
〇恵隆寺(立木千手観音)
(全国観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/070068-/)
浜通りにあって洗練された白水阿弥陀堂とは対照的で、山間の盆地を望む、土臭さを感じさせる茅葺きの小堂である。これが、「恵隆寺」の立木千手観音堂である。丘陵の山際に立ち、南北に細長い境内は東面に会津盆地の平坦部を見渡せ、開放感はあるもののさほど広くはない。小さな山門をくぐれば、そこには小ぢんまりとした、素朴な観音堂がちょこんと建っているだけである。
ただ、志納料を納めて、小さな堂の内陣まで踏み入ると、そこには8mを超える立木千手観音立像を仰ぎ見ることになる。繊細な造りとは言えないが、それが逆に素朴で、まさに地に足が付いた観音様なのである。背は高く迫力はあるのだが、決して威圧的ではなく、佇んでいる参詣者を包んでくれるような存在感があり、仏顔もおっとりとした雰囲気をもっている。
恵隆寺があるところは会津盆地西端の丘陵の裾にあたり、ちょうど盆地を挟み真東に、山林修行で知られ東北地方への仏教思想を広めたと言われる「恵(慧)日寺」跡があり、その先には磐梯山を望むことができる。境内に立って、会津盆地を見渡しながら、「恵日寺」と同様に古代、中世を通じこの地は、前回紹介した白水阿弥陀堂とは異なり、支配者や鎮護のための宗教施設ではなく、民草へ仏教を伝え、広めた寺という感慨が浮かぶ。そんな感慨からこの千手観音堂を含めた恵隆寺の歴史的な意味を含め、東北における民草への仏教の広がりについて知りたくなり、少しばかり史料・文献を追ってみた。
この「恵隆寺」の淵源を江戸時代の地誌や「会津坂下町史」を頼って調べてみると、東北地方への中央朝廷の影響力が及んでいく状況と同時にもともとの自然信仰と融合しながら仏教思想が浸透していく様が手探りながら、推測も含め多少窺い知ることができ興味深い。これは、山形県で紹介した寒河江の慈恩寺などの流れと相通じるものがあるかもしれない。
まず、「恵隆寺」の淵源について詳しく記しているのは当然ながら「高寺恵隆寺千手観音縁起」だ。ただ、この「縁起」自体の成立期はわからないので、伝承部分も多いと思われるので、その点は注意が必要だ。
1889(明治22)年刊行の「会津温故拾要抄」に収載されているこの「縁起」を読んでみると、540(欽明天皇元)年に「稲川荘宇内村」(現在の会津坂下町宇内)で「唐梁国青岩ト云僧結庵 其頃日本ニオイテ寺ト云事不知 大唯高処有故名高寺 自是百二十余年過人皇三十八代斉明天皇斉明四(658)年戊午性空上人弟子蓮空爰来 旧庵改大伽藍草創号石塔山恵隆寺」としたこととなっている。すなわち梁僧「青岩」がこの地に庵を結んだのが同寺の始まりで、会津盆地を見渡す高台に位置していたので、「高寺」と呼ばれていたという。時代が下って蓮空がその庵を「石塔山恵隆寺」としたとしている。山号は現在の「金塔山」でなく、「石塔山」としている。さらに775(宝亀6)年に兵火で焼亡しているとしているが、この時期は寺号がすでに「恵隆寺」となっているにもかかわらず、なぜか「高寺」と表記している。ただ、その再建については、804(延暦23)年に「恵隆寺」の再建と記し、「高寺」の寺号ではない。
一方では、東北地方への仏教思想浸透に大きな役割を果たした法相宗の徳一が「恵日寺」を807(大同2)年に創建すると、「恵隆寺」も傘下に入ったとし、808(大同3)年には坂上田村麻呂を願主として「高寺千手観音立木以其長二丈八尺大仏並左右二十八部各六尺七寸弥陀薬師尊像皆空海作仏也賓頭慮尊者金剛力士二王運慶自作也利正(田村麻呂)建立」としている。これを素直に読めば、坂上田村麻呂が「高寺」に立木千手観音を建立し、恵隆寺に薬師尊像を建立にしていることになる。
ただ、その後の「縁起」での「高寺」の消息としては、文治・建久年間(1185~1199年)に廃されたともし、同じ記事のなかで、「恵隆寺」についても1190(建久元)年に一旦廃絶したとされとしている。その理由は当時、属していた「恵日寺」が平家に属していたので、平家の滅亡とともに廃され、その傘下にいた「恵隆寺」も廃絶されたのだとしている。さらに千手観音などの仏像類は、この時に現在地の「小金塔邑」(現在の会津坂下町塔寺)に移され、これにより「恵隆寺」の山号が「金塔山」になったとしている。
この「縁起」を読んでいると、「高寺」は「恵隆寺」の淵源であるとしつつ、創始者の「青岩」が開いた庵が「恵隆寺」であるともなっており、「高寺」としては途中伽藍堂宇の消失などもありつつも、「恵隆寺」と併存していたと思わせる記述にもなっている。
それでは、江戸時代後期の地誌「会津旧事雑考」はどのように記述しているのだろうか。
808(大同3)年の項に「伝曰将軍坂上田村麿弘法之勧化建于稲川荘恵隆寺」とし「今恵隆寺之旧地有金塔 後自山上移於塔寺之側 故合有塔寺之名」としている。つまり言い伝えでは坂上田村麻呂が弘法大師のお導きで恵隆寺を窪村(稲川荘=現会津坂下町窪地区か?現在地から西に直線距離で2.5㎞)に建て、その後「高寺」の寺塔があった現在地へ移ったとしている。そのため、山号が「石塔山」から「金塔山」となったと記している。なお千手観音については「高寺」にあったものだともしている。ただ、「窪村」が「山上」の同じ場所なのか、それが「青岩」の庵があった場所を指すのかは、よくわからない。
面白いことに、これらの記事の最後に「高寺者先宝亀乙卯廃云建恵隆寺於其遺址乎 若迄此頃高寺存乎」とも書き、775(宝亀六)年に「高寺」は廃されたとも伝えられていることからその遺跡の一部に最初の恵隆寺が建立されたのか、あるいは、「高寺」と「恵隆寺」が併存していたのか、と両論を併記しているのである。このあたりの経緯について「旧事雑考」の編者はよほど自信がなかったと思われる。
「会津旧事雑考」では、「高寺」の創始については「縁起」と同様に540(欽明天皇元)年の項に「或記曰稲川荘高寺建今遺跡在宇内」としており、前述のとおり775(宝亀六)年の項に廃絶の記事もあり、その時の寺院の規模は「往昔僧坊三千宇」ともしている。ただ、「縁起」にある804(延暦23)年の再建については「高寺」としても「恵隆寺」としても触れられていない。「縁起」と「会津旧雑記」を読み比べても「高寺」と「恵隆寺」の関係がもうひとつよくわからない。
そこでさらに「会津旧雑記」と同じ江戸後期の「新編会津風土記」において確認してみると、「窪村」の項で「高寺跡」について「村より十五町(1.5㎞)寅(東北東)の方山上にあり、山の高凡二十五丈(75m)秤計」にあったという。「旧事雑考」の「山上」と同じ場所を指しているようだ。ただ、「高寺は欽明天皇元年草創せしと云、其時は仏教未東漸せざる以前なれば如何なるものの開基せるにか詳ならず」と、当初は寺院としての形態を有していたかどうかについては懐疑的に記述している。
その後「高寺」は755(宝亀6)年に兵乱で廃絶し、「其遺趾恵隆寺と云寺を建立」しているとシンプルに記しており、「新編会津風土記」では高寺と恵隆寺の併存を否定している。「此寺は左計の巨刹なり」とし、周辺の村々にその遺跡が多く、「此寺」の古仏が移されているとも記している。ただ「左計」の意味はよくわからないし、項目から考えると「此寺」は「高寺」を指すとは思われるが、直前に「恵隆寺」の創建が書かれているので、どちらの寺院を指すのか、私には断定できなかった。
また、「新編会津風土記」では、恵隆寺から北へ2.7㎞ほどにある「南宇内村」(現会津坂下町宇内など)の項の「勝負沢」という地名について「恵日寺の衆徒高寺を責しとき、合戦ありし所と云伝う」としているので、前述の「宝亀6年の兵火」を指しているかは分からないが、何らかのトラブルが徳一によって勢力が拡大した恵日寺と高寺との間で衝突があり、これを契機に高寺が衰亡したとしている。ただ、こちらはどうも「恵日寺」の創建とは30年近く時期的なずれがあるので、信は置けない。「縁起」「旧事雑考」にもこの記事はない。
一方、「恵隆寺」についての「新編会津風土記」の記事は、「塔寺村」の項に「観音堂」として記載があり、「窪村」の項と同じく811(大同6)年に窪村において草創したとしている。つまり高寺の坊院跡に創建したということだろう。しかし、「縁起」では建久元(1190)年の廃絶後、現在地への移転の記事があるが、「新編会津風土記」では、移転の記事はあるものの時期は特定していない。
以上のように江戸時代の地誌や後代に書かれたと思われる「縁起」では、「高寺」と「恵隆寺」の関係やこの地にどのように仏教が根ざしたのかは、諸説があり、論点の違いもあってどう見ても不明瞭である。そこで1979年編纂の「会津坂下町史」ではどのように分析評価しているのか確認してみることにした。
まず、「高寺」に庵を結んだとされる「梁の青岩」の存在について、「町史」では、当時の会津坂下町内に遺る古墳群から推察すると「農耕の基盤の上に立脚した豪勢な支配者の存在を認めることが出来る。このように古墳文化があればこそ、梁の青岩も会津入りをしたことと考えられる」と、その存在については否定していない。考古学的な観点からこのことは大陸文化との交流を示すものとはしているとしつつ、この地域での仏教思想が浸透し、花開いたとは考えていないようだ。「高寺」についても「まぼろしの寺院高寺跡は、高寺山の頂上付近とか、中腹辺か、山麓等紛々として紛々として、いまだ確証をつかめていない」ともしている。
さらに仏教思想のこの地への浸透については、やはり807(大同2)年の徳一の会津入りが大きなインパクトになっているとし、「さん然たる仏教文化を築き上げた」と評価している。付近にある国宝に指定されている「勝常寺」の薬師如来像や国の重要文化財に指定されている上宇内の薬師如来像などがいずれも平安前期のものとみられ、その例だとしている。
ただ、一方で、同じ「町史」のなかでも伝承、文献的な評価からは古代の「高寺」の存在について肯定的に捉えているのが興味深い。「縁起」「会津旧事雑考」「新編会津風土記」などの評価から「豪族の支援のもとに高寺仏教文化の華が開いたものと推測出来る」とまで踏み込んでいる。そして「高寺は会津地方で最も早く建立された寺であると同時に、大和国家の会津地方宣撫の先達として布教の中心」だったのではないか、とまで書き込んでいるものの、「堂塔伽藍三千余宇とあるが、それらの遺跡はさだかでない」と考古学的な裏付けがないとはしている。
「町史」では現在の「金塔山恵隆寺」の創立には「遠く高寺に起因」しているとして、江戸中期の「新宮雑葉記」を引いて634(舒明天皇6)年に「恵隆」という僧が渡来し、「青岩の後を嗣ぎ布教に従事し、高寺と称した庵を『恵隆寺』と改めた」と説明しているが、しかし、青岩か高寺に庵を結んだとされる540(欽明天皇元)年から100年ほど経ているので、直接の後継かどうかを判断にするのに飛躍があるような気がする。
また、「町史」のこの記述は、「高寺」と「恵隆寺」がある意味では法灯をつないでいるとしており、江戸初期の「会津正統記」から引いて、658(斉明天皇4)年に天台宗の性空の高弟、蓮空が恵隆寺に大伽藍を造営し、「石塔山恵隆寺」としたとしているが、これでは性空は10世紀後半の人だから、全く時代が合わない。さらに前述したように「会津旧記雑事考」では775(宝亀6)年に兵火によって「高寺廃す」とし、この時点での寺号は「高寺」としているものの、兵火の原因には触れていないことは前述したとおりだ。
一方、「新編会津風土記」では、この兵火の原因を徳一の創建した「恵日寺」との抗争としているが、これも徳一が「恵日寺」を創建したのが大同年間(806年以降)だから、時代的には合わないと先に指摘したとおりである。そのためか、「町史」では「恵日寺」との抗争には触れず、何らかの形での蝦夷に関わる戦いであったと推測している。また、「町史」では、宝亀6(775)年の兵火焼亡後の再建について「縁起」では「延暦23(804)年」としているが、これには触れず、大同3(808)年に「徳一は、たい廃にひんした恵隆寺を企画」したとして、「東の恵日寺と共に西の恵隆寺として繁栄」したとしているものの、その遺跡については定かではないともしている。
この点は、「恵隆寺」が「新編会津風土記」では811(大同6)年に窪村において草創したと記述し、「高寺」とは法灯の断絶があったことを示唆しているのとは対照的である。また、「恵隆寺」の現在地への移転については「町史」では、建久年間(1190~年)に荘園体制の変化に伴い、恵日寺の勢力が衰えるとともに、寺領を消失した恵隆寺は山(窪寺も含めて)を下り、現在地に移転したとしている。これは「縁起」で記述している平家が滅亡し源氏が興隆したことによる、支配体制の変化という観点に通じているといってよい分析だろう。
残念ながらどうも「高寺」と「恵隆寺」の関係は「町史」を見てもはっきりしない。要するに「恵隆寺」の前史として「高寺」は本当に存在したのか?あるいは存在したものの、法灯は継続したのか、さらには併存したのかが、整理できないのだ。
ただ、ここにきて一定の判断材料が出てきている。それは「高寺山古墳調査」の2019年の調査結果の速報だ。この発掘結果から「八世紀末から十一世紀代の遺物が発見」され、「九世紀初頭には山寺が建てられ、その後何らかの理由で廃絶」し「十一世紀頃には大規模な改修工事が行われた」ことが分かったという。これは「縁起」や「地誌」に見られる804(延暦23)年に「恵隆寺」の再建、808(大同3)年の項に坂上田村麻呂の恵隆寺建立、811(大同6)年に窪村においての恵隆寺草創などの記述に対応すると考えてよいだろう。11世紀頃の大規模改修について、文献上の記述を私は確認できていないが、「町史」では「会津正統記」を引用して「蓮空上人が恵隆寺に住し、大伽藍を造営」と記し、明治期の「会津史」でも「斉明四(658)年僧性空の弟子蓮空なるもの来り住し寺を改築」としているが、もし蓮空が性空の弟子だとすれば、前述したとおり性空は10世紀から11世紀初頭の高僧であるから、蓮空の恵隆寺の伽藍造営あるいは改築は7世紀中盤ではなく11世紀に行われたとしても不思議ではない。
これらの発掘結果や文献史料から考えると、9世紀以前においても山林修行や山岳信仰など、散発的かつ自然発生的な宗教活動の霊場であった可能性はあるが、一定の寺院組織ができ、地域支配層や寺領の形成が伴う宗教活動が「高寺」において行われるようになったのは、仏教思想の東北への浸透が行なわれる時期であったと考えられよう。そのなかで、恵日寺を本拠とする徳一との関係が、抗争を経たものかどうかともかくも融合されていったとみるべきであろう。
もちろん、こうした寺院勢力が形成されるからこの地を支配する豪族がいたことは間違いないだろうし、男鹿半島の「なまはげ」神事に関わりのある赤神神社の伝承でもすでに紀元前の前漢との交流の伝承があるくらいなので、この梁からきたとされる仏僧「青岩」などの伝承には歴史のロマンを感じるし、少なくとも7世紀には大陸からの影響を受けつつ、何らかの原初的な霊場的な場があったのでないかとも思い巡らしたい。
もっとも、柳田国男は東北地方と大陸との交流については肯定しているものの、男鹿半島の伝承は、中世における、修験者たちの宗派争いの結果うまれたもので、「漢の武帝だの蘇武だのという物々しい縁起は、上古以来のナマハギの信仰を、大切に持ち伝えた素朴なる村人に向かっては、あまりにも縁の乏しい外国文学の応用であった」とにべもなく、中世以降の創作だとしている。
9世紀以降のこの地の仏教思想の浸透については、現在に遺された仏像群の存在からもこの発掘結果について肯けるものがある。恵隆寺から東へ8㎞ほどのところにある湯川村の勝常寺は、「徳一」が807(大同2)年に開創したと言われる寺だが、その本尊の薬師如来坐像と脇侍の日光・月光菩薩像は国宝に指定されており、平安初期、9世紀のものといわれ、また、上宇内薬師にある薬師如来坐像は高寺の36坊のひとつだったと言われる調合坊の本尊だったといわれ、藤原時代の初期、10世紀初めの作という。
恵隆寺のもともとの本尊の観音像は弘仁年間(810~824年)に「徳一」が自作だとされ、現在の立木千手観音立像は安置されている観音堂と同じく建久年間、鎌倉初期(12世紀末)の作とみられている。これらの仏像群の造仏は高寺や恵隆寺の宗教活動が組織的に活発化し、また収束していったとされる時期とも一致している。
以上のことから、「高寺」と「恵隆寺」の関係について推論しておきたい。
両寺は個別の寺院または寺院組織ではなく、「高寺」は会津坂下の市街地の西にある丘陵地とその麓にあった霊場の総体を指し、「高寺」に形成された山林修行者や修験者たちの院坊のひとつが「恵隆寺」であり、それが寺院としての体裁あるいは組織化されたのではないだろうか。
「高寺」が廃絶したという建久年間以降、「高寺下ろし」と称し、「恵隆寺」のみならず「定林坊」「調合坊」などが平野部に堂宇を移し、仏像群を受け入れたという事象にも照合する。また、地誌や縁起などの錯綜した表現や時代の誤認と思われる記述も一定の理解が出来る。さらに恵日寺と両寺の関係についても推論の域だが、自然発生的な山岳信仰や山林修行の活動の場であった「高寺」が徳一の影響下で統合され、恵隆寺を中心にその傘下に組み込まれたと考えられないだろうか。
結論は結局のところ推測の域を出ていないが、今後、さらに発掘調査などを通じ、もう少し明確な「高寺」「恵隆寺」の輪郭、さらには仏教思想の東北への浸透の実態が見えてくるだろう。これだけでも、この観光資源の奥深さを感じさせてくれる。
現在の「立木観音」は優美とは言い難いが、すっくとした立ち姿は古代から中世初頭の東北の仏教の有り様をそのまま映しているとも感じられ、伝承や多くの未解明な部分がのこされている「高寺」、「恵隆寺」の歴史に思いを馳せるには格好の場所である。できれば、事前の連絡が必要だが、勝常寺や上宇内の薬師如来坐像も鑑賞しておきたい仏像群である。いずれも海外や奈良・京都などから東北にもたらされた仏教文化の結晶ではあるが、会津の地域の息吹や特性も同時に感じさせると言っても良いと思う。ぜひ訪ねることをお勧めしたい。
ただ、気になるのは、地方のこうした神社仏閣やそこに収蔵されている仏像仏具などが、きっちり保管・保存され、公開され続けることが、高齢化と人口減少が急激に進む地方において可能なのか、現状をみてみると、心配になってくるのも事実だ。
参考文献・引用文献
「大日本地誌大系 第33巻 新編会津風土記」雄山閣 昭和7-8年 139/178 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1179220/1/139
菊池研介編「会津資料叢書 第4 会津旧事雑考. 第1-3」大正7年 21/80 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/926590/1/21
「会津坂下町史3(歴史編)」1979年 71など/379 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9641837/1/71
「会津坂下町史2(文化編)」1976年 61など/294 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9640725/1/61
宮城三平「会津温故拾要抄」明治22年 2/116 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763178/1/2
柳田国男「雪国の春 おがさべり―男鹿風景談―」 引用:青空文庫による
広報あいづばんげ「会津最古の山寺跡 高寺は実在した」平成31年1月号
https://www.town.aizubange.fukushima.jp/uploaded/attachment/4226.pdf
佐藤儀八「会津史」1~2巻 明治28-30年 58/137 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763180/1/58
「本朝高僧伝(性空)」49巻 2/45 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1089684/1/2











