越前馬場の起点となる平泉寺白山神社は、えちぜん鉄道勝山永平寺線の終点勝山駅の東5.5㎞、JR越美北線の越前大野駅からは北へ約10㎞の場所にあり、大野盆地の東縁部の白山連山の長い山裾の末端にある。
もちろん、平泉寺白山神社に訪ねるのは、福井方面から大野盆地にアプローチをするのだが、車であれば、加賀馬場のある白山市から山越えの国道157号線で白峰を通ってくるのも面白い。このルート上の白峰の林西寺には、明治期の神仏分離令に沿って1874(明治7)年に白山山頂から降ろされた仏像がいまも保存されていることは、前回も触れた。本堂横の白山下山仏堂には、国指定重要文化財の銅造十一面観世音菩薩立像など7体の仏像と泰澄大師坐像が安置され、観覧することも可能だ。
林西寺周辺の家並みは、重要伝統的建造物群に指定されており、「豪雪地という気候風土や養蚕という生業に適応した伝統的な建造物が通りに面して建ち並び、町場のような集落を形成」している。現在は奥深い谷あいを眺望するカフェなどもあり、白山信仰に関わる仏像を観たあと、静かな時間をのんびり過ごすのも悪くない。また、林西寺の北、約1㎞の手取川を望む高台に「石川県立白山ろく民俗資料館」がある。大規模な民俗資料館というわけではないが、それでも広々とした前庭には点々とこの地方の特徴的な古民家など6軒が移設され、展示室には白山信仰やこの地方の習俗をコンパクトに展示しており、白山信仰が根付いたこの地方の歴史的背景が理解しやすく、立ち寄るのもよいだろう。
平泉寺白山神社へのアプローチは、勝山の中心街から越前大野に向かう国道167号線を南下すると、勝山城博物館の天守閣風ビルが見えるようになる。この博物館は、なんでも勝山藩の面影を表現しようと平成になってから建造されたもので、とくに城跡があったところに建っているわけでもなく、姫路城を模した天守閣というから、なんとも博物館としては、その唐突感と趣味の悪さには驚かされる。
しかし、今回の訪問はこの博物館が目的ではないので、その手前を左折すると、小さな駐車場がある。ここが現在遺されている平泉寺白山神社の参道のはじまりである。車でも参道あるいは並行する一般道でさらに1.3kmほど進むと、一の鳥居の手前に「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」があり、そこに大きめな駐車場があり、そこから境内に入れば、本殿まで4~500mだ。
お勧めは手前の駐車場に車を停め、1kmほどの杉並木の中を、苔むした石畳の参道が現在の道路面より高くなったり低くなったりしているのを、横に見ながらゆっくり散策することだ。この参道は、15、6世紀の平泉寺全盛期に造成され、平地部と尾根の上にある境内を結んだものであり、参道の杉並木は菩提林とよばれていたという。石畳の参道の苔は、杉の根元に自生するホソバオキナゴケや杉の根元の樹皮に良く自生するアラハシラゴケで、いずれも緑の発色が良く山苔とも称され、如何にも苔らしい苔だ。それだけに、参道を歩くと鬱蒼した杉林のなかから各所に木洩れ日が差し込みしっととした緑が絨緞のように広がっている様をゆっくりと楽しむことができる。
一の鳥居手前の「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」は平泉寺及び白山信仰や白山の歴史・自然・文化に関することをコンパクトに展示紹介し、学習用資料も整備され、境内散策の前にはぜひ立ち寄りたいところだ。「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」のさらに手前には、コンクリート造りの寺院としての平泉寺がひっそり建っている。こちらは参詣客も少ないとみえ、うら寂しく、明治期の神仏分離政策で被った痛手を如実に表している。神仏分離政策がこの平泉寺白山神社にそして白山信仰にいかに壊滅的な影響を与えたかは、本殿まで進んだ後、考えてみたい。
「まほろば」の駐車場から参道に出ると、左手の小高い石垣の中に、717(養老元)年にこの平泉寺白山神社を開いたといわれ泰澄の「大師廟」がある。参道脇の小道に踏み入れると三重の石塔が建立されており、右手下に自然石の風合いを遺した供養塔が建っている。意外にこぢんまりとして、堂宇はなにも遺っていないが、全盛期の境内の様子を描いた「中宮白山平泉寺境内図」を参照してみると、おそらくこの付近には、大師堂もあったようだ。
一の鳥居に向かう緩やかな坂の参道(精進坂)を行くと、まず、社務所があるが、ここは、かつての別当を担っていた玄成院があった場所で、現在も庭園が遺されており、苔が美しい庭で知られ、築庭は1520~1530(永正17~享禄3)年といわれる。
この開山の祖「泰澄」については、682(天武天皇11)年に越前国麻生津(現・福井市)に生まれたとされ、717(養老元)年に白山へ登頂し、開山したと伝えられて、「越の大徳」と称されるほどの高僧となったという。ただ、その実在性を疑う説も多く、これまでのところ決定的な結論には至っていない。その理由は泰澄が生きた奈良時代の正史への記載がなく、真筆も確かなものがないことだ。その存在については、「泰澄和尚伝記」や「元亨釈書」の記載によることが多いが、いずれも伝承的、伝説的内容が含まれているので、どこまで信頼すべきか議論が分かれている。
「泰澄和尚伝記」の成立については、奥書から957(天徳元)年とされるが鎌倉期まで下がるという説もある。ただ、この「伝記」の原形となるものは、9世紀から10世紀中期までには書かれていたというのが、一般的な見方のようだ。「元享釈書」の方は鎌倉末期の成立で、その内容、表現から「伝記」を参照しているのではないかとする説が主流となっている。泰澄の実在性とは別にこの「伝記」の成立過程で神仏習合の仏教的な教理が確立していったともいえるようだ。
これは加賀の白山比咩神社の縁起である「白山之記」の成立が1163(長寛元)年であり、同社への神階の付与が9世紀中盤から始まって、10世紀初頭の延喜式において小社とはいえ、式内社に挙げられていることと同時期であることもそれを裏付けられている。
「大師廟」の先、一の鳥居と二の鳥居の中間あたりの左手の杉木立の中にある御手洗池は、泰澄とこの平泉寺を結びつける重要な場所で、「伝記」には、その経緯が詳しく記されている。「養老元(717)年丁巳の歳、和尚年三十六なり。彼の年四月一日、和尚来りて白山の麓、大野の隈、筥川(九頭竜川とされる)の東、伊野原に宿し、」観念(こころ静かに一切を観察し思念すること)していたところ、「貴女」(霊神)が夢に現れ、この地は結界ではないので、「此の東の林泉は、吾が遊止の地なり、早く来るべし」と告げられたと伝記は記している。これが御手洗池にあたると言い、平泉寺の寺号の由来ともなっている。
泰澄はこの池に臨み、「靈質を垂れたまへ」と祈念したところ、また「貴女」が現出して「我は天嶺(白山山頂)にありといへども、恒に此の林中に遊び、此の處を以て中居となす」と告げたとしている。さらに、自分は「上は上皇を護り、下は下民を撫づ…中略…吾が身は乃ち伊弉册(いざなみ)尊是なり、今は妙理大菩薩と號す」と宣言している。
そして、「神岳白嶺(白山)は、乃ち吾が神務國政の時の都城」であるから「抑も吾が本地眞身は天嶺に在り、往いて禮すべし」と命ぜられるのである。泰澄は「白山の天嶺禅定に攀ぢ登り、緑碧池(翠ヶ池)の側に居り、禮念加持、一心不亂にして、猛利強盛」して、念力が体中に溢れると、「その時池の中より、九頭龍王の形」が示されたが、これは「方便の示現なり、本地の眞身にあらずと、乃ち又十一面觀自在尊の慈悲の玉躰忽ち現」れたという。ここで、「妙理大菩薩」(権現)が十一面観音であることが明かされている。このようにして鎮護国家と神仏習合を教理として整合させていくのである。
当然のことだが主導権争いをしていう加賀馬場の縁起である「白山之記」では、「名劔御山、(神代ノミサゝキ)是麓有池水、號翠池」としこの池から「權現出生給也」とし、泰澄の事績にもふれてはいるが、「御手洗池」については記述しておらず、あとは、白山比咩神社のところで前述したとおり、いかに加賀馬場が山上の仏事、神事の主導権を握っていたかを説いている。
現在残されている御手洗池は、驚くほど小さな池だが、確かに鬱蒼とした林の中にあるので、霊域に相応しい雰囲気はある。この池をどう理解するかは、それぞれの想像の翼を伸ばしてもらうしかない。
池から参道に戻って、四脚で扁額の上にちょこんと小さな屋根が載った二の鳥居をくぐると、杉木立がすこしまばらになり、その緩斜面一面にしっとりとした緑の苔が覆い、広がりを見せ、樹間越しの高台に拝殿を見通すことができる。ここの苔はヒノキゴケ、ホソバオキナゴケ、アラハシラガゴケ、ハイゴケなどが中心で参道とは、異なる種類のものが多く、より一層、緑のしっとり感が深いのが印象的だ。苔は境内全体では220種類ほどが確認されているという。
全盛期の「中宮白山平泉寺境内図」をみると、大きな拝殿のほか、伽藍堂宇も建ち並んでいるが、主要伽藍だけでも48社、36堂あったとされる。さらに境内の南谷には3600の坊院があり、北谷には2400の坊院があったとされ、寺領は9万石を擁していたので、まさに一大宗教都市だったことがわかる。その面影は殆ど遺されておらず、1574(天正2)年に一向一揆で焼失した拝殿は正面四十五間あったとされ、今遺るのはその石垣と礎石のみである。なお、現在の拝殿は1859(安政6)年に再建されたものだ。拝殿から後ろに廻ると広い石段があり、玉垣のなかに1795(寛政7)年に越前藩主・松平重富によって再建された、屋根の幅で3.6mほどの小さな本殿が建立されている。現在は本殿に伊弉冊尊、右の社に別山社、左の社に越南知社が祀られている。
なお、「平泉寺史要」に収載されている1838(天保9)年ないしは1841(天保12)年の「分限書上帳」では、本殿には「白山妙理権現 垂迹伊弉冊尊 本地十一面観世音」、別山社には「垂迹天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと 神武天皇の高祖父) 本地正観世音𦬇(菩薩)」、越南知社には「越南知大権現 垂迹大巳貴命(おおあなむちのみこと 大国主神) 本地阿彌陀仏」と神仏分離前の祀り方が記されている。
拝殿・本殿の右手から、緩やかな登り坂の参道が続き、三宮へと誘われるが、三宮は祠のような社と楠木正成の供養塔が立つだけだ。ただ、その裏手から、越前禅定道が始まっており、まさにここが越前馬場の起点だったことを知る場所である。
このように現在は森厳とした杉木立としっとりとした緑の苔で覆われ、ただただ清浄清閑な場所であり、それを楽しむだけでも、ここを訪れる価値は十分にある。
ただ、いまはなにも遺っていないこの地の歴史を想像してみるのも悪くない。越前馬場が開かれた時期については、前述のとおり、泰澄伝説によるところが多いが、白山が修行場として、正史にあらわれたのは、「三代実録」の884(元慶8)年3月26日の条に法相宗・天台宗の高僧「宗叡」の逝去の記事にともなう卒伝(伝記)の記載だ。その中には「厥後宗叡至越前國白山。雙鳥飛隨。在於先後。夜中有火。自然照道。見者奇之」(その後宗叡は越前国の白山に至る。前後に2羽の鳥が飛び、それに従った。夜中に火があり、道を自然と照らした。これを見るものは不思議に思った)とある。ここでいう「厥後(その後)」の「その」は叡山で修行中に「叡山主神」から2羽の鳥に修行を先導されるであろうことを予言されたことを指している。
この白山における修行は宗叡の伝記から考えると9世紀前半とみられ、ちょうど加賀馬場の白山比咩神社が初めて神階を得た頃に対応しているので、この時期には白山信仰が一定程度、中央でも認知されており、修験の場として越前馬場もすでに一定の役割を果たしていた推測できる。これに伴い平泉寺白山神社の整備も進み、同時に寺領の荘園化の過程に巻き込まれ、中央朝廷との関係も深まったと思われる。
その様子を示すものが左大臣藤原頼長の日記「台記」の1147(久安3)年4月7日の条に「祈延暦寺、衆徒欲白山領、年來、權僧正覺宗院宣領之」という記事が見える。白山領は園城(三井)寺の僧正覚宗が院宣(鳥羽院)で領有していたが、その荘園管理に不満を衆徒が持ったため、本家筋の延暦寺の領有に換えてもらいたいという要請がなされたとしている。この決着は、覚宗の死後実現し、平泉寺自体も完全に延暦寺の末寺化がなされたとされている。平泉寺は仏教の宗派としては、その転宗については諸説があるが、開祖とされる泰澄が法相、天台を学び、真言密教の影響を受けていたので、荘園支配の過程で、天台宗に固まっていったのであろう。
なお、平安後期の歴史書「本朝世紀」に「昔天喜年中有日泰上人者。登白山酌龍池之水。末代上人若是日泰之後身歟」(昔、天喜年中(1053~58)、日泰上人なる者有りて、白山に登りて龍池の水を酌む。末代上人は、若しは是れ日泰の後身か)と記されているが、この末代上人は「福井県史」によれば「鳥羽院の信任厚い人物」で「鳥羽院と白山とを結びつけた」とされ、園城寺の覚宗はその側近だったという。
平家物語でも「鳥羽院の御時も、越前の平泉寺を、山門へ寄せられるける事(寄進した事)は、當山を御歸依淺からざる」として、すでに鳥羽法皇(院政は1198~1221年)が白山信仰に帰依していたことが強調されている。この文章は、「山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ振り奉って、訴訟を致さば」の問いに対し、信仰の篤い鳥羽院は「山門の訴訟は、黙し難し」(宗門の訴訟は黙し去ることができない)という文脈のなかで出てくる。
これらの話の前段としては、1176(安元2)年に加賀國の目代(国司の代理)が「神社佛寺、權門勢の荘領を没倒」し、白山本宮(寺)の末寺を焼き払うという事件があった。これに対し「白山三社八院(加賀馬場)の大衆、悉く起り合い」、目代の館を襲った後、「白山中宮の神輿飾り奉って」比叡山を目指し坂本に着いた頃には、「北國の方より、雷夥しく鳴つて、都を指して鳴り上り、白雪降つて地を埋み、山上(比叡山も)洛中(京の中も)」が白くなる天変地異が起こったという事態になったとされる。その後、御所への強訴も行われたが、「鹿ケ谷の変」という政変もあり、結局のところ、1年後に国司の「闕官(罷免)」と目代の「禁獄(拘禁)」で終結をしたという顛末が、鳥羽院の発言に影響したとみてよいだろう。
この事件によって、当時、すでに北陸地方で、白山系の寺社群が寺領の荘園化と武装勢力化していたことがよくわかる。この後も加賀のみならず、越前においても、平泉寺や白山本宮などの寺社群の寺領と国領、院領、地元の権門勢力との領地争いは続くことになるほど、勢力を拡大していくことなる。
こうして平泉寺は全盛期を迎えるが、次回では、一向一揆による壊滅的打撃と江戸期の再建、そして明治の神仏分離政策による山岳信仰の否定による歴史的遺産の亡失に至る経緯に触れつつ、現状における白山信仰に関する神社仏閣や史跡の観光資源としてのあり様について考えてみたい。
参考・引用文献
平泉澄編「泰澄和尚傳記」白山神社 1953年 15~17/41 国立国会図書館デジタルコレクション
「白山之記」 史籍集覧 第17冊改定 明治36年 125/415 国立国会図書館デジタルコレクション
「平泉寺かわら版 No.46号(2012年7月)」勝山市教育委員会
吉田 一彦「宗叡の白山入山をめぐって―9世紀における神仏習合の進展(1)―」2012年9月 仏教史研究(龍谷大学仏教史研究会)
「日本三代実録」六国史 国史大系 大正2-5 年 経済雑誌社 369/430 国立国会図書館デジタルコレクション
福井県史「第一章武家政権の成立と荘園・国衙領 第七節中世前期の信仰と宗教 一越前・若越の顕密寺社の展開 白山信仰」
福井県史第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領 第一節院政期の越前・若狭 二在地諸勢力 平泉寺の延暦寺末寺化
「台記」増補史料大成 第23巻 臨川書店 1989年 115/152 国立国会図書館デジタルコレクション
「本朝世紀」国史大系 第8巻 経済雑誌社 明治31年 361/504 国立国会図書館デジタルコレクション