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小石川白山神社鳥居
小石川白山神社拝殿
小石川白山神社拝殿
小石川白山神社由緒
小石川白山神社孫文碑
小石川白山神社(八幡社)白旗桜
小石川白山神社境内社 富士浅間社など
小石川白山神社町内別神輿蔵
本郷一丁目 東京都立工芸高校付近
本郷給水地公苑
香取神宮
鹿島神宮
東京大学など数多くの教育・研究施設が設置され、文教地区として知られる本郷は皇居の北の高台にあり、南側の御茶ノ水方面からも東側の上野方面からもかなり勾配のある坂を登るので、実感できる。その高台は本郷台地と呼ばれ、武蔵野台地の東端として、かつての江戸湾に向け突き出した形になっている。その西側には本郷台地から南西に小台地の白山台地が突起し、さらに西には指ヶ谷という切れ込みを挟み、小石川台地が分岐している。小石川台地の南端は、かつて徳川幕府5代将軍綱吉が舘林藩主時代の別邸にしていた白山御殿があったところで、現在は東京大学の小石川植物園になっている。こうした地形にあって、白山台地の指ヶ谷に臨む「キワ」に小石川白山神社が建つ。
現在の小石川白山神社に訪れてみると、地下鉄の白山駅から地上に出るとすぐに、大通りから少しばかりレストランや住宅が並ぶ脇道があり、それを西に進むとまもなく石の鳥居がみえる。鳥居をくぐれば、数段の石段があり、右手に社務所、その奥に社殿が建つ。左手には孫文の碑と「白旗桜」という伝承の桜の古木があり、その先はもう駐車場だ。社殿は存外に小さい。社殿の正面には同社の由緒が書かれた銅板の碑が立つ。本殿の奥、末社の稲荷大明神裏の高みが古墳で、これが富士塚(白山浅間神社)と呼ばれ、北側には東洋大学のキャンパスが広がる。
本殿から南へ向かうと、参道沿いに町内別の神輿蔵があり、それを過ぎると石段となって指ヶ谷へ下っている。このことから神社が急崖の縁、キワに建っていることがわかる。下れば京華通りを横断した先が白山通りで、これを渡れば、また上りとなり小石川台地に向かい、東京大学の小石川植物園にぶつかることになる。
この付近には「白山」「小石川」と付された地名が多く見られるが、江戸中期の地誌「江戸砂子」によれば、「白山」の名は、小石川白山神社が当時、「白山権現」と称され、もともとは「加賀国石川郡より勧請あれば、その対しての名とも云り」としている。白山信仰はもちろん古くからの山岳信仰であることは間違いなく、ここも江戸時代は「白山権現」でその名が通っていた。それが明治の神仏分離政策によって、山岳信仰の中心であった修験道が全面的に排除され現在の神社名となったが、要するに、北陸の霊山、白山に対する山岳信仰の権現社(神社)の名からこの付近の地名となったということのようだ。
なお、「小石川」についても、白山神社の由緒には「白山権現は加賀國石川郡より勧請せしゆへ小石川の名の起りしと云」うと、白山神社と絡めた説が取り上られている。しかし、これについては、文政年間(1818~1830年)に幕府が編纂した地誌「御府内風土記」(焼失)の資料であった「御府内備考」では、「江戸砂子」の「小石川と云は小石の多き小川、幾流もあるへ也と云」などを引用しつつ、文明19(1487)年の「回國雑記」や16世紀前半の「小田原北条(衆所領)役帳」にすでに「小石川」の地名がみえるとして、「石川郡」説を完全に否定している。白山神社がこの地に勧請または遷座されたのが江戸初期といわれているので「小石川」の地名の方が古いということらしい。
それにしても「白山」は北陸の霊峰、名山とはいえ、「白山」の地名が遠く離れたこの地に定着したのは興味深いものがある。関東では山岳信仰と言えば、富士山であり、筑波山であり、大山(おおやま)であって、その以外にも多くの山岳信仰の山々がある。実際のところ、江戸時代にはこの地からも富士山は望めたはずだし、江戸後期の「江戸切絵図 東都駒込邊絵図」の「白山神社」の境内にも「富士」塚(もともとは古墳といわれる)が書き込まれているくらいだ。
さらに、「文京区史」では、「荒川系を中心に濃密に氷川神社が散在し、東側の香取神社、久伊豆神社の分布圏と接し、西側は多摩川沿い及んでいる」との分析を紹介し、氷川神社の圧倒的な浸透を指摘している。中世、近世の関東における神社の分祀圏からみても、関東を中心として分布する氷川神社、鹿島神宮、香取神宮をはじめ、全国的にも数が多い稲荷社、八幡社などの勢力が強く、関東においては、小石川白山神社など2、3の白山神社を除いては、境内社や摂社など規模の小さい社が多く、東京都内では20社にも満たない程度で、数も必ずしも多いとはいえない。
ただ、一方では白山信仰が江戸期以降一般にその存在は、広く知られていたようだ。大正年間に執筆された中里介山の長編時代小説「大菩薩峠」でも、「白山」に関する記述が数多くみられることからもわかる。例えば、主人公の机龍之介に関わる女性たちと密接に絡む重要なサブキャラクターである「米友」は戸田流の流れを汲む槍の名手だが、その戸田流の始祖について「加賀国白山権現ニ一七日ノ間、毎夜参籠致ス所、何処トモナク一人ノ老人来リ御伝授有ルハ夫レコノ流ナリ」と、「白山」は武芸の鍛錬の場、奥義取得の場と描写され、全編を通じ、隠遁、浄土の場所として取り上げられている。このように「白山権現」が大正年間の大衆小説に描かれているほどだから、江戸での庶民への浸透ぶりはかなりのものだったことは推測できる。
とすれば、余計になぜ、江戸のこの地に白山神社が鎮座したか、その経緯と歴史が気になる。そこで少しばかり資料・史料を少し漁ってみることにした。
まず、この小石川白山神社の創建から、現在地に辿り着くまでの経緯を辿ってみたい。
境内にある社伝による由緒では、同社の創建については「天暦二年(948)九月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す」とし、その後「建武四年(1338)足利尊氏公により国家平安御祈願所を命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和二年(1616)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座。慶安四年(1651)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655)現社地に移奉す」としている。なお、足利尊氏から御判物を賜った年次について、神社の由緒では「建武四年(1338)」としているものの、陰暦では「建武四年」はユリウス暦の1338年1月22日までなので、この短い期間に賜ったとしているのか、誤記なのかわからない。
同社の由緒は、戦国時代などに旧記を焼失したため、「御府内風土記」(焼失)の資料とした「寺社書上」として同社の宮司が提出した内容に基づいているようである。ただ、「寺社書上」には旧地である地名の「元国木」の記載は見当たらない。
それでは、948(天暦2)年の創建地とされる「武蔵国豊島郡元国木」すなわち「本郷元町」はどこなのかということになるのだが、現在の町名では本郷1~6丁目付近にあたるようだ。この地について「御府内備考」で調べると、「同朋町」(現・本郷2丁目付近)の項に「町内拝領主高橋守泉地所の處、駒込白山大権現宮地の由相傳御座候」とあるので、これに相当するのではないと思われる。現在でいえば、本郷給水地公苑付近になる。
この「同朋町」は「右町名起立古来の儀は相分不申候得共、御同朋方拝領屋敷に有之候間、右様(同朋町)相唱候哉奉存候」とし、古いことは分からないとはしているものの、湯島聖堂南の地から、将軍や大名に近侍して雑事・諸芸能を取り仕切る僧侶姿の同朋衆が「天和三年(1683)當時の地所の替地被下置候」だと記している。
なお、「元町」は西隣で、南は竹町(現在本郷2~3丁目)に接していたという。その「竹町」の項には「向側同朋町白山社地跡に寛永年中(1624~1644年)ゟ(より)住居仕罷候」とあって、この地は江戸開府した直後からの江戸の都市計画によって人が住み始めたと思われる記述も見られる。ただ、「元国木」については、「元岡本」、「元同本」などとするものもあるが、いずれも意味を特定できていないようだ。
これらをみると確かにこのあたりに、江戸開府前にはすでになんらかの社、「白山神社」があったとみられる。しかし一方で「寺社書上」の由緒にある創建の948(天暦2)年については、なぜか江戸期のほとんどの地誌には触れられていない。
1662(寛文2)年に著された「江戸名所記」では「いまこの地にくわんじやう(勧請)せし事は、元和元(1615)年の事也」と記し、小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座した時に、加賀の「白山比咩神社」から勧請したことになっている。1732(享保17)年の地誌「江戸砂子」では「元和年中(1615~1624年)の勧請」としか触れておらず、白山御殿から現在地に再遷座する間に勧請したことになっている。1834~36(天保5-7)年発行の「江戸名所図会」でも同様に「相傳當社ハ元和三(1617)年の觀請なりといへ里」としか、記述されていない。
とくに「江戸名所記」は現在地に遷座されて間もない時期の記述にもかかわらず、それまでの経緯に一切触れていない。
これは明治以降の資料でも同様の扱いで、1935(昭和10)年の「小石川区史」では「徳川氏入國以前のことは副證がなく…中略…元和以前から本郷元町に鎭座あつたとすれば、室町時代晩期には既に確實に存在したものと認めて差支えなかろう」として、なんらかの社があったことは認めているものの、創建を含め江戸開府以前の状況については触れていない。
そこで、「文京区史」を頼りにこの創建地といわれる周辺の10~16世紀までの状況を推しはかり、小石川神社の前身と思われる社のあり様について探ってみた。
創建地周辺で現在の都立工芸高校の裏手では貝塚が確認されており、加曾利式土器の発見もあることから、縄文中期以降には、すでになんらかの小集落があったことは間違いないようだ。しかし、弥生、古墳時代を通して、有力豪族が現れたという遺跡は見られない。 こうしたことから、「文京区史」ではこの地区の古代について「停滞ぎみの東京地帯」と標題を付しており、「いつから、本郷・小石川の台地まで武蔵の国を支配するキミの統治圏に入ったのか、はっきりしない」としている。
古代の集落の発展には、水稲耕作が重要なポイントとなるが、この地区では、現在の湯島と東京大学小石川植物園(白山御殿跡)付近に多少の開発がみられたものの、律令期に入り武蔵国の国府が設けられた東京の西部地区よりは、社会開発においては「本郷・小石川の地はしばらく遅れをとるようになった」とも「文京区史」は分析している。
8世紀後半に至ると、東海道の延長として武蔵国府中から上総国の国府(現在の千葉県市川市国府台)をつなぐ街道も整備されといわれ、豊島の駅の設置により、これを基盤として豊島氏が東京東部において力を持ち始めることになる。この駅の場所については隅田川西岸や駒込、湯島台などの諸説があるものの、本郷・小石川の地が街道筋に近くなり、多少の人家、集落も形成しつつあったことは間違いないところだろう。
「白山神社」の創建と言われる10世紀の中ごろのこの地の景観についての手掛かりとしては、「更級日記」の描写から推しはかることはできる。「更級日記」は、1020(寛仁4)年に上総国の国司だった菅原孝標が赴任地の国府から京へ帰任する際に帯同した、娘で「日記」の作者である菅原孝標女の旅の回想から始まっている。そのなかで「今は武蔵國になりぬ。ことにをかしき所も見えず。濱も砂子白くなどもなく、こひぢ(泥)のようににて、むらさき生ふと聞く野(古今集に武蔵野に咲く野草の紫の歌が収載)、蘆荻のみ高く生ひて、馬乗りて弓持たる末みえぬまで、高く生ひ繁りて、中をわけ行くに、たけしばというふ寺(三田にあった竹芝寺・現港区)あり」と書き記している。
現在でいう千葉県市川市から港区の竹芝まで辿ったのだから、本郷、小石川の近くを通ったことは推測できる。この本郷付近が11世紀初頭ですら、「日記」に描写されているように背の高い葦が生い茂った原野のような状況であったので10世紀中ごろに大きな集落があったとは考えられない。また、現在の皇居附近を館にした江戸氏の進出も平安末の12世紀後半まで待たなければならない。
このように大きな集落も、有力豪族もおらず、前述したように中世、近世の関東における神社の分祀圏からみても、10世紀中ごろにわざわざ北陸から「白山神」が勧請されることがあるのだろうか。この点については白山信仰がどのように関東まで伝播した歴史的経緯から確認してみる必要もあろう。
8世紀の初めに開祖である泰澄(実在説、複数説、不在説があるが)によって、白山への自然信仰としての山岳信仰を法相宗とを結びつけ、一定の教理化がなされたという。1165(長寛3)年ごろに成立したとみられる『白山之記』によれば、832(天長9)年には禅定道とよばれる越前・加賀・美濃からの白山への登拝路が開かれ、それぞれに登拝口となる3つの馬場が設けられたという。その後、法相宗のみならず天台宗との関係が深まり、神仏習合と仏教法理によって、白山信仰の信仰形態が定まっていったと言われている。
登拝口とされる3つの馬場には、越前の白山平泉寺、加賀の白山本宮(別当寺白山寺)、美濃の白山長滝神社(寺)といった拠点的な寺社が創建され、徐々に白山信仰が広がりを見せ始めた。たとえば、加賀の禅定道の拠点となる白山本宮(白山寺)の白山比咩神社についていえば、879(元慶3)年に完成した『文徳天皇実録』には853(仁寿3)年に「授加賀國白山比咩神従三位」の記事が見え、927(延長5)年の「延喜式神名帳」には式内社として記されていることから、9世紀中盤までには、白山信仰は一定の社会的な位置付けを朝廷でも認められたと考えてよいだろう。
平泉隆房によると、天台宗との結びつきが白山信仰の全国伝播に大きな意味があったとしている。遅くとも12世紀の中ごろまでには加賀・白山本宮(別当寺白山寺)、越前・白山平泉寺、美濃・白山長滝寺がともに延暦寺の末寺化しており、延暦寺と関係の深い日吉神社や愛宕信仰との連携も見られるという。白山信仰に関連する神社は「全国に二千社ほどあるが、その勧請される経緯について、石川県以北は白山比咩神社、西国は平泉寺白山神社、そして東海から関東にかけての白山信仰伸展の主な担い手は、長瀧白山神社や石徹白中居神社に関わる人たち、と考えられていた。そして、白山三馬場からそれぞれの方面に広がっていき、中世後期から近世期にかけて白山御師が勧請してまわった」とするのが一般的な説としたうえで、それだけではなく、全国の神社の分布から見ると「平安後期から鎌倉・南北朝期にかけて、延暦寺による荘園拡大のなかで、白山信仰が延暦寺僧や日吉神人などの手によって広まった」のではないかと指摘している。
さて、こうした中世における白山信仰の全国伝播の経緯のなかで、本郷元町での創建の可能性についてどのように考えるべきだろうか。
白山信仰の教理化が確立され、朝廷でも認知されたのが9世紀後半から10世紀中盤とされることや、鎌倉(泰澄の修行巌窟)、箱根(泰澄の弟子浄定坊による湯本開湯)などに白山信仰に関する伝承も残っていることを考えると、白山信仰が10世紀中頃に関東に届いていた可能性を全否定はできない。しかし、これまで述べてきた白山信仰の伝播のプロセスや本郷の当時の開発状況や勧請の主体となるべき有力豪族の不在、神社分祀圏から鑑みて、10世紀中盤にこの地への白山神社の勧請があったとは考えにくい。
おそらく、この地には自然神を祀る祠、社などがあり、周辺の産土神などの役割を果たしていたと考えるのが自然であり、それに中世を通じ、徐々に白山信仰の要素も付加されていったのではないだろうか。
白山信仰が平泉隆房の指摘するように、日吉神社とともに鎌倉期には関東に浸透していたと考えると、現在、赤坂にある日枝神社は、12世紀中ごろに江戸城(現在の皇居附近)あたりに進出し、館を設けた江戸氏が氏神あるいは屋敷神とした山王宮がもととなっており、そこに太田道灌が1478(文明10)年に川越山王社を勧請したのが始まりだということからみても、本郷元町の自然神の祠あるいは社に白山信仰の性格が付加されるようになったのは、早くてもこの時期以降ではないだろうか。
神社の由緒にある足利尊氏の御判物についても、確かに尊氏が白山信仰の開祖といわれる泰澄が開いたといわれる愛宕信仰(本地仏は勝軍地蔵)を崇敬していたので、白山信仰への崇敬もあったとも考えられるが、1338(建武5あるいは建武4)年という時代状況を考えると、尊氏の白山系への寄進は考えにくい。それは、南北朝の争乱のなか、1337(建武4)年の越前金ヶ崎の戦いで、この地での一大勢力だった越前馬場の白山平泉寺が、南朝の新田方側につき、足利勢と敵対関係であったからだ。「太平記」には、新田方の金ヶ崎城には「平泉寺(越前馬場)豊原(泰澄が開創したという豊原寺・福井県坂井市)衆徒、當國他國ノ地頭御家人」が群集したといい、杣山城にも「劔白山ノ衆徒成合テ、由々敷大事ナルヘシ」と記されており、白山平泉寺衆徒を足利勢が恐れていたことがわかる。その後、新田勢が退勢となり、最終的には、寺領の藤島の庄の安堵と引き換えに平泉寺衆徒は、足利勢に寝返って、その結果足利勢がこの戦いに勝利し、新田義貞は自刃したのが1338(建武5)年の旧暦7月だった。
なお、加賀馬場の白山系の寺社は、那谷寺など一部は、足利勢に加勢したが、白山中宮八院(石川県能美郡軽海郷・現在の小松市)などは南朝方につくなど、混沌とした状況ではあった。こうした情勢下で、江戸にあったとしてもそれほどの規模でない白山神社に足利尊氏がこの時点で「御判物」を寄進することは、やはり疑問が残ろう。
以上のことから、中世における本郷元町にあったとされる白山神社(宮)の実態は、産土神的な自然神の域を大きくでるものではなかったのではないだろうか。
それが一変して有力寺社となるのは、江戸開府によってのこの地から小石川への移転であろう。この点を次回に探ってみたい。
参考・引用文献
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「御府内備考巻之四十一」大日本地誌大系 第2巻 雄山閣 昭和3年 93/164 国立国会図書館デジタルコレクション
中里介山「大菩薩峠」 Kindle版
「江戸切絵図 東都駒込邊絵図」嘉永2~文久2(1849~1862)年 国立国会図書館デジタルコレクション
「寺社書上 [65] 小石川寺社書上 二」石川白山権現社 105~139/144 国立国会図書館デジタルコレクション
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「御府内備考巻之三十四」本郷之三 大日本地誌大系 第2巻 昭和3年 雄山閣 56-57/166 国立国会図書館デジタルコレクション
「江戸名所記 全七巻」巻六 大正5年 江戸叢書刊行会 80/305 国立国会図書館デジタルコレクション
「江戸名所図会 7巻 [13] 」天保5-7 (1834-1836)年 13/89 国立国会図書館デジタルコレクション
「文京区史」1967年 97・156・158・164・165/302国立国会図書館デジタルコレクション
吉川秀雄「新註更級日記」1926年精文館書店 16/73国立国会図書館デジタルコレクション
「白山之記」明治36年 史籍集覧 第17冊 改定 125/414 国立国会図書館デジタルコレクション
「日本文徳天皇実録 10巻 [5]」宝永6 (1709)年 21/25 国立国会図書館デジタルコレクション
平泉隆房「科学研究費補助金研究成果報告書 中世神道論成立史の研究」
「参考太平記巻第18」国書刊行会 大正3年 11-12/321 国立国会図書館デジタルコレクション
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