした一番粉を使用すること」、「十割のソバ粉を湯ごねと水ごねを併用した手打ち生そばであること」、「そばを提供する際は『挽きたて』『打ちたて』『茹でたて』であること」などを定義し、山都町内で「生産~刈取り~調整~保管(雪室など)~そば打ち」と一貫した取組みができる体制を整え、地域ブランドとして育てようとする動きも出ている。

 こうしてみると、ソバの味わいも深いが、歴史的背景も奥が深い。それでも、江戸っ子ではないが、ソバはゆっくり味わうというより、ずるずるとのみこんでしまう。これもまた、うまい。グルメも観光の範疇となれば、次の機会には、九州から伝わったソバでなく、大阪、関西ではうどん文化となり、江戸ではソバ文化になったかも調べてみたい。


 

宇野千代「赤い鳥 『赤い蕎麦』」赤い鳥社 大正14年8月号 第15巻第2号104ページ

「水土の礎」HP「大地への刻印 農耕のはじまり、焼畑」(一社)農業農村整備情報総合センター

柳田国男「遠野物語 山の人生」岩波文庫

柳田国男は「木綿以前の事・『餅 と 臼 と 擂鉢』」岩波文庫

信濃史料刊行会「信濃史料 巻十四 天正二年(1574)~天正八年(1580)」12ページ(木曽定勝寺文書「番匠作事日記」)

「会津藩家世実紀 第1巻 (首巻~巻之20)」吉川弘文館 1975年 126ページ

福島県南会津郡農会編「南会津郡案内誌」明治41年 40/216 国立国会図書館デジタルコレクション

「曽良奥の細道随行日記」小川書房 昭和21年 21・35/161 国立国会図書館デジタルコレクション

「食物語・会津のそば-高遠-会津藩祖・正之が広めた『信州流』」福島民友新聞 2016年11月06日

「いいでとそばの里」HP 喜多方市ふるさと振興株式会社 山都事業所

​福島県喜多方市山都そば

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